last up date 2004.02.06


compliance
(1)(名詞)(要求や命令への)承諾、従順、遵守、追従。



(2)(名詞)外部から力がかかったときの、物質の弾力性。



(3)(名詞)企業に於いては、遵法と企業倫理の徹底を指す。規範を守ることは企業にとっては倫理ではない。防衛である。
 法に違反するということは、弱点を作ることと同義。ライバル企業や消費者、あるいは内部から違法行為を告発されると、国内最大の暴力によって罰を強制執行されることとなる。ライバル企業にとっては、手を汚さず、労力もさして使わずに相手に打撃を与えられる。こんなすばらしいことがあろうか。もし司法や行政によって、認可の取り消しや営業停止といった処分が下されれば、かなりの損失になるのは言うまでもない。さらには訴訟によって天文学的な賠償金を支払うことにもなりかねない。
 それだけでも企業にとっては大変な痛手だが、もっと恐ろしいのは信用の失墜である。告発や裁判によって不正行為が取りざたされれば当然その不正行為は世間に知れ渡る。もし法には抵触していなかったとしても、社会や消費者に多大な被害を与えることを行っていたと発覚したものならば、十二分に信用は失墜する。


 信用が失墜すればどういうことになるか。消費者の買い控えによって売り上げは激減。投機家は株式や社債を売り払ってその価格は下落。銀行は融資渋り、原料や部品の供給元はツケ払いの取引を敬遠し、卸売り業者・小売業者は不良在庫とイメージ低下を恐れてその会社の商品を取り扱わなくなる。こうして、大企業でも一気に破綻する可能性がある。これは現代の企業にとって、もっとも恐れるべきことである。
 さらには経営者や不正実行者個人はさらに過酷な境遇に追い落とされる。例えば疫病の疑いがある食料をそれと知りつつ出荷した、衛生に問題があることを知りながら食品製造を行ったなど、世論の猛烈な怒りを買う不正が発覚すればどうなるか。世間からは国賊のように非難され続け、自宅への嫌がらせが相次ぎ、これからの人生で糊口を凌ぐにはろくな雇用もされず、過去を問われない類の仕事をするしかなく、娘がいれば身辺調査で縁談は破談し、より幼い子供がいれば学校や通学路に於いて迫害される。まともな社会生活さえも困難になるのだ。こうして自殺にまで追いやられた人間は往々にして存在する。
 企業が生存するためにも、個々人が生存するためにも、complianceはリスク管理として極めて重要な意味を持つ。


 しかし「遵法」や「企業倫理」などという言に対しては、「青臭いきれい事」としか思わず、あまつさえcomplianceを求める人間に対して、法や倫理に背いたら雷に打たれるかのごときオカルト的被害妄想の持ち主だとさえ見なすような人間は、往々にして存在する。そういう人間にとっては法や企業倫理といった目に見えない規範など、「いい格好して親や教師に誉められたい奴や、怒られるのがおっかない奴が盲従する小中学校の規則」の延長ぐらいにしか捉えていないのではなかろうか。
 そのような人間が発生する環境として、日本に於いては日常の規範破りのペナルティーがあまり厳格ではない点が挙げられる。つまり法でもって紛争を解決するという発想が乏しく、学校でも社会でも、多少のことは許されてきた。問題は法という普遍的な指標ではなく、個人対個人や共同体対個人という相対的な関係でもって、皮膚感覚や共同体倫理によって「解決」されてきた。こうした「決着」の付け方で、全てが終わったことにされた。訴訟などというのは人情のない、大人げないバカのすることという感覚も未だ根強い。だからこそ、自分の行動が司直のパニッシュメントやまして社会的な信用失墜という、目に見えにくい力によって取り返しの付かない結果をもたらされた、という経験を持つ人間もそういうことがあり得ると認識できる人間も少ない。その延長で、あらゆる規範に対して「守らなくてもどうということはない」「バレるわけがない」「見付かるのは運が悪い奴だけだ」「多少の罰で許されるだろう」などという気軽な感覚が生まれるのかもしれない。こうした人々は、規範破りがカタストロフに繋がるなんて本気で思いはしない。しかしこの甘さがカタストロフを招く。


 法的・倫理的な規範を守ることは面倒で費用がかかる。製造した商品に病原菌が混入した恐れがあるというようなケースだと、出荷を遅らせて検査を徹底するだけでも手間と費用がかかり、感染した商品を廃棄すれば甚大な損失になるのは間違いない。そこで自分たちの商品でよからぬことが起きるのではと思いながら(未必の故意)、「まあ何も起こるまい」「バレやすまい」として出荷してしまう衝動にかられるのは無理からぬことである。しかし、そこで短期的な損益のみに基づいて規範を逸脱すれば、どうなるか。確かに、不正や不法を働いても見付からないことはある。しかし今まで発覚しなかったからこれからも大丈夫などという保証などなく、さらには何年十何年も経ってから発覚することもある。そして1度の発覚が、これ以上ないほどの破局的な損害となることは十分にあり得る。
 complianceを徹底するために、気を払わなければならないことは非常に多い。しかも、complianceに費用と手間をかけても儲かるわけではない。つまり「何も起きない」状態を維持するだけに過ぎない。さらに、complianceを徹底するということは、場合によっては規範に殉じて会社が潰れるほどの損失を出すか、違法な手段で急場をしのぐか、という凄まじい選択をしなければならない。防衛としてのcomplianceは、生易しいことではない。しかしシビアな損益計算をしたつもりでも脱法や信用失墜のリスクを甘く見れば、いつでも破局的結末を迎える可能性を生むことになる。


 最後に個人的な経験を述べるが、complianceに関する広報や社内通達が為される様な大企業にも、リスク管理としてのcomplianceという発想そのものさえない社員は往々にして存在する。しかも不正を成さなければ利益を確保できない、会社が潰れる、クビにされるという切羽詰まった悲壮な状態で行われるとは限らない。慣習的に行われてきて、今までやってきたことをこれからもする。ただ単に面倒だからやる。(かなり幼稚なレベルで)楽しいからやる。あるいは普通に仕事をしているつもりで為される。・・・といった、あまりにも低レベルかつ無自覚な理由によって、多くの違法行為・不正行為は行われていたりもする。
 そしてバカな奴というのは、自分が何かをやると同時に結果を伴わないと、因果関係を理解できないらしい。自分の不適切な行動を誰か社外の人間が気づいて(あるいは内部から告発されて)、それが問題に繋がっていくなどということは想像も出来ないのか。あるいは終末思想にも等しい妄想としか思えないのか。
 私の目の前である不正行為が行われたとき、私は関わりを拒否した。だが、目の前でその行為をやって見せて、「大丈夫だろう?ほら。何も起きない」と言われたときは、怒るというよりも絶望した。「何も起きない」って、不正をすれば今すぐ誰かに怒鳴られるとか、雷に打たれるとか、そんなことを恐れていたとでも?まさに「魔術の園」。


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