手紙未投函
1996年09月22日(日)


 今日、明日と我々もなぜか世間と同じ連休につき、一筆。休みにこそ、というのも心得ているので心配御無用。
 俺は83寮(うちの寮)で最も学力が伸びたうえに、寮の文系でNo.2を記録しているため、けっこう、勉強のやり方を相談しに来る人がいる。3日に2日というところか。信頼されているのはありがたいが、まいるなあ。別に、時間は大丈夫なのだが、本当に受け答えには神経を使う。いいかげんなことは言えないし、間違ったことを教えてムダな勉強をさせてしまうかもしれない。つい、不用意なことを言ってしまうこともある。俺は先生じゃあないし、勉強法など、やっている中で自分で洗練してゆくものだ。これができない人は能力が低いのではないのか(さすがに、こんなことは言わないが)。俺の言葉をどう受け止めるのも俺の責任じゃあない。しかし、やっぱり気にかかることもある。そんなものは、俺はその当時の状況下で最善と思える行動をした、と思うので、たいした問題ではないが。
 勉強のやり方っても、俺とて数か月前までは偏50いくかどうかで、今、一応の数字は出しているが、とても自信はない。そんなもの参考にさせていいものか。

 夏休みの前日、俺の部屋に来た(他室出入厳禁。一番の重罪)某君は、本格的だった。最初は世間話のつもりで「うちの親類が浪人して■■■■■大学(当時の偏は45ぐらい)に行った。バカじゃのー」のようなことを言っちまって、そしたら某君は「俺も三流大行ったらそう言われるだろうな」なんて落ち込みおった。まあいい。落ち込めば反発力になる。相談に来たと気づきはじめて、某君のやっとる勉強法を聞いてみたら、何じゃあそりゃあ。やってねえのと同じだ。しかも帰りの電車で音楽(禁止物)聴く、部屋でマンガ(禁止物)読む、休日の時間の自由時間でゲーセン(出入厳禁)だと?なめとんのかおんどれは!(そんなことは言わないけれど)
 不安で来た我には根性がなっていない。気合いを入れてやろうとお前(などという語はつかっていないが)の勉強法はムダだ。お前が入寮してから今までやってきたことは無意味だ、というようのことを、ひとつひとつの勉強法を上げて言ってやった。なんとことを2時間も(次の火からは夏休みなのでサービスだ)やっていたら、しまいには彼は涙を浮かべていた。なんか、悪いことをしたような気がした。
 ついでに某君は、今もなお、追試の常連(授業を理解していれば、決してそんなことにはならない。クラスはレベルごとに段階になっている)。彼は所詮、その程度の男だったということか。

 そして今日、この寮で俺と最も親しい別の某君が相談に来た。今度は洗濯室で作業しながらだから、時間のムダにはならない。彼はマンガの持ち込みの常習犯で、今日も見つかって怒られていた(しかもそのマンガは前述の某君が貸したものだ)。そんな彼も、この時期になって焦ってきたのだろう。彼は薬学系で数学・化学はそれなりだが、英語がどうにもならないという。俺の英語のやり方を話してみる。効率の良い方法とは面倒なことだ。いきなり解答の和訳を見たって全く意味がない。自分で考えないとダメだ。SVOCなどの文の構造もわからないようでは話にならない。もうマンガ読んでいるヒマはマジでない。トータルで勉強時間(授業・テストを含まず)10時間をやるつもりで(ついでに俺は11時間だ)、なんてことも言ってみる。彼は「ありがとね」と小気味よく言って戻った。彼はどうなるだろうか。

 同年代のちょいとした相談でも神経を使う。貴殿は発達途上の人間を何十人も教える職を選ぶとはなかなかの職業意識と感服する。早いうちからそういう心構えを持つとは本当に大したものだと心から思う。

 職業意識など未だに無きに等しいが、俺は仕事に就いたら何でもやってやろあ、何でも耐え抜いてやろうと思っている。しかし社会人には、世の中甘くない、厳しい、考えが甘い、人生なめている、などと学生にことあるごとに言う人がけっこう目につくけど、俺としてはいちいち当然のことを仰々しく言うのは気に食わない。俺をなめるな。現実が、実社会が何だっていうんだ。見ていやがれコンチクショー、などと思っていたが、その「甘い」奴はいるものだ。この天下の両国をサボってパチンコへ行ったり、寮を抜ける者もいる。殴られないと思ってなめておるな。俺のホームルーム(両国ならではだな)も、何人分の空席が出来たか。楽して偏差値が上がる方法はないか、できる限り働くのを伸ばしたいから6年生の薬学部にした、なんて声もある。現代を特別どうこういう気もないが、こんなことで日本は大丈夫なのか。これは教育機関以前に家庭に原因があるのじゃないのか。

