女の人から何か届いていた
1996年10月19日(土)
今日の模試はひでえもんだ。世史はやったところは出来るし、やっていないところはこれから出来るようになるからいいが、現古が実にいい加減。私立型の問題ではないのか。記述多し。つまりヒント少なし。英語も読みが浅いというか、寝ながら意識の表層で読んでいるというか。
まあ、時間は少ないが、まだある。精進精進。
昨日、家にTELしたら、女の人から何か届いていたとのこと。同人誌か。ついに届いたか。正直なところ、届くとは思ってもみなかった。俺が宛名シールをノートの切れ端に両面テープを貼ったもので済ませ、在庫確認もせずに申し込んだから、迷惑だったかもしれないし、この手の取引の要領を得ていない気もして恥ずかしかった。しかも、『ガンダムW』の同人誌は男の買うものではない。というより個人の同人誌通販は、あまり男の参加するものじゃないというような。
これで無事に済んだが、なんか気恥ずかしい。
TJ氏、世史の前に帰る。世史切ったからな。しかも後ろにはYZ氏しかいないではないか。気づかなかった。MUさんも切ったか。世史の授業は意味がないなどと言う人が多いが、そんなの受け方がわるいんだ。まあ、他の教科、特に英語に気合いを入れたり、世史を自分でやってみようとする気持ちもわかるず、自分でどれほどできる?判定だけは2人ともやっているようだったが。
今日はやったぜ。サバ30分〜45分。寝たのはこのうち30分。眠いときは意地でも目を覚ます努力をしろってば。最後にはしたけれど。集中した方だ。特に関係ない考えを気迫で放棄した。その考えってやつは実におもしろいし、重要な気もするが、今自分がするべきことがある。しかも自分のためだ。それができないような弱者ではない。
弱者と言えば、俺が山田氏がおごると言うのを断ったのは、そのプライドのためだ。親には頼っているけれど、しかしむやみに他人に頼りたくはない。
ガキの頃、ガキ扱いされることは嫌いだったが、それよりも遥かに、わざとらしく(わざと以外の何者でもないのだが)そうでないように接せられるのが嫌だった。嫌なんてもんじゃない。憎悪し、憤った。自分の存在さえも破壊してしまいたいほどの拒絶反応が起きた。
高校の■■君は、厭世的ではないのかもしれん。■■君は作為であれ何であり、楽しくやろうとしていた。何とか世間と折り合いをつけようとしていた。悲観的ではあるが、厭世的ではなかったのかもしれない。「厭世」が「生きていくことに価値がない」とすることであれば、彼とは違う状態だろう。
■■君は、話すために話していた。もちろん相手に伝えるのが前提だが、伝えるために話していたのではないような気もする。自分の観念と相いれないことが話されているとき、一人で何かつぶやいていたのもそうだろう。自分の観念は真理か。では、それをどうする。自分は真理を知っていると宣伝したいのか。真理はこうだと示したいのか。何か違うような……。ありに弱気だもの。自分の観念への「敵」への防御行動とみるべきか?
