記憶だ。記憶に腹を立てる
1996年07月24日(水)
右斜め後方、後頭部から首にかけておかしい。クソしてふんばってみても痛む。そんな大したことではないだろうけれど、何なのだ?寝違えた?いや、帰ってくるまで気づきもしなかったではないか。
しかし最近、というか、正確な日数はわからないが、やけに腹が立ったり、頭にきたり。別に目の前で面倒事があったわけではない。記憶だ。記憶に腹を立て、頭にきているのだ。くだらないこと極まりない。しかし、何故?いや、俺自身は変わっていない。小5や小6のときも、中学のときも、高1のときもそうだった。ただ、高2〜3は、特段穏やかとは言えないが、とにかく特別不寛容だったわけではない。ストレスなんぞは弱者のもの。俺はストレスがたまってなどいない。怒りは一瞬のものなのか、ストレスを分解しているのか知らんが、日々のストレスはほとんどない。しかしならば、なんで怒る?やるべきことがあるときに、目の前のことではない記憶に対して別の感情を持つのも弱者だ。俺とて好きで怒っているわけではない。中学時代は怒るのが生き甲斐だったような気もするが。怒るのは、それによってストレスを解消しようと、頭にも健康にも悪いに決まっている。ほとんどの場合、その怒りには意味はない。ほとんど、いや、すべてが過ぎ去ったことで、もうどうしようもなく(たとえその時の相手をどうしようと記憶に対する怒りは自分の脳の問題なのでどうにもならないが)、さらには怒るべき理由もない。この怒りは反射的なものだ。その瞬間を回想(いや連想か?どちらにせよ好きでしているわけではない)した瞬間、何も考える間もなく頭にくる。平常時に思い返してみると、どうということはないことなのに。
まあいいや。今は何を考えても冷静だ。さっきまで怒っていたから爽快なのかもしれない。
何でもいい。くだらない怒りは過去の記憶に結び付くものから連想される。そして腹立たしいことを思い出し、だんだん腹が立つ。そして、こう言うべきだった、こうするべきだった、コンチクショーと発展していく。次第に。
今日は自習室まで行ったが、やはり帰った。予復習を圧迫してはならないからだ。
現代文……わからん。問題を解く前に、文章を読解できていない。何故だ?感覚に頼りすぎか?EZ先生の偉大な授業をいつでもど真ん前で聞いている。しかもペンは持たずに。聞いてわかるのならばそれでいい。でもわかってないだろう。書くか?でも書いて、復習できるか?ノートよりも、テキストをコピーして、それに書き込むか。とにかく予習をしっかり、復習もして、読み返しも。現文は慣れだ。と人に言っているのは俺だろう。
懐中電灯配布(貸与)。俺、3つも懐中電灯持っているんだけれど。まあ貸与されたのは単2だけあってパワーが違う。自前のはハロゲン球高性能といっても単3では勝てない。
ビタミンC剤が切れた。許容量の2倍ぐらい喰ったな。死なねーだろうな。水溶性だから大丈夫だろうけれど。喉も痛くなって喉の薬まで飲む。そして皮膚科薬も。飲みすぎだ。死なねーだろうな。
英解の予習、やっぱり苦にならない。しかも100文字ようやく。辞書なしでできた!結構自信がつくぜ。
明日は帰釧だが、たぶん人に電話できるときには着かないだろうな。
1つ。今日思い出した腹正しいこと。俺は幼少のとき、礼儀作法について教えられたことは一度もなかった。それが親類の会合に行くと、突然なっていない、と。礼儀作法も挨拶文句もわからないものはわからない。ということを話していたら、姉にそんなものは当たり前だ、言われなくても見ていると覚える、というようなことを言われた。しかしが気に「当然」はないんだ。見て覚える、それはそうだろうが、そもそも俺は見た記憶さえないことについて言われた。第一がガキにそこまで要求するか。言われんでも見て覚えて実践する能力なんてそうそうはつかないぞ。当時は小学校就学以前で受け入れ態勢もできていないのに。まだ覚えて正しいふるまいを見出して実践する能力なんかそうそうつかない。すべては時間をかけて発達させて慣らしていくものだ。
ああ、やっぱり書けば爽快だ。なんで、ここに来てから自分を不寛容と思ってしまうようになったかは、怒り(ストレスではなく)の発散手段をやめてしまったからかもしれない。高校3年生の2学期後半はそのための日記で勉強しなかったからな。
どうでもいいけれど、この日記、あとで読めるか?たぶん読めるけれど読みにくいね。字を解読できてもわかりにくいところも多々あり。書き直しはしない一発勝負だ。そのためにボールペンで書いてルーズりーーふ使っているんだから。
この日のカネの動き
なし
財布残高 2,649
解説
後頭部から首がいたいというのは単に一過性のものだったのだろう。それはそれとして、ビタミン剤を嗜好品がわりに食いすぎて健康への影響を心配するなど、間食を一切しないかわりにちょっとした刺激にすぐにはまってしまう。嗜好品がわりになるうるものの計画的な消費、難しいものである。
記憶に対する怒り、今も昔もむずかしい問題である。他人はどうか知らないが、私は記憶に対して怒る頻度が高い気がかなりする。それも上で書いているような他愛もないようなことが、ある日あるとき突然何らかの連想によって思い起こされて、腹を立てるというものだ。私は兄弟ともいとこ達とも年齢が離れていたので、親類の寄り合いなどにいっても、そもそも何をしに、何のために集まっているのかさえ理解しておらず、当然そこで挨拶文句なんか出てくるはずがなく、適切なふるまいはもっとわからず、叱責されたことを根に持っていたらしい。他愛もないことだ。しかしそうしたことでさえ突然思い返されて腹が立つ。予備校時代はそういうことが高校時代よりも多くなったと自覚している。高校時代には、怒りや理不尽について自分なりに吐き出し整理する時間をかけた(この両国日記よりもはるかに)日記が心を落ち着かせ、また、ささやかながら密接な友人づきあいが物事を上書きしていた。しかし予備校ではそれらがなくなったことが大きいのだろう。
ここでは「弱者」ではないということを強調しているが、両国において克己して自助努力を重ねるエネルギーは、「侮られたくない」という他者評価(そんなものが本当にあるかどうかはともかく)を強く気にしていたことが根底にある。ここで何もできないようでは何もできない人間だと侮られる、と。しかしこれは自分が自助努力するための呪文としてつかっているうちならいいが、巷間で口に出すと他者を裁く暴力になりかねない言葉であるのはずっと後年に知ることになる。