last up date 2002.12.05
search and destroy
ヴェトナム戦争に於いて、米軍が1966年から実施した対ゲリラ戦術。それまで米軍は農村人口を解放戦線から切り離す「戦略村」の建設など防御中心の作戦を行っていたが、search and destroy作戦はそこから一変した攻撃的な戦術である。その内容は、解放戦線の支配地域に小規模なパトロール部隊を数多く送り込み、敵拠点や敵部隊を発見すると空爆や砲撃、ヘリボーンによる大部隊の攻撃でそれを殲滅するというもの。
ゲリラ戦術とは、必ずしも少人数のゲリラ兵が大部隊に奇襲をかけることではない。地の利と現地住民の協力に基づいて隠密行動する大部隊が、敵の大部隊を避けつつ、支援部隊などの弱い部分を叩くことがその基本原則である。米軍はその動きに翻弄されて、解放戦線主力を捉えることが出来なかった。Search
and destroy作戦は、こうした解放戦線の主力部隊を少人数の長距離偵察部隊を数多く派遣して探し出し、無線で発見の報告を受けるとヘリボーンで大部隊を送り込み、強引に大部隊同士の交戦に持ち込む作戦である。
こうした作戦を多用した結果、当然、解放戦線・米軍双方の死傷者は急増した。だが、損害は米軍1に対して解放戦線3〜5と、重火器と空軍力に優れる米軍が有利であり、米軍が自らの損害を計算に織り込んだ過酷な作戦を敢行したこともあって、1966年後半から1967年にかけてはsearch
and destroy作戦はそれなりに戦術的成果を上げたと言える。以後、ヴェトナム戦争に於ける米軍の作戦は、この方法を基本とするようになる。
しかし、この作戦は戦術的には戦果があった一方で、ヴェトナム戦争を長期化・消耗戦化したという意味に於いては、アメリカ経済を衰弱させ、政権への支持を弱め、国民のアイデンティティをも揺るがせる遠因になったと言えなくもない。アフガニスタン侵攻に於けるソ連軍も同様の戦術を採り、やはりそれなりに戦果を上げたが、侵攻そのものはまったくの失敗に終わった。
Search and destroyは、対ゲリラ作戦としてヴェトナム戦争当時に考えられる唯一有効な作戦であったが、戦略的に見ると決して優れた選択ではなかった。消耗戦は自国経済を疲弊させるだけではなく、多大な自軍兵士の犠牲は国内に厭戦ムードをもたらした。また、(例え戦闘員と非戦闘員の境目がはっきりしていなかろうとも)戦地の民間人に多大なる犠牲を強いる姿勢は、当然のごとく現地住民の反感を極限まで買い、戦術的に多少勝利しようともゲリラや反政府勢力への支持を拡大させ、支援するべき現地政権を返って不安定化させてしまった。結局、ゲリラ戦術にsearch
and destroy作戦で臨んだところで、戦略的には得るものはほとんどないと言える。
こうした教訓が、昨今のLICに於けるアメリカの姿勢へと繋がっている。つまりクリントン・ドクトリンに表れているように、戦闘に於いては高度な兵器を駆使して、政治的経済的コストの高い自軍兵士を極力殺さない。現地民間人の死傷者も、ハイテクによって「最小限」に抑えられるとのイメージを作る。これがsearch and destroy以後の米軍の姿勢の根幹にある。
余談だがヴェトナム戦争の教訓は、報道管制で悲惨なところや非戦闘員の犠牲は可能な限り見せない姿勢をも米軍に植え付けた。そして祖国を遠く離れた戦場で戦うに当たっては、自国民にわかりやすい大義名分を掲げ、現地勢力・現地住民との関係をアピールすることが重視されるようになった。つまり現地住民に教育・衛生・医療・人権保護の支援を行い、住民の文明的な生活を脅かす存在と戦う勢力を支援している、とのイメージを自国民にも現地住民にも作り出すことが、戦争継続に不可欠となってきている。
こうした政策にも、表層的で注目を集めているときだけの支援、実際には夥しい非戦闘員の死傷者、いくらでも綻びが出る大義名分など、いくらでも問題を見出せる。だが、南ヴェトナムのような独裁的な権力層に吸い取られるだけの支援を行っている国で、自軍兵士も住民も夥しく殺すsearch
and destroy作戦を行うよりは、相対的に戦争への悪感情を抑えることが出来る。
参考文献
・三野正洋 「ベトナム戦争」 サンデーアート社 1989年