手紙未投函
1996年09月17日(火)
ハガキがないもので、こんな大袈裟なものを送る。
今日、日頃ろくに勉強していない人から勉強の仕方を教えてくれ、ときた。これで2人目だ。いや、何故か皆、けっこう俺に意見を求めたり、俺の言うことを進んで参考にしている気配がある。ほとんど毎日のことだ。信頼されるのはいいことだ。しかしこいつはかつてない責任だ。俺の言葉がその人の人生を多少なりとも目に見える形で影響するのだ。いかなる怒り、恥、屈辱よりも負担になる。勉強なんて自分ですることだし、やるもやらないも、うまいやり方でやるのも意味のないやり方でやるのも、本人の責任だ。だけれど、切羽詰まってきて、83寮(うちの寮)の文系No.2で、成績が急に伸びた俺にすがってきているんだ。たぶん、俺の言った勉強法をやるのだろう。続くかどうかは知らんし、勉強法は自分で洗練するものだ。どれほどの影響を与えたことになるのかはわからんが、もっと気の利いた言い方はなかったのか。相手は俺の言ったことをどう解釈したのか。なんてことが気にかかることもある。わかっている。俺の責任じゃあない。俺は言うだけのことは言った。そのとき最良と思える対応をした。これ以上の必要はない。そして考える必要もない。
まあいいや。俺は俺だ。わかっている。心配無用。ちょいと言いたかっただけだ。貴殿は未成熟の人間を何十人と、いや、それ以上か、を相手にする食を選らぶとは、その点はマジで敬意を持てるよ。俺は医者と教育者がもっとも責任重大な仕事だと思うからね。貴殿も今やることを精進してくれ給え。俺も受験勉強に励む。入る大学の違いってのは目に見える人生の分岐点だからね。来年の今、どこの大学の何学部にいるのか想像もつかないけれど、上げられるだけ挙げてみせる。
ではこのへんで。来年邪魔するのを楽しみにしておるよ。■■氏も受かった上でね。
I shall overcome!
'96 9/17 晴天
解説
これも友人宛に書いたけれども結局投函しなかった手紙である。人に言いたい、聞いてもらいたいことがあると手紙を書いたが、出さないことも少なくなかったようだ。今回は、勉強法について人から頼られることについて、その責任の重さについて教育大学にいる友人に吐露している。もちろんこのカネのかかる予備校に入る機会を得て、特異な仕組みのもとあとは勉強するだけという環境を得たのだから、あとは自助努力するだけである。しかし、勉強が手につかない者、やっても成果があがらない者、いろんな人が話を聞くようになっていた。文系No.2というのは金田氏を別格にしたら2番目ということだが定数33人しかおらず、徐々に欠員が増えてきたこの小さな寮で2番目だとしてもどれほどのことがあろうか。しかし偏差値的には40台から60台に上がり、上昇という結果を出していることで最初からできている人間なんかよりは遥かにその秘訣を聞きたくなったのだろう。しかしそれは困る話であり、なかなかしんどかったようだ。