新クラス発表
1996年10月16日(水)
今日は眠かった。意識が重い。英演の授業中も何度も山田氏に起こされた(今日、彼はテキスト忘れてきて、隣にいる)。しかしこんなにも耐え難いとは。狭い席の中で身体を動かし、腕を伸ばしてつっかえ棒にしたりとやってみるが、たまらない。6号館に歩いて行ってもまだ眠い。昨日ちゃんと寝たし、カゼでもひいてか?まさか。
新クラス発表。早いな。変更なし。現文Cのままか。よしよし。世史Sか。つまりMM先生だろう。面白いし、いい授業をするよ。でもKY先生にはかなわない。少し残念。まあ、俺の点が足らんのだから仕方がない。TJ氏も意味ねーとかいって切らんで、自分で活用しないとな。
それにしても高校時代の■■君には、憤りも激しき持つが、親友である(何かぎこちない文)。ただ、楽しはその場限りだが、今の怒りは今の記憶への怒り、つまり本物の怒りを持てる。だから、離れていると怒りの方が大きく感じられる。奴は、どこへ行くのか。マジで働くのか。適当に遊んで暮らすアホになるのか。とにかく奴は親友だ。奴はいくらなんでもすべての大学に落ちはせんだろう。いくらご家庭の経済に重圧となっても私大に行く道もあろう。まあ、奴もしっかりやってくれ。北大入ったらマジで敬服するよ。そして長期的に評価が変わるだろう。ファクシミリでも郵便でも、また高校時代のように連絡をとって遊びたいものだ。奴が大学行こうが行くまいがどうでもいいが、自分が行きたいのだし、もう親にカネ払ってもらって受験勉強の専門教育を受けているんだ。どうでもいいなんて思うなよ。俺は彼が堕落するところを見たくはない。まあ、そうなったらそうなったで、少し小馬鹿にするだけだけれどもね。総統氏は『ありゃ馬、こりゃ馬』買ってんだろうな。原作者の田原成貴がひいきの機種だったからな。
この日のカネの動き
なし
財布残高 741円
解説
山田氏とは多少のトラブルはありつつも、まだ、教科書を忘れたときに隣り合うぐらいには関係を維持していたらしい。親切で私が居眠りこくと起こしてくれていたりもする。そう、山田氏はとても親切な人物で善人なのである。しかし対人関係の距離がとにかく近いほどよいという姿勢と、他者との差異の存在さのものを理解できず、差異が自分に対する否定、自分に対する敵意とさえ受け取るような心象とが相まって、非常に大きく異なる文化に生きる者とうまくいくはずがなかったのである。しかしまだ、内心はともかく、困れば頼り、頼られれば受け入れるぐらいのことは表層的には続けていた。
高校の友人■■氏は、この後も長く親しく付き合い続ける人物なのだが、しかし親しく付き合えば苛立つことも多かった。私の他者への怒りは、基本的に他者そのものではなく、他者に対する自分の記憶に対する怒るという性質が強く、会っていないときに腹を立てても、再び会うとウソのように何も感じなくなるということが、高校時代の日常であった。こうして距離が遠く離れると、会うことがなくなり、記憶に対して怒るという不毛なことがたびたび起きるようになっていたのである。しかもそれを自覚している。自覚しつつも日記に書きつけねばいられなかった。