深夜の脱水症状
1996年07月28日(日)


 なんと眠いのか。いや、眠いというより、疲れているといった方がいい。細胞のひとつひとつが疲弊している。昨日はさして勉強していない。きっと、夜、寝苦しいせいだろう。暑くて、気持ちよく寝られず、寝ざめも汗だくで、却って疲れているような……。今日、寮監さん回ってくるのが過ぎたら、寝ちまいたいくらいだ。やること結構つもっているし、英単もできる限りやりたいけれど、机の前で立ち膝するとか、そんなLVのことじゃない。寝なければいいとかいうものでなく、疲れている。しかし疲れているなんて、納得いかん。寝苦しいだけで、こんなにも!

 そういうわけで12:00まで寝た。セロテープで、寮監さん来たけれど寝ていてわからなかった、ということがあったかチェックする。大丈夫だ。昼食の放送で起きる。右のテーブル、藤田氏から坂本氏まで3人いない。しかもうちの五十嵐氏まで(寝とる)。

 そして今、買い物行って休んでいる。疲れているというのでドリンク(栄養剤ではない!俺はそんなものに頼らない)を買う。単なるアクア・ブルガリアとかいう清涼飲料水じゃ。-100円 +余計なカロリー。まあいい。身体重いけれど、仕方がない。やるだけだ。疲れとるから休むのは朝で十二分。んなことで休んでいたら、2月になってしまう。

 文人と呼ばれる人について読むのは面白い。教科書の国語便覧でもな。文学や芸術というものは、別に特別なものとは思わない。どんな理由で、思いで創ろうと、やりたくて創り、そして、見る人読む人は、見たくて読みたくて鑑賞し、その人が何か思えばそれでいい。鑑賞者は鑑賞したいものを鑑賞し、満足すれば、それがその人にとっていい作品だ。芸術性とか質とかいう評価もあるらしいが、俺にはよくわからん。そのとき大変満足しても、しばらく見ると大したことがないと思うようなものは、結局芸術ではないのか?いや、芸術云々なんてどうでもいい。読む人見る人が評価するんだ。でもまあ、作者の言いたいことを無視、というか勝手に解釈するのは気にくわないことなのかもしれないが、それは仕方がない。
 文人のことを読むと結構死にさらす人いるね。それに、ニヒリズムだのデカダンスだのという人も。何思ってんだか、悩んでたんだか、狂ったんだかは知らん。人それぞれにそういうものはあるじゃろう。だが、聞き苦しい。というか気に食わないものもあるね。人と人との関係は所詮偽善だの、見せかけだの、虚実だのと。思いたけりゃ勝手にどうぞ。死にたければご自由に。言うのも作品に昇華するのも勝手だが、俺は気にくわん。目の前にそんな奴がいて、そんなこと吐きさらしたらどうするか?別に説得なんて愚挙はしない。思いたい奴は勝手に思えばよい。だが、俺は思ってもいないことに相槌を打ったり、そんなことを自分に対して言われて黙っているような人間ではない。いちいち当然のことを仰々しく言う奴はまだいい。そう言ってやればよいのだ。「いちいち当然のことを仰々しく言うな」とでも。そんなこと言ったら、俺まで現実と称して悲観的になるサル野郎や、クール、ニヒリズムと称して全ての価値を否定する不愉快なバカととられかねないか?しかし人に対して、見せかけだ、偽善、虚構だとほざくバカがおったら何という?俺はこれで満足しているんだよ、とでも?いいや、ウソを言っていると思うだろう。無理をしている、そんなことがあるはずがない、本当のことを言え、何が満足だ……etcと。別に説得などしない。そいつがわかるときがくる(としたら)まで、わからないのだから。しかし甚だ不愉快だ。俺はあんたのような弱者とは違う!人のことを好き勝手ほざくなこの野郎!とでも言うか?言ったところでどうにもならないけれど、言わないよりはいい。

