苦手の文化史はほぼ落とす
1997年01月11日(土)


 土曜テスト。All中国で、苦手の文化史はほぼ落とす。38点。まあ、こんな偏った問題は出ないだろうし、史学は運もある。しかしNW氏、91点……。ダテに世界史だけしか来ていないことはあるわい。彼、英・国はできるのか?

 帰り、白山駅で布井氏に「無視しないでよー」と。え?気づかなかった。実は彼も今追いついたところだという。彼はソフトを禁止され、ハードコンタクト。しかも「限界まで上げてくだい」を2回やって、1.2だそうだ。「絶対8時間以上つけないでください。危険ですから」と言われたそうだが、12時間つけているらしい。常に失明と背中合わせ。おそろしい。とても出来ない。ソフトも目の奥に入り込んで、医者に「目玉を取り出さないとダメだ」と言われて、片目かと少し不安になったこともあったが、出てきたそうな。

 彼の母親も若いころコンタクトだったというが、その時代のコンタクトって……。ガラス?まばたきしたらわかるそうだ……。なんにせよ、失明の危険。これだけはイヤだ。あとはどうでもいい。
 アメリカではその人の好きなもので呼ぶことがあるらしい。しかし変態趣味の場合はきつそうだな。

 この寮、2浪は根岸君が潔く公表しているけれど、他にもいそうだ、とのこと。特に医系。うーむ。確かにそのように思った人も何人かいるが……。皆、学生証を見たことないしな。金城氏は1浪らしい。卒業アルバムで確認したって言ったが、あの男、卒業アルバムを寮に持ち込んでいるのか?けっこう感傷的だったりして。

 風呂。洗うところに宮村、高林両氏。風呂に迫水氏、高村氏、布井氏、坂本氏、俺。迫水氏、文学部をいくつか受けて1つだけ法学部とのこと。公家の学校?学習院!しかも政治!まったく同一だ。彼の第一志望らしい。彼、成績はどないなもんだろ。追試で名前を見ることはめったになかったが。俺の第一志望は中央の総合政策。
 布井氏は摂南、福山など、英語のないところを受けるという。帝京、そこまでして行きたくないか。自分の家から通えるのに。竹市氏は昭和の薬受かって、もう2度と来ないらしい。内藤氏もメシのとき言っていた。このイスにあいつが座ることはもうないのか、と。宮村氏いわく、「坂本氏、医学部だっけ?」。つまり成績及ばず、か。

 夕食、五十嵐氏。南山3回?名古屋じゃないか。関東人がわざわざ地方に逃げるとか言っていると、田山氏、「名古屋は地方じゃない。君にとって東京以外はすべて地方なのか」と。そうか。田山氏、もともと愛知出身だっけか。

 五十嵐氏、城西受けるらしい。理由は「2/1だから」。つまり早いところ合格出したいか。田山氏曰く、オメーの性格からして城西受かった時点で辞めて帰るわ、とのこと。城西は江川氏も受けるらしい。江川氏に対して五十嵐氏、「俺も受ける」と。そして田山氏、俺も文系はこのへんがいいだろと思った。うーむ、冗談というやつだ。
 五十嵐氏の親は立正を受けさせたいらしい。自宅通学できるから。だが彼は受けない!「受かったら行かされそうだから」とのこと。


この日のカネの動き

なし

財布残高 58,924円


解説
 両国を辞めたと伝え聞いていた竹市氏は、昭和大学薬学部に合格したので、それでいち早く受験を終了していた。つまり円満に浪人生活を完遂し、凱旋帰国したのであった1月から予備校における人数が目に見えて減っていたのは、姿を消した人々は自分で勉強したい、家で勉強したいという理由だけでなく、一足早く進路を決めた人々もある程度含んでいたのだろう。ただし、竹市氏は制度的には「合格退寮」ではなかったようなので、単に1つ受かって安心したので、あとは実家で勉強して引き続き受験するつもりだったかもしれない。

 中国史のみに焦点を当てた演習で、私が中国史を不得手としていたのが露呈した。メジャーすぎる大地域なのである程度できれば差がつきにくい上、重箱の隅まで突こうとすると際限がなく、漢字を書く練習も手間がかかるので、「ある程度出来る」でよしとした。だからまるごと中国史の試験だと厳しかった。そんな試験で満点近く出すNW氏は超人的だが、しかし世界史ばかりやって他をおろそかにしていたパターンかもしれない。なお、中国史をほどほどにした戦略は、中大経済学部の試験で失敗する一因になった。

 志望校を絞り込み、願書もすでに出しつつある時期である。どこを受けると当然話し合うが、入試難易度の易しい大学を受ける者、それについて冗談種にする者、早く安心したい者、高いような気がする目標を掲げる者など様々である。


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