「スポーツなんて人間の文化の一部分にすぎない」
1996年10月03日(木)


 今日は15分の電車で行ったのだが、布井氏の姿なし。尿検で、朝忘れていて、便所で気合い入れていたりして。
 今日は岩淵氏と宮村氏と。何話したっけ。俺が岩淵氏に貸しているラジオを、彼は褒めていた。マッチ箱みたいだ、と。
 山田氏と帰る。本当はセキしまくるから、あんまり一緒にいたくないのだが、そうも言えない。スポーツだ。彼は野球に燃えていたという。しかし、もうできない身体だし、やらない、と。これから何を生き甲斐にしていったらいい、と。まあ、今は勉強。大学入ってからも、死ぬ気で勉強すれば時間なんてない。大学にやりすぎはないと聞く。それに生き甲斐なんて、そんな気張って見つけるもんか?
 俺に、「スポーツやってなくてなにが楽しいの」というようなことを。こいつは偏見だ。ちょっと気に食わない発言だ。「スポーツなんて人間の文化の一部分にすぎない」と返してやった。しかしこいつは言い方がよくない。スポーツ「を」バカにしているようだ。俺はただ、スポーツだけを人間の特別なものとするのを否定し(本人がいいなら別にいい。これは俺の意見)、他にもることは山ほどあると言いたかったのだが。
 コンビニ寄って、帰る途中、山田氏は「自分のこと好きですか?」と。え!?なんとまあ、自分は全ての基点だから好きも嫌いもない。目がよくない。貧弱、贅肉が多い、髪が薄い、など、もっとよければいいと思うようなところもあるが、別に、それが俺なんだから何とも思わない。よく考えてみても自分に好き嫌いなど決められない。性格も問題ある。趣向も、性癖もそうだ。しかしこいつが俺自身だ。ムリヤリ答えれば、大好きだ。しかし考えたこともない。ムリに考えても何とも思わない、と答えておく。
 簡単に言えば、そういうことだ(ちょっと違いがあるような)。しかし、彼は自分が嫌いなのだろうか。よく聞く話だが、自分が嫌いって、理解も共感もできない。まったくどういうことかわからない。
 人と人との感情のようなことを言うので、「俺に言わせれば、人間なんて社会を構成する一部分にすぎない」と。またしても、まずい言い方を。彼は「その社会を構成する一部でも、一人では生きていけない。つながりが〜」というようなことは(言葉は違うがそんなようなことを)。彼、泣き声だぞ。おい。カゼでノドに来ているのか?まあ、後ろを振り向かないのが礼儀ってものだろう。
 俺が社会の一部といったのは、別に部品だからどうでもいい、独立していてそれだけだ、と言ったのではない。反対だ。人間を、人間関係を仰々しく捉えるな、ということだ。いや、何故、このことを?公開はしないが反省の要あり。自分を弱者ではないと証明するために言ったな。
 彼は戦国武将の旗などを買っているという。なかなかのよい趣味だ。NHKの大河ドラマとか観てた?と言うと、「それは言っちゃいけないよ」と。何故?大河ドラマや戦国武将のことは、当然だと思っていた、と。つまり、自分が当然だと思っている発想を他人が共有していないことが理解できないんだな。なんてこった。実は彼、硬直している。
 ついでに大河ドラマ『信長』がよかった、というと「理解できない」と。「作りすぎていた嫌だ。俺の知っているのと全然違っていてムカツク」と。なら観なけりゃいい。だが、物語だぞ。作っているから何。それにとにかく正確である必要もないぞ。歴史の勉強じゃないんだから。嫌いなら嫌いでいい。他人と好みが違うことが何だというんだ。やはり、「自分にとっての当然」が普遍的であるはずだし、普遍的であるべきだ、という視点で物を見ている。だから彼は破綻しているのだは。ここまで陰鬱とし、悲観的なのは、高校の■■君以上だ。
 ■■君は作りでも、何でも、とにかく世の中と折り合いをうまくつけようとしていた。つきあっていて楽しかった。しかし山田氏は、ただ、疲れる。何の意図で、何のために、そのセリフを言うのかわからない。しかも、会話が共同作業という在り方から離れている。
 山田氏は自分を「冷めている」と言った。とんでもない。あまりに感情的だ。陰鬱だ。沈んでいる。俺の方こそ人から見たら冷めているかもな。でも、俺もまた冷めているのとは違う。

 観念の崩壊。自分の抱く世界観、価値観、人生観が普遍的ではなく、他人とは異なり、必ずしも正しくもないかもしれない、ということをどう受けとめるか。こいつが問題なのでは。観念は所詮、自分だけの人為。そいつがぶっ壊れるようなことがあっても、俺ははそれを改めるだけ。今までの俺の判断が甘かった。考えに問題があった、とな。なぜ落ち込む。俺は新しいことを知り、考えていく、この開拓作業が大好きだ。弱者は、観念の崩壊に対して、陰鬱となることを当然とし、俺も同様の人間だろうと解釈してくる(■■君や高校の■■先生はそうだった)。気に食わない。さらに俺のような精神の人間もまた、弱者をわからず、わからずに追い詰めてしまう。

