last up date 2005.03.15
名前 |
ミーコ |
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性別 |
メス |
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生没年 |
1977?〜1990.12.20 |
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出自 |
野良猫 |
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別離 |
老衰 |
1,出会い
ミーコは私が生まれる前から、すでにうちの周囲に棲息していた。私がこの世に生を受ける2ヶ月ほど前に、近所に住む5つ年上の従姉に付いてきたのが始まりだったと聞いている。その頃すでにミーコは仔猫の域を脱していたそうな。いつ、「ミーコ」という名が付いたのかは不明。なにせ、私は生まれているかいないかだったもので。
従姉に付いて離れなかったミーコは、しばらく従姉の家(以下「となり」と表記)の周りに住み着き、となりでエサをもらっていたとか。そう、最初はうちの猫ではなかったのである。伯父が日曜大工で「猫小屋」をつくり、その中で雨風をしのいでいたとの話もある。
ミーコは最初、となりやうちを行き来していた。そうしているうちに冬が到来した。北海道の雪と寒さに堪えているミーコに、私の母が物置を宿として提供した。母はうちに入れることなど当初は考えてもいなかった。しかしミーコは家に入れろと声も枯れんばかりに鳴いた。おそらくミーコは、捨てられたのか引っ越しで置いて行かれたのか、最初は飼い猫だったはずだ。そんなミーコにとっては、屋外で冬を過ごすことなど考えられないことだったのだ。
当時の実家のベランダは二重窓で、内側の窓は下半分が曇りガラスで上半分が透明なガラスが入っていた。内窓を閉じてミーコが室内を窺えないようにすると、今度は窓枠に爪を引っかけて、無理矢理上のガラスから顔を覗かせたという。結局母は根負けして、「ボイラー室だけだよ」と限定をつけて家に入れた。しかし、一度家の中に入れたら、居住空間と戸板一枚隔てたのボイラー室だけという限定なんぞ吹っ飛んだ。それ以来、ミーコはうちの家猫になったのである。
1981.01.11撮影。ミーコに遊んでもらうどこぞのガキ。
2,猫となり
こうして我が家の一員となったミーコは、私が最初に出会った猫である。今でも私にとっては模範的な猫であり続けている。私の膝や、座っている横のイスを「おいで」と叩けば必ず乗ってきた。ソファーや温水ヒーターの上に乗って寝ていたミーコは、電気を消して人々が寝静まると、必ず枕元を往復し始め、それに家人が気づくとでか細く鳴いてフトンに入れることを求めたものであった。人間の食卓には、誰かが見ている前では決して上がらなかった。目を離すと食卓に上がることもあったが、それが見つかって怒られたら、必ず耳を伏せて「ごめんなさい」と示す謙虚ぶり。後にやって来るレオとは大違いだ。レオなら、怒られたら噛みついてくるところである。
1983.04.29撮影。プティを舐めてやるミーコ。
また、ミーコは小柄な割には滅法強く、近所の猫とケンカをしても、必ず最終的にはミーコが相手の猫を追いかけて駆逐したものであった。ミーコは近所の猫社会に君臨していたボスだった、と母には聞かされていたが、それは間違いではなかったのだろう。
そしてミーコは、非常に面倒見のよい猫だった。猫は後から新しい猫を連れてくると、怒り狂って駆逐したり、いじけて出奔したりすることもある。ミーコも、2匹目となるプティを初めて見たときは、文字通り飛び上がって驚いた。しかしそれからは小さな子猫だったプティなめってやって、受け入れたのであった。プティは人間に育てられた猫で体格も劣り、よその猫に襲われると悲鳴を上げた。だがそこにミーコが飛んできて、よその猫を駆逐したこともあった。また、ミーコは猫に対してだけではなく、幼かった私の遊び相手をも我慢強く努めてくれたものであった。私にとって、ミーコはもう一人の姉妹のような存在であった。
