手紙
1996年11月05日(火)
(願書のレシート二枚が貼られている)
願書買いにアキバ(秋葉原)の書泉へ行ったのだが、実に本がある。別に驚きもしないが拍子抜けしちまった。釧路でも入荷しているようなものがほとんどなのだが、釧路では数kmチャリでかけずりまわってやっと見つけ、時機を外せば売れてしまって2度と入荷されないような状況だった。それが目の前にそろっている。しかも各々が1冊2冊ではない。たぶん東京には「当然、世の中にはあるのだが、何か別の国のことのようなもの」がそろっている。足を使えばたいていのものは手に入るだろう。だからこそ、厳格に取捨選択をせねばなるまい。カネも時間も空間もすべて有限だ。東京で破産するバカ者が多いのもよくわかる。それと、家から持ち出す品も相当絞らねばなるまい。なければないで、どうということもないが、買ったものを置いて行くのはもったいない気がする。しかし何でも読めばおもしろい。どこかで線引きする他ないだろう。ついでに売る気は毛頭ない。来年以降も俺の部屋の品を持ち出さないように。特に近所その他のガキに与えないように。
将来は書斎のある家を建てたいものだ。家を持つ人は転勤しなうのだろうか。どの道、先の話だ。
ついでに洋書の高いこと。銃器雑誌(アメリカの)を見てみたら、5,000円!8ドルって書いてあるぞ、表紙には。輸入すると高くなるらしい。アメリカ行ってその手の本をやまほど買ってくるか。関税かからんだろうな。
11/4の行動
12:45 2時限目終了(5分延長)。
12:50 両国駅着。電車へ2〜3分待って乗る。
12:56 アキバ駅下車。
13:00 書泉ブックタワーへ。
13:05 願書探して買った。
13:09 ミリタリーとアニメのコーナーをまわる。
13:13 アキバ駅へ。ちょうど来た電車に乗る。
13:15 水道橋駅着。橋の上に警官、マスコミ、見物人。この往来の中、立ち止まって見るなら何十人も。田舎者めが。
13:25 やっと来た電車に乗る。
13:28 白山駅着。
帰寮リミットは14:10。白山駅から余裕をもって15分(走れば5分強)。まだ、時間あるな。でも帰る。
こんな日はストップウォッチ(腕時計内蔵)で1分単位で行動を区切る。それで十分に用が足りるし、長居する方が抵抗がある。制限の中で作り出す自由の方が充実するものだ。1分がこれほど長いとはな。こうやっている方が気合いが入るので、迅速に事がはこべる。洗練された行動をしていると感じ、実にすがすがしい。
絶対的な自由、つまり自分の思いのままになることを望む者は、満足などしないだろう。自分の意志の前に立ちはだかるものは何でも束縛と呼び、それ自体が悪しきもののような言いようをするのもアホらしい。このような者は、俺を望みの低い、あきらめが早いというかもしれない。とんでもない。俺はいつでも自分の状況に満足しているし、日常が楽しい。だが、それは今現在に対してだ。未来に対してはできる限りのことをやっている。それと、俺は後悔などここ2〜3年、したことがない。たとえバカなことをしても、当時の俺はその場で判断し得た最良の行動をしたのだから。意図的に努力してそう思おうとしているのではない。俺にしてみれば、今になって何故昔のことを判定しなければならないのかと思う。
解説
この手紙はこの数倍ある長文なのだが、後半部は非常に個人的な内容なので割愛した。
ここで注目するべきは、秋葉原に願書を買に行き、ついでに他の本のコーナーもまわってその豊かさに感動しつつも、ごくごくわずかな時間で立ち去っていること。ここでは分単位で行動を管理していると書いてあるがそれは建物の滞在、建物間の移動の話であって、建物中のある棚に滞在する時間は秒単位で管理していた。何十秒になったらこの棚から離れよう、と。
それにしても12:45に5分遅れで授業が終わり、白山駅に予備校出発から1時間足らずの13:28に到着するとは寄り道にも入らない帰宅時間だ。寮への帰還リミットが14:10ということは、1時間半余裕があったのだろう。2時限で授業が終わっていることから、昼飯時間込みで1時間半であって、昼食時でなければ1時間だったような記憶がある。だからこそ、メシを抜いて行動したのであろう。制約の中で自由時間捻出してこそ楽しめるというのはその通りだと思うが、ほとんど何もしていないような短時間でも充実し、時間管理すること、時間管理してわずかでも自由時間を捻出することに喜びを覚えていたのだろう。