布井氏との会談(時間を大切に)。
布井氏「ヒロスエ写真集買った」
晴天「水着はないぞ」
布井氏「(歯磨き中の水を吹き出す)ショックでかい」
彼の歯磨き粉はスウェーデン製。英語の文が書いてある。金城氏に訳してもらったが1つもわからず。単語量
No.1の斎藤氏もからず。Pearly? 「純粋に」 ピュアにlyついただけじゃ。応用の勝利。
彼がヒロスエを買ったのも俺の影響と。そんなものか。
彼の友(■■君)ほどじゃごぜえません。
風呂。迫水氏もいる(いるだけ)。
布井氏「写真集の感想。かわいいね」
晴天「正常な評価だ」
布井氏「ロリコンだ」
晴天「なぜ」
布井氏「18歳以下はロリだ」
晴天「俺はまだ18歳だ」
布井氏「迫水君。君もロリコンだっけ?」
迫水氏「え!?俺は違うよ」
布井氏「前、中学生がいいって」
迫水氏「中学生からいいって言っただけ」
布井氏「この寮、ロリコン多い……高林君とか」
晴天「彼も?けっこう硬派に見えるが」
布井氏「そんなことはない。女の子に話しかけられないタイプってだけ」

 風呂以外の会話も記する。
 『プリンセスメーカー2』、服に該当するファイルを1つずつ手探りで根性で探して消したりしていた。布井氏「ファイル名教えて」と。だから、わからん!
 『プリンセスメーカー1』 「とりあえず脱ぐ」⇒「はだかじゃイヤ」がムカツクとのこと。ファイル消そうぜ。
 布井氏「『プリメ』は1の方が人気あった。キツめで。キミもそうでしょ?」 晴天「なぜわかる」
 タバコ、彼は中学校で卓球部の先輩にムリヤリ吸わされているうちにクセに。1か月続いた。やめられてよかった、と。俺は今までで4本だ。
 俺は中学生のときはマジメすぎ、硬派で狂暴。学校じゃあ優等生を気取る。布井氏「家に帰ると『サリーちゃーん!』とか。セーラー服着たり」 晴天「ない!」 彼は着たことがあるそうだ。水兵さんにあこがれて、と。

 明日は各テに尿検。 


この日のカネの動き

コピー -20
ペン 中性ボールペン -102

財布残高 4,747円


解説
 歯磨き粉については、pearlyはカタカナ表記してもパーリーでありピュアリーではない。「真珠のように」である。私がいかに英語をできなかったかを示している。それにしても、スウェーデン製の歯磨き粉とはなかなか気の利いたものを使っている。インターネットの発達した現在では知ることも、取り寄せることもそう難しくはないが、当時はまず知ること自体が困難だったはず。布井氏の都会人ぶりには感心することが多かった。田舎では田舎の店で売られている商品の選択肢が違うだけで奇人扱いされることを思えば、彼の洗練された都会人ぶりは心地よかった。

 山田氏に関しては、後に「関わってはいけない異常者」と確信して避けるようになるのだが、先日突然発露した異常な被害者意識とそれに基づく攻撃性を向けられても尚、「セキをしているから」あまり一緒にいたくないと健康問題しか気にしていない。健康問題のみを意識していたのか、敢えて健康問題しか書かなかったのかはともかく、いずれにしても忌避感情がすでに芽生えている。
 山田氏の言動に対して、徐々に不快感がつのってくる。「スポーツをしていなくて何が楽しいの」というのは本人は心のうちの素朴な疑問を思ったまま口にしただけなのだろうが、暴力的な言動である。その内容が酒でも賭博でも何でもいいが、自分が享受しているような悦びを他者が享受していないことに対して、まるで他者の生が空虚であるかのように決めつけてくるのはよくある暴言である。よくあるがその暴力性に無自覚なあたり質がわるい。そして自己の営みを他者が共有していない、自己の営みについて他者が価値を認めていない、ということについて被害者意識さえ容易に持たれてしまう。よくあることだし、その後の私の半生においても似たような人間には出くわしてきたが、山田氏がその最初のひとりであった。最初のひとりであったが同じ屋根の下に暮らしている濃密な関係、彼のもともと被害妄想の強い性向と攻撃性の強さもあいまり、同じようなやり取りが繰り返され、エスカレートし、最も厄介なひとりともなった。
 戦国武将に興味があるというから大河ドラマについて連想するのは、それほど不自然なことではない。彼はどうも大河ドラマの『信長』が嫌いなようなので、戦国武将好きと大河ドラマとを結びつけてほしくなかったのかもしれないが、しかしだからといっていきなり「それは言っちゃいけない」と言われても困惑するばかりである。山田氏は、共通認識が確立されていないことについて、いきなり説明もなく、何らかの価値判断をも付帯した結論のみを口にすることが多く、その後も彼の言動には困惑することになる。
 彼が『信長』を嫌いで、私が好きだというのも、どうでもいいことだ。そういう人もいるのか、ぐらいでいい話である。しかし自分とは異なる感想が存在すること自体が理解できないというのは、なかなかの病理である。


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