 俺は倫理というやつを、人の痛みを自分のものとできるかどうか、ということだと思っている。そう、人に対して倫理的な行為を行うのは全て自分のため。自分の心のためそれでいいのだ。「情けは人のためならず」と同じ精神だ。これが社会のシステムであり、これは後天的に身につけるものである。それをやさしさなんて所詮は自分のためにやってんだろう、なんて言うやつには言ってやりたい。いちいち当然のことを仰々しく言うな!とな。後天的というのも重要なところだ。社会が違えば倫理もことなる。その人の生まれた環境次第なのだ。だから唯一絶対の倫理なんてあろうはずがないし、倫理なんて甘っちょろい寝言だ、なんて言うのもアホらしい。
 そういえば『エヴァ』の記事(Newtypeの)で、理由のないやさしさなどない、とほざいていたボケがいたな。あったりめーじゃん。理由のない行動、情緒なんてあるかい!いちいち大袈裟に構えやがって軟弱者が。しかしこの「理由」、何か利益を求める、という意味合いで用いられているように感じる。かわいい女の子だったら誰でもやさしくするだろう、だと?バッカじゃねーの!?誰でも?まず、かわいいから虐げる奴もいるじゃろう。バカだったら特に。多分男、それも若者に限って言ってるのだろうけれども。ここからしていかにいい加減な文章なのかわかるが、さらにかわいい女の子にやさしくするのが当然としても、それはなぜか?肉体的なあからさまな欲求(=利益)とでも?自分をアピールしたいってか?俺はかわいい女の子ならば、その痛みを自己に取り込めるので、そこから自分の心苦しさのために行動を起こすと思うが、ただ印象を良くして後に備える(その人との付き合い、特に肉体的欲求や、第三者への評価など)ための作為ともとれる(この場合は相手のことをどうとも思っていなくても、倫理の対象としなくてもよい)。たぶん、この文章を書いた三文ライターは後者のことを指していたと思えなくもない。とにかくいい加減な文書くな!ついでに娯楽雑誌でガキ相手に説教するな、というやつだ。
 そうそう思い出したが、こんちくしょーくたばる、と思うやつにも「やさしく」(という語が何を指すのか知らんが)接することもあるだろうそれは社会の中で必要なやり方なんだから、いちいち作為だ、虚偽だ、と騒ぎなさんな。でもよー、いくらこの野郎と思うやつでも「やさしく」接しないまでも虐げることはできんわい。少なくとも俺の倫理、(程度によるが)そんな奴でも苦しむ人間を見て平気ではいられない。特に自分のせいならば。まあこの文書いたバカは、必要以上の「やさしさ」を期待していたのでは?というかある形の倫理が、人間の本質かのように思っていたのでは?
 この倫理は、怒りとはまた別だ。腹が立って頭に血が上りまくって、ぶっ殺してやるなんて言うときは、その怒りをぶちまけることしか頭にない。でもわかる。殺しなんてしたら、俺の方が一生苦しむだろうな、と。怒っているときは相手を対等などとみなしておらず、そいつを破壊してやろう、俺が本気だと思い知らせてやる、なんてことで一杯だけれどな。このとき倫理は機能停止しているのか、押しつぶされて見えないのかはわからん。だが、倫理と怒りは相反するものでもないな。
 いやこれは何とも言えん。考えてねーことをいきなり書くからわけわからん。

 今日のノルマはこなした。最低限だ。本当ならば、英単をやってやってやりまくるつもりだったが、仕方がない。毎日言って3級、意地でも終わらせよう。

 布団干した。3か月ぶりだ。シーツに至っては洗濯もしとらん。
 取り込んだ布団を冷ますために、広げていた。その上を素足で歩く。なんか和室で布団の上を歩くのを思い出す。懐かしむ?たしかに、もうあの家は「実家」であり、住むことはあるまい。そんなことはわかっている。高校も終わった。友人も散り、それぞれ新しい生活をしている。当然のことだ。でも、なんか高校4年生というか、ちょいと1年、他所で強化合宿しているという感じだ。もちろん高校時代に、あの制服を着て、湖陵の校舎に行くということはない。わかりきっている。わかりきっている当然のことだが、いまだに実感がわからいところがある。いや、そもそも実感って何だ?いつもこうだったじゃないか。中学校だって、ただその日(入学式)に制服を着て、その校舎に行き、卒業式に出て、帰って、そして行かなくなった。高校だって中学ほど惰性的ではなかったかもしれないが、出るときはやはりかわらない。両国も、ただ飛行機で運ばれ、電車を乗り継いで16号館に行っただけだ。83寮だって、行くとき少し恐れていたところがあったが(こんなの、どう寮監に挨拶しようとか、というくらいのもの。寮が恐ろしかったのではない)、部屋に入ると、もう千年もいるみたいだ。
 卒業などの節目のときに、劇みたいに泣いたりしたことはない。叫び、笑い、抱き合うようなことなど、見たことさえない。こういうものは、あとからゆっくりとしみてくるものなのだろうか。昔の人はそうではなかったという。現代っ子は涙も見せぬ、と。なぜ?俺も泣けるのなら泣きたかった。でも、いくらそんな気持ちになってみても、反応なし。これの分析は面倒だ。後にしよう。
 ただ入り、そして出ていく。単なる通過点じゃないのに、少なくともそう思っているのに、感覚としてはそうではないというのか?