ただ1つ困った点と言えば、ミーコは狩りが大好きな猫で、数多くのネズミやスズメを半殺しにして持ってきた。もちろん猫は狩りをするが、我が家の歴史に於いてミーコほど高頻度にネズミをくわえて持ってきた猫は他に存在しない。ミーコは半殺しのネズミを天高く放り投げては捕まえ、死にかけのネズミが這うようにやっとこさ逃げようとすると、関心がないふりをしてしばらく横目で観察し、ある程度ネズミが逃げてからまた捕まえて放り投げて遊んでいたものだった。
ミーコは嬲るのに飽きて半死半生のネズミを放置して立ち去ることもあったし、半殺しのエモノをわざわざ飼い主に見せに来ることもあった。その度に母や伯母がスコップでエモノを裏の空き地に埋めたものだった。さすがに生き埋めだと良心が痛むのか、スコップで半殺しのネズミを叩き殺してから埋めた。この仕事は、伯母が目をつぶってやったという。一度、ミーコは家の中に生きたネズミを放したことさえあった。私は幼かったので良く覚えていないが、そのときはとんでもない大騒動になったものである。
ちなみにミーコはメスであったが、前の飼い主が不妊手術をしたのか、そういう体質だったのかは知らないが、一度も身ごもることはなかった。猫は繁殖力の強い。もしミーコが毎年妊娠するようなことがあったら、我々はとても困ったことになったであろう。その点は助かった。
3,別離
ミーコは生命力の強い猫だった。何度も大ケガをして帰ってきたことがあった。母に「覚悟しておきなさい」と何度も言われたこともあった。しかし、ミーコはその度に強靱な生命力で回復したものであった。
しかし、猫の寿命は人間にとってはあまりに短い。健康な猫の見本だったミーコも、太陽の日を浴びて、日の光を豊かな彩りに照り返していた毛並みは光沢を失い、四肢は目に見えて弱り、触ると骨の形状がわかるほど痩せ細っていった。丸まって寝ている様は化石のようだった。「アンモナイト」などと思ってしまったほどだ。
結局、ミーコは私が中学1年の冬に老衰でこの世を去った。亡くなる1年以上前から、ミーコは柔らかく煮詰めたササミ以外食べられなくなった。母はキャッツフードも食べられなくなったミーコのために、鳥のササミを毎日柔らかく煮て、それを冷ましてから小さくちぎり、ミーコの口元まで差し出したものであった。足腰も目に見えて衰えていき、目を細めて日なたでやっとこさ腕をたたんで居眠りをするのが楽しみの老人であった。
1990.03.17撮影。大分薄くなってきたが、まだ元気だった。
本当に足腰が立たなくなる数日前、久しぶりにミーコは外(といっても庭だが)に危ういバランスで踏み出した。そのときやっとこさ私に歩み寄り、私の膝の上でノドを鳴らして居眠りをした。これが、私とミーコの最後の触れあいだった。壊れそうな骨張った身体で、なんとか私の膝の上でバランスを保ち、秋の暑すぎない日差しを浴びて眠っていたのを、ミーコを起こさないよう、ツヤがなくなった毛並みを慎重になでてやったのを、私は生涯忘れない。
それからのミーコは、冷たい床から起きあがろうとしなかった。発泡スチロールの箱に毛布を詰めて、そこをミーコの寝台としたが、その時はもう身体が石のようになっていた。ミーコが、無理矢理起きて立とうとしても足が立たず、横這いになることもあった。そのまま痙攣することさえもあった。
ミーコが立ち上がれないまま痙攣しはじめたとき、私はどうしてよいのかわからなかった。母はくだらない客に玄関で引き留められ、くだらないおしゃべりに付き合わされていた。私はこのとき、その客に対して本気で殺意が湧いたほどだ。13歳になったばかりの私は、別の生き物のように痙攣に苦しむミーコにどうしてやっていいかわからず、またこの光景を見るに堪えず、母を呼んで客を追い返し、母になんとか対処してもらったものであった。ガキであったとは言え、我が身の不甲斐なさには恨悔の念が絶えない。
それから数日後、私が塾に行っている間に、いや、私が塾から帰ってきた直前か直後か、そのときにミーコは永眠したとのことである。唯一最期を見取った姉によると、もう鳴くこともできなかったはずなのに、最期に一声別れを告げたとのことである。最期に居合わせられなかったのが、無念でならない。
ミーコは幸せな猫であった。
温かい家で食べ物に事欠くことなく暮らし、大切に扱われ、天寿をまっとうしたのだ。
これが猫の最良の最期だったと私は思っている。