健康診断、多浪生、スポーツ
1996年10月04日(金)


 くだらんことを書く。時間のムダ。

 山田氏に「スポーツやった方がいいよ」と言われた。まあ健康のためにも「運動」はすべきだ。バスケなんかどうだと言うので、そういうのはミスしたに人に迷惑だから、と返す。そうしたら彼は「そういうふうに考えちゃうんだ」、と。それで別れた。

 スポーツだと!?クソ喰らえってんだ。ミスすりゃ怒る。気合いが足りないと怒る。部活でもないのに朝練だ何だと人の生活を食い荒らす。できない人間はゴミ同然だ。入りたくないのにチームに入れ、ヘマすりゃ怒る、やる気がないと怒る。だったら最初から入れるなっての。これは怠け者の理論だってことはわかっている。勉強できなくて、サボって、やる気のない奴を見ろ。何か言われているか?偏差値社会だとか言われているが、勉強できない奴がなんか言われているのを見たことがない。わかっている。個人と集団の差だ。集団内で責任ある行動ってのは大切なことだ。集団なくして個人は生存できないとも言える。特に非常時なんかはな。だから、こんなのはヘボい寝言にすぎないとわかっている。強制だろうと何だろうとチームで試合する以上はやってやれだ。だが、ヘタなのは仕方がない。気合い入れても気合入れているとは思われないし、訓練していない滑稽な動きは笑われる。そのぐらいどうでもよい(こともない)が、それでやる気がないと言われちゃたまらん。まあいい。このぐらい上等だ。なんでも「やさし」(皮肉のカッコ)ければいいというような教育は反対だ。順位も偏差もつける。結果を出せない奴は能力がない。努力はそれとは別枠で評価だるしかし使い方を間違えるなよ。何だかんだ言われるぐらいならまじても、人間の価値のように思うなよ。これは偏差値と同じ。ついでの教師の主観的評価ばかりで進路が決まるのも気持ちがわるい。やはり遠投でも100m走でも筆記テストでもいい、実力を重視するべきだ。大学入試でも、やる気がある、努力している、というだけで決まってはたまらん。英単語ableも知らずルート2+ルート3もわからず、711年に欧州で何があったかも知らん人間が何をするんだ。努力してもそれではアホじゃないか。まあ、いろんな奴が来る部はだし揺らぎも要る。だがこういう人間が主流では困る。
 気に食わないのは上下関係だ。軍隊が名を変えただけじゃないのか、というようなことも聞く。社会に出ても上下関係はあるっても、やりすぎと違うか?第一、その上下関係の野中で生きている奴が、裏で先生の悪口言いまくり、ぬるい先生には横柄な態度。どこが上下関係だ。まあ表面上のこととしても礼儀作法は要る。しかしあまりにもくだらんことも多すぎる。
 結果を出せないのは無能だと書いた。その通り。しかしそれがどうした?カネもらってるプロでも、負ければ死ぬ軍隊でも自由参加の部活でもない場で、そんなに重要か?もちろん技能・体力がない者はない。そこはないと評価する。しかし何故それが、結果がすべてのようなことが必要か。勝ちたいのはいいが負けも必ずある。体力技能のない人もある人もいる。訓練していない?だからどうした。もう少し気楽にできないのか。
 進路への影響とくだらん上下関係にもまして最低のことは障害だ。科学的根拠に基づかない精神的「訓練」で身体壊したり、やりすぎで壊したりする。なんのための訓練か。なんのためのスポーツか。体力に差があるのに一律に評価し均等にやらせるのもダメだ。体力のなさはどうでもいい。それは「ない」と評価すればいい。しかし差異の存在を認めろ。ムリヤリ均一の結果を出させようとするな。殺すなよ。死ねばおわり。子供を殺す教育者は何があろうと失格だ(子供が他人を殺そうとしたときの自衛の緊急回避というのは別)。
 多少のことはよい刺激になる。この世の中を乗り切っていく気迫と根性と要領とを身に着けるんだ。何もかも整備する必要はない。しかしそうも言っていられん度合いのものが多すぎる。何にせよ。スポーツだけが生き甲斐、スポーツこそ人間の為すことと決めつけるのはよせ。本人はそれでいいが、他人は違う。しかしスポーツやってなくて何が楽しい、つてのはあまりにも横暴だ。まあいい。当人には何も言うまい。だから紙に書く。近所に敵を作る必要はない。それとスポーツはやらんでも体力筋力はつけないとな。駅の遠くに住もう。車・バイク?あとで、まだいい緊急用にあってもいいか。運動はするがスポーツはしない。

 彼は彼が人間など社会の一部分にすぎないというのを聞いて、俺を人間同士の精神のながりを否定するアホだと思い、そのため協同作業であるスポーツを勧めたのかも。
 そうだとしても、スポーツ至上主義か。至上とか、特別なものじゃなく、人間の必然的行動とでも思っていたのか?思いたければ思うがよい。俺はどちらとも思わぬ。何も思わぬ。

