出願のため40万円
1997年01月07日(火)


 銀行へ行き、40万おろす。簡単に40枚も万札が出てきた。なんたる厚さ。横から誰か当たって来て奪われないか心配になる。別に銀行のロビーの真ん中で、本気でそんな心配はしないが、手が、足が震える。

 山田氏、必ず1日に1度か2度話しかけてくるな。もちろん、なんてことなく答える。ただ、それだけだ。もう、くだらん敵意を持つな。山田氏の意図などどうでもいい。何も気にするな。つきつめればキリがない。

 自信、自分への自信が力となっている。朝、早めに起きて布団を上げ、姉が「見やすい」という服装して(西内氏はカッコイイという)、朝礼。余裕をもって早く出る。
 風呂で寮友と話し、上がり、トニックをつける。我ながら見やすいツラだ(?)。ふ。あとは動作にもっと気合いを入れて、背筋を伸ばして、確実な動作を、自信のある動作を励行するのだ。あと、発声もしかり。言葉をはっきり、ゆっくり、力強く。渋みを出すつもりで!

 田山氏、俺が宿題を何もしなかったことを聞いて、「両国マジック起きねえぞ」と。わかっている。自分でもやるべきだって思う。やれば伸びる。やり方はわかっている。そして今の自分はまだ不確実だってことも。
 彼の発言にどれほどの意味が込められているかはどうでもいい。彼もさして重みのある言葉だったとは感じない。しかしますます気合いが入った。やる気なんぞあろうがなかろうがどうでもいいが、あるものは利用してやる!ありがとうよ、田山閣下。
 俺は今、勉強するために生活している。勉強できる。ありがたい。おもしろい。やろうぜ!やっているぜ!もっと、もっと、出来る限り。合格するためだが、勉強そのものも自分の脳を活性化させ、教養を身に着けていることがわかり、実に心地よい。

 早大、受けたいような気もする。受かりそうな気もする。社学あたりならね。でも、早大は自分で勉強する学校。法大もさしてよくないぞ。早大行けるのならば早大の方がいいのでは?サークルも多いし、趣味人も多いい。早稲田のカンバンも人をひるませる。俺は法政に入れば満足だが、受ける価値はある。だが、7万円を着服することと、どちらが価値があることだらうか。

 ミーティングで俺の受験校表を見て、「明治より法政」の俺を五十嵐氏「変わっているね」と。ありがとよ(?)。俺、明治にあまり魅力を覚えないんだ。もちろん法政も明治もまったく知らんがね。「変わっている」ね。フツーは明治の方が優先だろう。でも俺は法政の方が好き。変わってて結構。

 イギリスはプライバシーと自分が人と違うことを重視するという。イギリスに留学するかな。


この日のカネの動き

銀行 +400,000

入試 法政・法A・B、経済、経営
入試 中大・法−政、総政、経済
入試 國學院・法、学習院法
小計-317,721

郵便 書留 -2,220
郵便 現金書留 -530

ファイル Gun誌用ファイル -16,200
貯金 非常用へ -10,000
銀行 -910

財布残高 69,934円


解説
 40万の大金をはじめて手にしたことで、ひったくりに遭うのではないかと恐れるなどしている。ATMからボタン操作で「簡単に」出てきたのは、操作としてはその通りだが、もちろん親がそのカネを稼いで送ることは決して容易いことではなかったはずである。そんなことには全然思い至りもしなかった。

 山田氏とは12月には決定的な対立状態となり、顔を見るだけで相互に無視し、私はそれが外ならわざと不快な顔をして必ず唾を地面に吐き捨て、山田氏は食堂で厨房で食器を返すときにそのルート上にある私にわざと肩をぶつけることが一度ならずあり、それに対して私は大きな舌打ちをしてガンをつけ続けるなど、公然とした対立状態になっていた。暴力は退寮退学なのでそれがエスカレーションの上限だった。これは他の寮生にも感づかれていた(当たり前だ)。
 しかし私がインフルエンザで寝込むと十数日ぶりに心配する声をかけてきて、また、正月を開けるとまた普通に挨拶をするようになってきた。彼なりに関係を修復したいと思ったのか、自省する面もあったのか、彼の方が度量が大きかったのか、それはわからない。だが、どちらにしても、被害妄想に基づいて暴力を示唆する異常性、部屋に無断侵入する異常性、そして自己と他者が異なること自体に困惑する閉塞感に嫌気さし、最大限の善意を向けられたところで私はもう彼は「関わってはならない人間」というカテゴリーに不可逆的に入れていた。同じ寮で、同じ屋根の下で暮らしているのだから、関係改善をしようとする態度に対して敢えて挑発的な態度もとらず再びコトバを交わすぐらいのことはしたが、警戒と不快感とは抱き続けていた。

 自分に対して自信をみなぎらせている。二度寝をせずにきちんと起きて布団を上げること、少しばかり気を遣った服装をすること、早く出発すること、少しずつ楽に流れず気を付けることが自信につながると気づいたのだろうか。それにしても「見やすい」服装というのは、普段は「見にくい」服装をしていたということだろうか。

 早大については、私はそんなに行きたいとは思っておらず、目指してもいなかった。「カンバンを出せば人間がひるむ」という迫力が欲しかったとは思っていたようだが、学習環境としてはかなり低く見積もっていた。しかしたった7万円(政経と社学)と進路選択とを天秤にかけるとは当時の金銭感覚の貧しさではある。

 明治大学を何故忌避して法政大学を選好したのかは様々な理由はあるにしても、最終的には直感という他ない。とりあえず明治はキャンパスが細分化され、学年や学部で通う場所が違ったこと、都心部に高層ビルがあってそれがキャンパスだということを嫌気したのだろう。ただ法政とて4年間ほぼ一貫して同じキャンパスに通うといえ多摩と二分され(小金井も入れれば三分割)、さらには後に高層ビルは競うように立てるのであった。

 イギリスは他者との差異に価値を置くという話は、たぶん英語の長文で出てきた文言なのだろうとは推測する。そういう面はあるにしても、斉一性より個性などと言われるような社会とて、不文律、暗黙の了解、会話から立ち振る舞いのでのプロトコルは厳然と存在し、全然好きなように振舞うことが受容されてそれで自分の値打ちを見てくれるというわけではまったくない。そんなことは当時は知る由もなく、なんとなく欧米の方が暮らしやすい憧憬を抱いていた。


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