書いたそばから文字と考えとが乖離する
1996年09月04日(水)
何か腹が重苦しい。考え込みなどせず、勉強をしていても、それが必ず頭のどこかにある。考えを制御できない奴は結局は弱者だ。やるべきこと、自分のやりたいことに支障をきたすのならば尚更だ。だから、なるたけ勉強に気合いを入れようとする。ここで一計を。布団を殴ってみることにした。別に布団を誰かに見立てているわけではない。ただ殴る、ということをやってみた。久しぶりに殴るという行為をした。実戦で大丈夫かな。やっぱり空手の類は実戦的なのかどうか疑問があるが、そうしたもので細かな動作で慣れていると有利かも。まあ、それとて実戦でどれほど役に立つかわからんが。殴るときは近づいてないとダメだな。なんてことを考えていた。右腕が疲れた。右腕が疲れただけだし、頭の中にあったこともどんなもなっていない。しかし胃は軽くなり、頭の中は素直に勉強が入るようになった。
俺はストレス解消なるコトバが好きではない。自分のストレスぐらいは自分でなんとかしろ!特に外にたたきつけるのはみっともないことこの上ない。でもストレス解消もやりようだ。俺はストレスをたたきつけたんじゃない。運動をしたんだ。エネルギーとして昇華したんだ。まあ、そんなにやることでもないが、まあ、こういう手もある、ということか。
今日は10時間突破した。やっぱり、詰めて勉強するものだ。上の文は10分で書いた。この日記全体に言えることだが、一瞬で考えて書いているから、考えと文章との差異がでかいんだよ。文字を書きつけた瞬間、いや、文章を考え出した瞬間、すでに違うんだよ。それと、瞬間の感情によるものだから、かなり極端に激しくなったり逆に活きがわるくなったりもする。でも、そんな大層なことではない。たいしたことを書いていなくても、読む人(が、もしいたら)はどう解釈するか。高校の■■君にせよ、■■先生にせよ、コトバやあらゆる動作、表現は、媒介手段に過ぎないことを、理解しているかもしれないが、心情としてわかっていない。
少し焦ったかな。寮監さん、巡回のときに「大学も競争率厳しいから」と。当然のことだ。でも、言われるとけっこう、いや、少しは圧力になる。ようするに気合入れろということだ。俺はまだやれる。詰めていける。気合いを入れられる。
しかし玉川大、初年度149万ぐらいか。■■氏が断念したのもわからないこともない。うちなら払えないこともないが、ほかの大学と50万は違う。明治・中央・法政は90万ちょっとだもの。もちろんここらに入れば文句なし!しかし、その下は?玉川と専修2校だけ(東海は目に入っていない)。明・中・法全滅のときはどうする?受かるからいい、とか、わるいことは考えない、なんてのはバカのやること。いつでもあらゆる事態を考えるのだ。法学部を1つばかり受けておくか。政治学科はこのレベルにはない(駒沢は法文、成蹊は好かん)ので、政治学コースのあるところ。明治学院?あまり気に食わないな。いいんだ。上に受かればいいんだから。いや、行きたくないところは受けるな。
今日、何考えてたかって、進路のことじゃないッス。山田氏の学校でヤク中のやつがおったそうだ。目が死んでいたとのこと。関東はヤクとの距離が近い。いや釧路だって薬物が摘発されている。が、絶対量や距離は都会と違う。
なんというか、世界観についてというか。例えば、ヤクやっているガキのこと、「そんなにいない」と言えば、「そんなことない」、と。いることは事実。しかし正確な数は誰も知らん。ここからは個人の主観なのだ。実際近くにそういう死人がいる人もいるだろう。俺のように(たぶん)見たこともない人もいるだろう。環境も関係するな。その主観による認識の問題とその差異について考えていた。いや、それが頭にこびりついていた。ヤクだけではない。性も、流行も、いろいなことをまぜる。俺の思想は、「あるものは、ある」「存在し得るものは、存在し得る」。それだけだ。そうした現実、自然(森林とかのことではなく、老子のいう無為自然の意)をそのまま受け入れるだけのものだ。例えば倫理などは人為的なものだ。などというと軟弱な、「善なんて所詮は作為さ」とほざいていそうなバカと思われそう。だが、全く違う。俺は物理的世界こそが当然の基盤としているので、あとから付け足したものを絶対のように見ていない、というだけのこと。倫理は大切。だが、それは個人の内においてのみ意味がある。もちろん他人のそれと共通部分もあろうが、その共通部分こそが社会倫理というべきか。
何言いたいんだかさっぱりまとまらん。AM12:00、ねる。
この日のカネの動き
水 -200
財布残高 19,749円
解説
若き日の私は、自由意志が存在すると確信し、意志の力で物事を解決できるとも確信し、それができないものは「弱者」であると切り捨てていた。「弱者」であってはならないという若者らしい意気は、両国時代における自律と勉強の推進力となり、中学高校でも学部においても物事を為したり自己を律したりする強い動機となってきた。その点では若き日の私を形作った発想といえる。しかしもちろん、自由意志など存在しないし、人間は社会的にも脳神経の生化学的にも環境に大きく左右されるし、ニューロンの束の中心に指揮者のような核があるわけでもない。条件が違えば、あるべき目標を持つこと、あるべき目標へ向けて行動を推進することは困難となるのだが、それについて「弱者」と切り捨てるのはいかにも自信に満ちた若者らしい冷酷さである。若き日の私は長らくそういう人間であり、意識的にも無意識的にも少なくない人間を傷つけていたことだろう。罪深い話である。
私がMARCHという大学区分のカテゴリーを知ったのは予備校時代であるが、このときはまだ知らなかったようだ。MARCHに入ればそれで万々歳という目標を持ち、入れそうな感触を得て期待しつつも、入れなかったときのコンティンジェンシープランについても考えている。ここで嫌っている学校は、瀟洒なイメージの大学、軟弱なイメージの大学らしいが、そのイメージの根拠はせいぜい「キリスト教系」「お坊ちゃん学校という評判」みたいなおそろしく雑なものであった。入りたくないところは受けるべきではないというのはその通りで、雑なイメージであろうと直観に従うべきかもしれないが。
山田氏の高校に違法薬物をやっている奴がいた、という話の真偽はわからない。わかることは、この世に違法薬物があり、日本国内にもある。高校生も違法薬物に手を出すことは物理的には可能であり、実際高校生が摘発された事例がある(予備校時代にも夕食時のみつけられているテレビニュースでやっていたりもした)。つまり、違法薬物をやっている高校生は日本に存在する。それだけである。その数が多いか少ないか、価値判断をどうするか、過大に反応するか過小に無関心でいる。それらは個々人の主観の問題であって多寡についてのイメージを争っても意味がない。他者との間に認識の差異・感慨の差異があるからといって惑うべきではないし、他者の考えを是正する必要もないし、他者の知性や人格を評価する必要もない。そういう話だと思う。山田氏は差異に対して激しく惑う類の人間だったので、そういうことを敢えて書いたのだろう。
この両国日記で書かれていることと、当時の考えとが大幅に乖離しているというのは、一次資料研究としては当たり前のことだが、大切な視点である。