last up date 2003.04.12


subculture
(1)下位文化。国民統合のプロセスに於いて、排除される少数者の文化がこの位置に追いやられる。「国民」とは、単に制度的な国籍の発行によってのみ発生するのではない。人々の言語、歴史観、習俗、生活様式の均質性が高まり、自分たちは「××人」であるという同一意識を抱くに至ってはじめて、「国民」は成立すると言える。つまり、自分がやるような生活を他の「国民」も概ね同じように送っていると人々が無意識に思うことによって、人々は自分が「国家」の一員であるという帰属意識を持つようになる。


 本来、個人、家族、集落、地域によって、歴史観、習俗、生活様式はかなり異なっている。言語とて山ひとつ越え、川ひとつ跨いだだけで通じないこともザラにある。日本もフランスもドイツも、19世紀前半まではそんな状態であった。そこに学校制度を施行して同一の言語、歴史観を教え、行政制度や広報を発達させて習俗、生活様式の指導も行い、はじめて「日本人」「フランス人」「ドイツ人」という「国民」は誕生した。それまでは王侯貴族や大名、荘園領主の下に、さらに雑多な集落が寄り集まっているだけであった。そこに於いて人々はせいぜい「薩摩人」「ブルターニュ人」「ザクセン人」という自己認識しかなかった。下手をすると、「××村の人」程度の帰属意識しか持っていなかった。そうした小集団への帰属意識を破壊して、個々人が「上位」の存在たる「国家」の一員であるという意識を持たせることこそが「国民」のはじまりであり、国民国家化である。


 そのプロセスに於いて「下位」とされた集団の文化・価値観こそがsubcultureである。国民国家にとっては、人々が「日本人」である前に「薩摩人」だ「長州人」だという意識を持たれては都合がわるい。それは国民国家の統一性の障害となるからだ。だからこそ、「長州人」「ブルターニュ人」としての帰属意識の根拠となる言語や生活様式は「『国民』の統一的なもの」に同化するように強要される。「標準的な文化」とは、国民国家中枢部の人々が持つ文化かもしれないし、あるいは人工的に造り出された折衷案かもしれない。しかしその内容が何であれ、「統一的文化」の強要や侵入のために、「下位」とされる文化は抑圧され、否定される。
 しかし大抵は、そうした「下位」に追いやられた文化は消滅しない。「上位文化」の洗礼を浴び続け、世代を重ね、さらには人口の移動が頻繁化していくにつれて、人々は二重の文化を持ち、ある程度は折衷的な生活様式になってくる。今の日本でも各地で方言があり、家庭でその地域独特の料理が作られたりしているように、文化はなかなか根絶はされない。しかし一歩外の地域に出れば、方言で話すと田舎者とバカにされ、郷土料理をゲテモノと嘲笑されたりもする。これはやはり、その地域の文化が国民国家全体では通用しない「下位」の存在に位置づけられているということである。


 もし革命やクーデターによって政権が崩壊、あるいは地域が分離独立したとき。今度は「上位」とされていた文化が否定され、抑圧されていた地域文化がその地域の「主流」として復権することがある。その際は、地域にこそ帰属意識を持つことが求められて、地域文化を「上位文化」として復古し、今まで強要されてきた文化を「下位文化」として迫害していくことも考えられる。「文化」や「nation」という概念自体が抽象的で定義を決めつけることはできないが、どんな「文化」がsubcultureで、どんな「文化」がsubcultureではないか、などと固定的な定義をすることなどは出来ない。



(2)伝統的権威のない、胡散臭い趣味やその体系を指すコトバ。しばしば蔑称。例えば「宇宙人が既に地球を支配している」といった類の書籍や、超能力やオカルトの研究、テレビには決して登場することのない類の前衛的な歌曲なんかがその代表格に挙げられる。(1)が多少なりとも伝統を持ち、そして生活の根幹ともなる「文化」であるのに対して、こちらのsubcultureは伝統がなく、生活にもさして関係がない趣味に過ぎない。もちろんこうした胡散臭い趣味も長い歴史を持ち、多くの人に受け入れられるようになれば伝統ある、生活様式をも規定する「文化」となるだろう。しかしそうなりそうもない代物のことを(2)の意味でsubcultureと人は呼ぶ。むしろsubcultureという語は、(1)よりもこちらの用法で用いられることが多い。


 この意味でのsubcultureに分類されるような出版物、映像、音声などは、楽しんで享受している人間をも含めた圧倒的大多数の人間がそれを「胡散臭い」と見なしており、「八百長」を見物して楽しむショーとしての側面も持っている。そのため、その内容がバカバカしくとも、権威や伝統、あるいはそれらに根ざした価値観を唾棄し否定しても、思いっきりあからさまな虚言を吐いても、本気で抗議されることはまずない。だからこそ、どんなとんでもないことでも描くことが出来る。だからこそ、面白いとも言える。
 しかし、こうした権威がないが故に信憑性も責任も乏しい類の趣味的情報を見聞きして、本気でそれを信奉する人間もしばしば存在する。もちろん権威と責任ある情報源とて決して手放しで信用してはならないのだが、「subcultureこそが唯一の真実を提供してくれており、それ以外は謀略だ」などと思うようになっては社会生活を送るのに支障が出る。そんなことはまずあり得ないが、万が一、世間一般に流布されている情報の方こそが虚報で、権威も伝統もない誰も見向きもしない情報こそが事実であったとしても、世間から異常者と見なされる蓋然性は極めて高い。そしてそれは妥当な評価である。


 この(2)の用法のsubcultureという語は、否定詞としても用いられる。極端な例を挙げると、「世の中のものすべてがサブカルチャーに見える」というセリフをたまに耳にする。確固たる事実、堅牢なる世界観を希求してならない人間が、雑多な情報の中で雲をつかむ思いに惑い、口にするセリフである。要するに、取るに足らない信ずることの出来ない情報の中で、唯一絶対の真実を提供してくれる情報源を求めているというわけだ。
 このようなことを口にする人間にとっては、subcultureやそれを享受する人間は絶対悪に等しい。「事実ではないこと」、「偽の世界観」を提供するsubcultureは自分の世界観念・事実認識をかき混ぜ、阻害する悪である。人々を惑わせ、情報の海をますます混沌とする悪である。そしてsubcultureを享受する人間は、そうした胡散臭いことを「唯一絶対の事実」として信じて疑わないクズである。「真実」とやらを希求してやまない人間は、往々にしてこのように考えたりするらしい。「唯一絶対の事実」対「クズゴミ」の二分判定としてしか情報を認識できない人間ほど、他者も、あるいは他者は「視野狭窄」であると思いこみたがる。だからこそ、宇宙人がどうした、超能力がどうだ、呪術だオカルトだ霊魂だ、という胡散臭いことに対して頑なに拒絶姿勢を取り、それらを絶対否定しない者を「異常者」と認定し、自分は信用できそうな情報を探し求める。
 こういう人は、永遠に惑い続けるか、あるいは新聞や学者のような権威ある情報を信奉するので、社会生活にはそれほど大きな支障は出ないかも知れない。しかし、何かの拍子に自分が忌み嫌っていたsubcultureや、(1)ではなく(2)の意味でのsubcultureに等しい新興宗教を唯一絶対の世界観・価値観を提供してくれる、としてハマりやすいのもこうした人である。自己完結的な、狭い箱の中で見事に循環した思考を提供してくれるという意味では、subcultureもバカには出来ないのである。娯楽として笑い飛ばす分にはよいが、あまり頑なに否定したり信奉したりするものでもない。


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