 山田氏にもちょいとひっかかるところはあるが、別にそんなわるく思ってないよ。長く暮らしていればそんなこともあるさ。

 今日、健康診断。学校での尿検なんて高校で終わりと思ってた。いい心がけの学校だ。
 前回とおなじ女医さんで、また肉のこと言われた。ジュースは飲んでないっスむ。油ひかえろって、今じゃあちょっとね。一人暮らしするようになったら心がけよう。カップ麺は緊急時にね。あと競歩でもするか。ひとりで。こっち来てからずいぶん歩いている。高校のときの古本屋遠征とどっちが疲れる?
 健康診断の名簿をみると、19歳はもう10月だから同じ学年なのかもしれないが、20歳という明らかな年上も何人か目につく。IM氏って教室で俺のとなりの。仙台から来たのか。かなり偏低いけれどどういう道を?KG氏だっけ?あの人も20。あとK君、21歳!選挙権あるってて言ってたもんな。「高校でセンター試験まで××日という毎日カウントタウンしていたやつを『370日』にしたら先生が怒ったり、あるいは『わかっているな』とやっていないことを自覚しているなと頷いた先生もいた」と話していたK君が。この人、高校時代のその日から500日や600日ではなかったわけだ。まあ、ダテに3浪(4浪?)はしていない。世史はHで模試も上位。古文もG1で模試に載る。現文は見たことないが模試に載る。だが、英語は俺らの下。つまり標準。俺も2回標準だったからわかるが、決してレベル低くない。彼はどんなもんなのだ?彼はたぶん英語がネックになっているのだろう。何かの事情があるのか。だが浪人。このクラスなら入られるところもあるだろうに。まあ目標があるのだろう。本当なら大学3年生か。高卒で働いていたら結婚している年頃かも。俺は東京国際でも行くけれど、2浪3浪というのはでんな感触なんだろう。ま、なってみればたいしたこと思わないのか。 


この日のカネの動き

なし

財布残高 4,747円


解説
 山田氏については、「ちょいとひっかかるところはあるが、別にそんなわるく思ってないよ。長く暮らしていればそんなこともあるさ」と、他の寮友や高校時代の友人と同じように、腹が立つこともあるけれども基本的にはいい奴だし、腹が立つ言動にして紙に怒りを書きつけているが、それは些細な言葉や一部分の発想に対する怒りであって、全存在全人格についてとやかく言っているわけではない、と付記している。後には全存在、全人格を忌避するようになるのだが、まだこのときはそこまで至っていない。

 スポーツについては、学校教育や部活におけるスポーツを嫌悪していた。必ずしも自分が関わっていたわけではないことについても、同じ学校内の伝聞や報道される世間一般の問題についても心を痛めることが多かった。そうして蓄積していたスポーツへの忌避感が噴出したのだろう。「運動はするが、スポーツはしない」という発想は学部時代以降に忠実に実行し、学部では集団競技ではない自己鍛錬である武道の稽古に励み、また、公共交通機関と徒歩が主体の都市生活ゆえのことだが多く歩くようになり、それに悦びをも感じ、特別な準備の要らない低山にも好んで登るようにもなり、義務教育から高校にかけて持ってた体力がないという自己認識は、以降は上書きされ、消し飛ぶのであった。

 スポーツをしない人間に対して、スポーツをしない人間が存在すること自体を理解できず、理解できないなりにひり出した対応として善意でスポーツを勧める。山田氏の態度をこう書くと、スポーツ万能で闊達でルックスのよく社交的で自信に満ち学校では人気のあり人間関係を存分に楽しんでいる若者が、すべてにおいてそうではない若者に対して無理解を示しているような図を描かれそうではある。スポーツができる人間というと、そういうステレオタイプがあるような気がする。しかし山田氏は、彼を貶めようとしてわざと言っているのではなく、私の主観としてもおそらく当人の自己評価としても、スポーツがおそらくできること以外は、すべて「そうではない」、つまり闊達ではなくルックスもよくなく社交的でもなく自信もなく人気もなく人間関係も楽しんでいない。少なくとも私にはそう見えたし、彼もそんなようなことを断片的に言っていた。だから、唯一の芯であるところのスポーツの価値を私に相対化されて、あたかも自分の全存在が否定されたかのように、ひどく傷ついたのだろう。

 「スポーツをやらなくて何が楽しい」という言葉には、「生きていて何が楽しい」ぐらいの含意がある。もちろん自分の暮らし営みにケチをつけられて不快でないわけはない。ましてや、私は日々充実して満足していた。高校時代も、予備校時代もだ。若き日の私はスポーツは全然ダメで社交的でもなかったが、第三者的にはともかく自己認識としてルックスには自信があり、自分の存在自体にも自信に満ち、学校ではそれなりに強烈なキャラクターを愛され、そして何よりも人間関係を存分に楽しんできた。何も過不足がない。私の暮らし営みにケチをつけられるいわれはなければ、何かをしろと干渉されるいわれもなく、ましてや俺と同じ営みをしなければその生に意味はないというようなことまで言われて、怒らずにはいられなかった。近所に敵を作るわけにはいかないので怒りを表しはしなかったが、しかし自分なりのスタンスや考えは表明した。しかしこの考えの表明について、彼は自分への挑発、自分への否定と受け取った。だからこそ、彼との関係は決定的に悪化していった。

 ちなみに学校の健康診断で尿検は、後に2回目の修士課程においてもしているので、これが最後ということはなかった。

 KS氏が何歳だったかは知らないが多浪生は大人だということで敬意を持たれていた。話は面白く、成績も模試の高得点者の順位にも載るとあってはなおさらである。しかし英語の成績だけが振るわずそれがネックとなっていたようだ。それなりに妥協すればどこからは入れただろうけれども、それでも入ろうと思っていたのはどのあたりだったのだろうか。
 ちなみに2浪3浪は学部時代においても何人も出くわすことになった。多浪生は話がおもしろかった。


戻る