 祖父母に溺愛されて育ったというまた別の某君など便所を流さないし、AM03:00に人の部屋に来るし、7時間もの説明会の後に宣誓して入学していながらしょっぱなからダンボール1杯分の禁止物を没収されるなど、なめていると言うより、自分に不都合なことは聞こえていないのでは、と思うこともある。朝礼に遅刻して「誰も起こしてくれない」、定期代でウォークマン(禁止物)買って「くれたから使っていいと思った」、寮監や指導部に注意されまくって「人の言うことを聞くことは、どういうことなんだ」、人に迷惑かけて(1日に数回はやる。マジで)注意されても原因・理由のようなことを言うだけで謝るのを聞いたことがない。奴にはいかなる教育も説教もムダで、死ぬまであんなふうじゃないのか、などと思う。勝手な推測だが。

 常識も良識も道徳も倫理も、俺は後天的な人為だと思っている。例えば、時間にいいかげんな家庭で育った子供は時間をどうとも思わない。それが学校教育では正確に時間が決められている。なぜ、目に見えない時間に従わなければならないのか。うまく絵を描いていても、図工の時間が終わればやめさせられる。休み時間は終わる時間までに教室に戻らなければならない。時間になったら給食にし、時間が終われば片付けられる。この、時間に区切られた社会を理解できず、適応できぬまま非常識な問題児に、そして非常識な大人になるのでは。時間だけでなく、規則や注意に関しても同じだろう。
 もはや学校生徒でさえない俺が、貴殿の専門分野に物申してすまんのォ。普段ものを書くことが少ないので、つい書いちまった。さすがに北海道から沖縄まで生徒が集まる両国だ。くだらない奴もけっこういるんだわ。特に文系は非進学校(だからどうというわけではないが)の出身で、中学高校と不良でゾクなんて人も少なくないんだわ。
 一般に落ちこぼれと言われる人の中にも、マジで勉強している人もいるし、自宅通学生で1時まで勉強していたら親が夜食をつくってくれた。最近親がめっちゃやさしくなった、などと話しているのを聞くのもここちよい。頭茶色で何か所もピアスして、よくわからん金属を身体中につけている人が、な。
 こうこうにいるときは、そんなナリをするのをこころよく思っていなかったが、こっちに来てすぐに、別に何とも思わなくなった。ただ、異民族のようだ。近頃の若い者はわからんという意味じゃなくて、自分とは異なる風習、習慣を持っている人という意味で。「性の乱れ」とやらにも、そういう人もいるだろう、とぐらいにしか。ただ精神医学的に逸脱しているのは、社会にとってあんまり好ましく思わないが。あと売春最大の罪は金銭感覚が狂うことだろう。性における神経と精神との関係なんて知らないし。

 よく高校の■■君に「晴天は生きていけないと思う」「現実は……」などと言われたのを思い出して、つい書いちまった。性云々のことを。自分の不寛容を宣伝する気はないが、今でも思い出したら結構ハラ立つものでな。「自分の記憶」にハラを立てているだけなので、ナマの■■君には何も思っておらん。

蛇足
 俺は文章を書くことが好きだが、人に送ったり公表したりすることには抵抗がある。恥の類の問題ではなくて。
 今回のもそうだ。「書いてあることはだいたいわかったが、何故、今、俺に?」というやつでは。話なら協同作業だけれど、文章は一方的だ。何の意図でこんなものを、ということになりうる。それに、もう俺らは別々の社会で生きているからなおさらだ。
 それに紙は何を書いても反応しないから、一人で勝手にものを書くことになる。そうしたら、一時の感情や突発的な考えで話をすすめ、演出をしていることが多い。
 次に、俺の意図することと書きつけられている文が、いや、頭の中で思いついた言葉が、すでに間違いなく違っている。それも話ならば、相手の様子である程度訂正できる。
 さらに文章を書くと、偉そうなことを書いている気がする。今回も、論文めいたものを書いたし、文章の中では俺はこんな考えをしている、俺はこんなことを知っている、と殊更に言っているみたいだ。俺はバカだ、俺がわるかった、と書くのもそれを認めるということを殊更に宣伝していることになるのでは。早い話、自分の主観を押し付けているような気がするのだ。自分の分の中では何を書いても、自分だけが正しい、自分の見方だけが正しい、と言っているようだ。
 そして今回もまた、必然性のない手紙を書き、一方的に送り付ける。そう考えたら、読まずにぶん投げられたり、抗議されたりするも、それはそれでいいかもしれない。