 来年は何しようかな。勉強第一はかわらん。書物は売りも捨てもしないが整理する。これからも買い、読み続けるものは選ぶ。ゲームはどうしよう。NEO-GEO CDを筆頭にすべて持っていく。NEO-GEOはスティック追加。あと新式のが欲しい。パソコンは残念ながら1台だけ、新品を。98/VかTOWNS/Vなら資産の半分は生かせる。俺はそうはしないだろう。DOS/VはDOS/V。しかしゲームマシンは適当にできるが、パソコンゲームは時間喰う。まあそれなりにな。
 サークルは何やろう。勉強中心だらなあ。射撃はならない。散弾銃買うけれど、.22LRの穴あけはやらない。漫研?ゲーム?探検?犯罪研究?まあ、大学の合格した日に考えよう。わからんもん。



 自分の気が狂っているのではないか。そう思ってしまいそうだった。
 今はAM2:40。この深夜に目覚めたとき、すべてがおかしく感じられた。モノが屹立している。なぜ?それはともかく、俺の存在の中心がここに集まっているかのようだ。どんな格好で寝直そうが邪魔なので、処置をして寝かせた。今書くとこんなもんだが(プロローグに過ぎない)、今まで起きてから、どれぐらいの時間がたったか知らんが、俺の存在を認識できていなかった。俺は1人だ。なんのためにここにいる。俺はなんだ。肉と魂とが分離しかかっているんじゃないか?いや、こう書くと哲学的苦悩のようだが、全く違う。身体のことだ。肉体の感覚だけの問題なのだ。もう覚えていないし、思い出したくもない(ウソ。思い出したいけれどできない)。今の俺はどうやらいつもり俺らしい。呼吸も楽だ。今まで、毒ガスでもまかれたか、と思うほど苦しかった(窓開ける前からだし、目に染みてもいないので、違うの決まっているが)、喘息の発作かと思いもした。
 どうやら、俺は正気のようだ。たぶん、目が覚めたのだろう。今までは寝ぼけてとち狂った錯覚でもしとったのだな。それとも文章を書いているうちに脳が起きたのか。
 眠さもある。狂気の時には眠さなどなかった。しかし寝苦しいくらいで、取り乱すとは情けない。湿度、温度、いくらか?窓開けて、布団跳ね飛ばさなければやっていけんわい。
 しかし狂気の時間、何を考え、もとい、思っていたっけ?

 俺は1人だ。他人の感覚はない。誰かの魂でもまじったんじゃねーか。身体と魂とが分離しかけといる。自分の足を見て、足の指に爪を立ててもると痛みを感じはするが、自分と認識できない。あと、目的がどうこうなんて弱者だ、と思いながら、俺は何のために存在する、というようなことも。これも考えたのではない。感じたのだ。肉体だ。彼は学生だ。学部とか分かれていない。選択していないむ。ただの予備校生だ(こんなこと思ったっけ?)。たぶん、自分が1つと認識できていなかったのだろう。
 しかし不快極まりなかった。自分にこんな弱い面があるとは。たかが蒸し暑いぐらいで。そういうことじゃなくて、ただ変な目覚め方をしただけかもしれんが。
 病気で入院して、気が狂う人がいるけれど、俺もそうならないとは決して言えまい。
 あー、こわかった。ねる。
 しかし息苦しい。あついとは思っていても、人間としての落ち着いた感覚はなかったかも。神経がおかしい。足が神経過敏になったときと同じメカニズムだ、ということも最中に思った。そうだ。神経だ。
 もうAM3:00。寝る。せっかくねむくなってきたし。


この日のカネの動き

のみもの アクア・ブルガリア -100
水 -200
宅急便 くろねこヤマト -1,240
コピー -40

財布残高 10,006


解説
 朝起きたら疲れているというのは、まず間違いなく、クーラーを使わず、締め切り、その上なぜか布団をしっかりとすべてかけて寝ているがための脱水症状である。朝起きたら汗だくで、朝起き上がるときが一番疲れていた。睡眠の質がよいはずもなく、身体には負荷として蓄積し、昼でも疲れているはずである。そしてこれが、この夜の深夜に危ういところまでいったのが、深夜2:40以降の記述である。脱水症状でいよいよ脳神経が誤作動を起こすにいたり、錯乱していたとみるべきだろう。ペンをとって書きつけようとしていたときはすでにある程度落ち着いていたはずだが、それまではわけがわからない思考をして錯乱し、とにかく不快にさいなまれていたようだ。危ういところだった。下手をしたら、熱中症のためにここで死ぬなり障害が残るなりしていたかもしれない。後の時代、気候変動により東京がより暑くなり、そんな中で、東日本大震災後の電力不足を受けて節電に励んだところ、熱中症で取り返しのつかないことになったという話を聞いている。私もこの日あたりにもう少し条件が違っていたらそうなっていたかもしれない。