うーむ。考えを押し殺して勉強して、やっと日記に向かっているが、まだ30分もあるのに考えが思いつかない。
ノドはまあ、だいたい戻った。ホープ5本で1週間か。
銃の良し悪しは忘れる。仮にアメリカで銃が犯罪の根源であるとする(アホな仮定だ)。しかし廃止、というか、禁止はできない。何万人失業するか。どれだけ景気に影響するか、計り知れないからだ。他の例が思いつかないが、社会を動かしているのは経済だ、とも言える。やはり経済をやらずに世界はわからぬ。数学要るんだろうな、経済学は。まあ気合い入れるしかない。数学が最も学問らしく身に着けて役に立つ基礎的な学問だからな。後悔などしない。数学を捨てたときの俺はここまでわからなかった。必要ならばこれからやればいい。
■■君もおもしろい男よ。あまりにクセの強烈な奴だから、見苦しい感情を奴に対して持つこともあるが、やっぱり親友よ。終わったら会いたいな。必ず春には郷里に帰るだろう。そのときにけんしろ氏宅にでも。札幌大だか北大だか知らんが札幌の大学に入るだろう。いくら何でも専門学校ということはあるまい。いくら努力が足りなくても、奴は頭脳の能力が高いのだからサボっててもどこかは入るだろう。
さて、どうコミュニケとるか。ファクシミリ装備なのばそれも使うが、解像度の低さは痛い。郵便も使うか。どっちにせよカネかかるっス。そして遠いのは郵便物にとって危険が増す。まあ、これは仕方がない。電話は極力しない。テレカ1枚5分ちょいの世界だ。やってられん。まあこんなもんか。別々の生活をしてゆくと言っても同時代を共に生きた友だ、我がよき友というやつだ。一生の友というやつだ。
■■君に対しては好悪両方の感情が強すぎる。ただ、楽しかったな、あのときは、と言っても楽しいのはそのときだけであって、楽しかったような記憶があるだけだ。しかし怒りは違う。もちろんその場の怒りはその場限りだが、その記憶に対して怒ることがある。この怒りは本物だ。
小説でも書きてえよ。少しずつ少しずつ人間としての経験を積んできている。それを活かしたい。表現力の方が問題だな。おもしろい筋は誰でも作れるが、問題は、読んでいてその読む作業そのものが楽しいかどうかだ。今日の模試の『楢山節考』。具体的な感情描写はなかったが、行動で泣かせてくれる。捨てる母が手を握るところなど、もう2度と会えないのでは、と別れ際に無きながら手を握るおばあちゃんを思い出してしまった。表現が大切なのだな。おもしろい筋書きは誰でも作れる。
銀塩フィルムではなくデジタルカメラたれ。思いを起こさせる。植え付けるのではない。
この日のカネの動き
なし
財布残高 541円
解説
アニメ雑誌『Newtype』に掲載されていた同人誌の紹介で琴線に触れたものを、郵便局で小為替を買って作者個人宅に送るという個人取引の通信販売を試みた。それが無事実家に届いていたのである。古典的な同人誌取引だが、小為替の個人宅との送付はこれが一度きりである(個人取引自体は何度かしたが振込やなんと待ち合わせての手渡しもした)。はじめての取引だったので、自分が何かプロトコルから外れたことをしていないかと、それゆえ迷惑かけていないか、恥ずかしいことをしでかしてはいなかいと割と気になっていた。「同人誌は女のやるもの」というのも、当時のステレオタイプかもしれない。確かに「アニメ雑誌は女子が読むもの」というステレオタイプを高校時代に聞かされたこともあった。なお、『ガンダムW』といっても同性愛ものではなく全年齢向けでしかもリリーナとヒイロとの繊細な関係を描いたヘテロセクシャルの不器用な人間関係の話であった。
小説を書きたいという願望は、本を他なりとも読んでいた人間として漠然と思い描いていた憧れだが、しかし戯れでさえ書いたことは仲間内の悪ふざけみたいなものをごくわずかに書いた程度で、実質ゼロである。賞に応募する友人や商業でデビューした友人の作品の表現や整合性について精読して手直しするようなことをしたことはあったが、それもすでに存在するものを云々するのは読み書きがそれなりに出来ればできることである(しかもそれが正解とも限らない)。「あらすじならば誰でも書ける」というのはどうだか知らないが、しかしいろいろ構想らしきことはするが実際に書くことのない人間が、自分は何もしていないと自戒しているのだろう。
「銀塩フィルムではなくデジタルカメラたれ」というのは奇異な表現だが、高校時代から私が唱えていたコトバである。銀塩フィルムは光を一方的に焼き付けるだけだが、デジタルカメラは信号を送って絵を再現させる。したがって、他者に対して言いたいことを一方的にまくしているのではなく、相手に感情の動きを起こさせるような表現をしろ、ということである。言うは易いことではある。だが、自分の心のままの素朴な感情の発露をすれば、相手はそれをわかってくれるはず、わかって当然、という意識はなく、むしろ他者には自分の言動は自分の意図通りに伝わらないものだという前提があることは感心する。