 しめが長いのォ。まあ、まだ時間がある。
 俺は正直なところ、未だ高校4年生や特別合宿のような気がする。もう、湖陵には別の新しいクラスがあり、当時の人々は皆、別々の生活をしているというのに。戻りたいと言うわけではない。ただ、終わったという気がしない。寮のこの部屋に入った途端に自分の居場所と感じ、もう何年もここにいて、釧路にいたことが事実ではないようにさえ思えるというのに。そして「予備校」や「浪人」というのも他人事のようだ。たぶん、俺が特別な意味をつけていたせいだと思うがな。俺が今に至るまで「勉強をやる気」を感じたことがないのに、かつてないように勉強しているように、実感などそんなに大層なものじゃあないということか。
 なんにせよ、浪人してよかった(現役合格の貴殿へのあてつけではない)。ひと通り世界史ができるだけでもそう思う。高校じゃあけっこう飛ばすし浅いからな。仕方ないけれど。東大の大学院卒の講師による歴史の水面下の絡み合いを見出す授業を受けているうちに政治学に興味を持った。よく考えれば俺は深い考えがあって学部・学科を決めていたわけではなかった。今度は政治学1本で絞る。「立派な社会人になること」を目標とした両国に刷り込みをされたのかもしれないが、実学を修めてやろうという気になった。俺はこの1年のモラトリアムがあってよかったと思う。学力だけではなく意識の上でも。
 これこそ「こんなこと書いてどうする」だが、志望校を記す。決意の表明と思ってくれ。
D
中央−法−政治
中央−総合政策−国際政策文化

C
明治−政経−政治
法政−法−政治
法政−社会−社会政策

B
日大−法−政経
日大−国際関係−国際関係

A
亜細亜−国際関係−国際関係
東海−政経−政治
拓殖−政経−政治
東京国際−国際関係−国際関係

もちろん日程見て絞るので全部は受けるわけではない。それでは3月あたりの再会を楽しみに、ここで終える。

'96 9/22 晴天


解説
 これも未提出の手紙である。高校時代の友人らへは、実際に手紙は何通も出していたが、これは本文中でも書いているように「受け取った相手も困惑するだろう」と思い投函しなかったものである。何度も書いているが、手紙文はたとえ紙自体に反応がなくとも他者性を意識するので、それなりに当時の暮らし営みへの説明が丁寧になり、また、心情の吐露の仕方もなるべくあるべき姿を描こうとしたり、あるいは煩悶を整理して描いたりして、それなりに当時をうかがい知る日記とは異なる一次資料となっている。

 勉強できない人間ができるようになったモデルケースとして、私はにわかに注目され、人から勉強法について聞かれなどしているのは日記通りであるし、それについて自分ごときが講釈していいのか、自分の言葉が正しく伝わっているのか、間違った勉強法を伝授していないか、正しく伝わったところでこの勉強法がこの相手においてよい結果につながるのか、という煩悶は重く、吐露したかったのだろう。

 「社会が厳しい」云々という言葉は倍以上の年齢になり、人並ではないにせよそれなりに暮らしてきた身の上になっても、そういう言辞は言いたくも聞きたくもない類のものだ。だいたいこの手の言葉は他者を貶め、自己との間に優劣関係を見出すのに用いられる。ただ、当時はこうした言辞に対して強烈な反発を持っているのと同時に、他者を指弾するのには用いていたようで、そこは不快な言辞から逃れるために、自分が同様の言辞をするという不毛な様相を呈している。 
 それはそれとして、18歳当時の言辞はまぶしい。特に、努力や忍耐、そして能力や成果は正当に評価されるものだと信じていたあたりが。もちろん知性も人格も努力も過程ももちろんのこととして、定量的な結果に対してさえ評価するのもされるのも容易いことではない。それは人の世の複雑性であって「厳しい」という表現は違う気がしている。「厳しい」という語には、人間を世故を知る者と知らない者、堪える者と堪えない者、成功する者と失敗する者などの2つに分かつような色彩を持つように感じる。それゆえ「厳しい」という表現は他者を貶めたり、自分を相対的にものを知った人間だと優劣関係を示したりするのに使われる気がして、今は他者について口にするのも不快だ。

 便所を流さない某君については、これは今になって読むと、甘いとか精神が稚拙だとかいう尺度で評するべきではなく、医療や福祉の対象ではないのかと思えてならない。当時の私は当人の語った生育環境や英語の問題文で読んだ教育論の話を混ぜて家庭環境のせいにしているが、それは乱暴にすぎる。これはそうした通俗教育論の範疇にとどまる事例ではないのではなかろうか。
 そもそも両国について、親か祖父母か誰かが勧めるままに入ったが、当人はどこに来たのかよくわかっていなかったのではないか。たかが予備校の規則なんて法令でも倫理でも何でもないし、破ったところでどうということはない。しかし禁止物をダンボール一杯持ち込んで隠しもしない、禁制品のウォークマンを堂々として歩く、などは「見つかったら面倒なことになる」とさえ想像していなかったに違いない。実際問題として、財産であるところのこれらの禁制品は没収となり、きつく叱責され、反省書を書かされてそれを実家に郵送されるという面倒が起きた。また、親元を離れて一人一部屋の個室住まいになってもなお「誰も起こしてくれない」、親がくれた定期代を「くれたから使っていいと思った」として無関係の用途に費消する、そして水洗便所を大小問わず流さないことがたびたびある、というのは性格や人格に帰結させるべき問題ではなさそうである。医師でも何でもない人間が簡単に判定することなどしていいことではないが、とりあえず医療により診断を受け、その後福祉でカバーされた方が幸福になる案件かもしれない。


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