 ただ暑くて寝苦しく、睡眠の質が落ちていたり、暑さで疲労してりしていたのは、程度の差はあっても他の人も蒙っていたことだからこそ、だからこそ昼食にずいぶんの人が寝過ごしたのだろう。

 疲れているとらドリンクを飲む、という記述に、ドリンクとは飲み物の意であって栄養剤ではないとわざわざ断り書きをつけているからには、当時は栄養剤への忌避感情があったのだろうか。ただ、予備校時代の後半には栄養剤を飲んでいた記憶はある。

 文人については、テレビ番組『知ってるつもり!?』などで文人の生涯を取り上げた回を好んだり、国語の副教材として配布された国語便覧を好んで読んでいた。そして続く芸術論については、表現したい人間が表現し、観賞したい人は鑑賞すればよいとその欲求に従えばそれでいいという極めて素朴というかプリミティブな見解をしているのが若さか。そして続く、文人によくみられる苦悩や葛藤についての見解や、雑誌『Newtype』のちょっとした記事に対する反感などを書きつられているが、これも自分の感情をすべての根拠としつつ他者の「弱さ」を責め立てるのは素朴というより残酷でさえある。そして責め立てている「弱者」には高校時代における明確なモデルがおり、その人物の「弱さ」ゆえの言動の不快さがこのとき筆を運ばる原動力なったはずだ。
 なお、繰り返されている「倫理」という言葉は、あるべき考え方の体系という意味ではなく「共感」という意味でしか用いておらず、共感するかしないかでしか物事を測れないのも他者への態度の限界というべきか。当時はまだ、葛藤や苦悩というものを自分とは無縁のものだと思っていたのが、家庭でも交友関係でも教育環境でも経済環境でも恵まれて育った人間の無邪気さというか。学部時代まではその延長で生きていたし、学部卒業後少ししたあたりからこの日付の日記を書き起こした日に至るまでの間は、まったく別の精神状態で生きる人間となった。若き日の無邪気さと自己肯定の強さはとてもまぶしい。そして危うさも覚える。

 布団については、(いつでも出入り自由だったわけではないので解放された日のみだったか)屋上で干すことができた。夕方までに屋上に布団等を干したまま取り込まなかった人間がいた場合、ペナルティとして全員が屋上で布団を干すことを禁じられた。ペナルティの原因となるのが怖かったのか、単に面倒だったのか、取り込んだ布団が熱を持って冷ますので面倒だったのか、そして冷ますために畳に広げていると学習時間に寝ていると巡回してきた寮監に見咎められるのが怖かったのか、ほとんどまったく屋上は使わなかった。


 18年間住んだ郷里から離れて別天地に来たことは、物珍しく不思議な体験だった。「帰りたい」などとはまったく思わず、寮の6畳の机しかない和室に入った瞬間から自分の居場所と感じてくつろいだものだが、ただ、少し前まであった釧路や高校や実家の風景がなく、まったく別世界の東京や予備校や寮の景色があることが、ときどき不思議に感じられた。ただ、同時に今が仮住まいで、「高校の強化合宿」か何かで釧路の、高校の日々から少し離れており、1年終わるとまてあの釧路の高校の日々が始まるような錯覚もどこかにはあったようだ。もちろんそんなものはないが、これは卒業などでこれまでの生活が一区切りつき、今まで毎日通っていたところに行かなくなると感じる、習慣の残滓みたいなものなのだろう。それよりもこの予備校時代には、新しくはじまる東京の大学生活が待ち受けており、それを楽しみにしていた。大学生活においては何をしようかとここでも思い描いている。もちろんどこに行くと決まったわけでもないので、何をすると決めることも困難なのではあるが。
 実際にはここで描いたようなゲーム機は持ち込まなかった。NEO-GEO CDを実家から取り寄せたのは学部に入ってかなり後になってからである。また、新しいDOS/Vマシンを買ってそれ1台だけでやるのはその通りになった。PCゲームはあまりしなかった。ただ、学部の後半にはPC自作を覚えて複数のPCを設置したり、人間の家にいって人がプレイしているエロゲの画面をながめて楽しんだりはした。射撃部の門をたたくことはなく、棒術部という奇怪な武道部に入ったのではあるが、勉強はほとんとにろくにしなかった。5年で卒業できたことさえ奇跡に近い(ほとんどの単位は4〜5年次にとった)。このありさまについては「両国ですべてを使い果たしたのだは」とも言われたものだ。しかし若き日を楽しんだぼんくら学生として学生生活が終わるわけでもなく、学部卒業後もロシア語学校に入り直して0から語学をしっかり学び、さらには院試対策として学部ではろくにやっていなかった政治学の基礎について固め、そして大学院にも入った。さらに後になると2つ目の修士をも取った。そして生活から多くを排除して語学を繰り返しやるような人間にいつの間にかなったりもした。先はわからぬものである。


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