last up date 2019.02.23

晴天事典・番外

 ここには、「晴天事典」本編に編入するまでもないようなクズ情報、あるいは個人的すぎるコトバ、あるいは一言で言い切りたいアイロニーなどを書き連ねている。私がここにある文言を、額面通りに心底信奉しているなんて思わないように。

 

「あいたたたたた」
などと、物理的に痛くないときに口にするのは別に勝手だ。自分が触れて欲しくないこと、苦々しいことを話す/話されるときに使いたいのならば、勝手に使ってくれ。だが、私が私について話しているときに勝手に使うな。

例えば、
私 「いやー、現役時代は受けた大学全部落ちて」
相手「あいたたたたた」

 てめーどっかわるいのか、と言いたくなる。大学落ちたのは私にとって「痛い」−つまり不快なことでもなんでもない。当然なことだった。何が気に喰わないかというと、自らの人間としての尊厳を貶めるかのような、コトバとも付かない音声でもって意思疎通を図ろうとしていることもさることながら、「大学に落ちた」→「不快、悲しい出来事」→「共感しなければ」という公式が働くことが我慢ならん。価値判断がこの世にただ一つしかないような扱いだ。


揚げ足取り
(1)話の本筋に関係のない些細な言い回しのミスを指摘すること。こうすると、話の腰を折って会話の目的そのものを見失わせることにもつながる。相手に対する自己の優位性を確保する為に、相手の話そのものを無効化することにもつながる。それは、極めて非生産的で非友好的な方法と言える。

(2)自分のミスを指摘する人間を非難するためのコトバ。相手が「揚げ足取り」をしていると主張することによって、自分のミスや失敗を相手が指摘し非難するのをせき止め、逆に相手が卑劣な手を使っていると貶めて、相対的に自分の立つ瀬を確保できる。極めて非生産的で非友好的な方法と言える。


頭が固い
(1)学者や権力者の枕詞。学者や権力者が「頭が固い」かどうかはさておき、こういうコトバを好んで口にする人々が「柔軟な発想」をしているか、といえばかなり疑問。第一、十把一絡げに職業や学識で人の発想を規定している段階で、「柔軟な発想」を持つ人間の所作とは到底言えない。

(2)自分に都合のよい行動・言動をしてくれない人を責めるためのコトバ。物事の妥当性、正当性/正統性、他者の感情や利益、立場といったものを考えずに、自分に便宜や融通を図ってくれない相手をダメな人と判定する、大変楽なコトバである。


アドヴァイス
 一字一句正確に従わないと、勝手に侮辱されたと勘違いされて逆上される、迷惑なコトバ。


いじめ
(1)主に初等中等教育機関に於いて、特定人物が長期に渡って迫害され、またそのことによって他の多数の人間が享楽と安全と結束を得る行為。被害者はただの不運や本人に責任のないこと(例えば身体的障害や親の職業の貴賤)によって異端とされ、迫害される場合もあろう。しかし、当人の社会性に問題があるがため迫害されることもある。その意味に於いては、被害者が完全にイノセントとは限らない。
 自分の態度が横柄・傲慢であるがために迫害される人間は、迫害に対してどうするか。なんとか社会性を身につけ、平穏に生きるようになる人間が多数派ではあろう。しかし自己の対人姿勢を省みずに害を加える他者や助けない第三者を非難し、あまつさえ自分を迫害する人間を生存させる教育制度や、さらには自分を迫害されるような人間に育てた自身の親までをも憎み、非難し、自分はこのままでいい、自分は正しいなどと主張するようなダメ人間になってしまうケースもある。実際にこのようなことを本気で主張する人間は実在する。このような人間はどこへ行っても、最大限に善意の人間集団の中に於いても、当然かつ正当な帰結として迫害されることであろう。ただ、その在り方が粗暴か紳士的か、目に見えるか否か、という違いはあろうけれども。
 また、弱腰だからツケ込まれる、強く出ればナメられないという一元的なベクトルでしか物事を考なくなる人間も現れる。つまり、細かな社会性を発達させてゆかず、ただ強く出るか否かでしか対人関係を捉えられなくなるということだ。ワルと認定呼称され、腕力で他者を蹂躙したがる人間の中には、実は過去に迫害される立場だった人間もしばしば見られる。あるいは物理的暴力を振るうまで至らなくても、自分が安心していられる狭い集団の中で自分が強い人間だと思い込んで、無神経な言動や恫喝を繰り返しつつ、なんとか他者の寛容と忍耐に依存しながらも社会から追放されずに生きている元被迫害者もしばしば目にする。


(2)自分とは違った人間が何故違う人間なのか推し量り、そして貶めるための文言。
例えば
「なんであいつオタクなんだ?」
「どうせいじめられて現実逃避したんだろ」

「あいつ、なんでやくざの使いっ走りなんかなったんだ?」
「どうせ中学校でいじられてドロップアウトしたんだろ」

「どうしてあいつ有名大学なんかに入ったんだ?」
「どうせいじめられて、見返すために勉強したんだろ」

「どうしてあいつ新興宗教なんかに入ったんだ?」
「どうせどこに行ってもいじめられて、やっと安心できる場所に見えたんだろう」

「あいつなんで空手なんかやっているんだ?」
「どうせガキの頃いじめられて、報復するためにはじめたんだろ」

「あいつ何で政治団体なんかに入ったんだ?」
「どうせ大学でいじめられて、他に行くところがなかったんだろ」

「あいつなんであんなに働くんだ?」
「どうせいじめられて、仕事押しつけられてんだろ」

 しかし当該人物が「なぜいじめられたのか」は、この論理では「違った人間だから」であり、なぜ「違った人間」になったのかは、「いじめられたから」ということになる。そもそも当該人物が「いじめられていた」かどうかはまったくの想像でしかない。しかしこのような「どうして誰それはそういう人間なのか?」という問いに対し、「いじめられていたからだろう」と言えばものすごく納得を示し、そして喜ぶ人間というのは結構多い気がする。


「今、オレのことを変だと思っただろう!」
 発声した瞬間に空想を現実に変える力のあるフレーズ。


「オレだって考えているんだ」
 自分が物事を考えている、ということを示せば何かが起きると錯覚している人間のセリフ。デカルトの「我思う、故に我あり」というコトバを、自分はこんなにも考えている、考えることはすばらしい、考えない奴はアホだ、という高らかな宣言だと勘違いしている人間が言いそうなセリフとも言える(デカルトの言葉は、すべてを疑い、最後に残るものが少なくとも自分の思考作用は存在していると認識できる、ということ。自分が思考していることを礼賛しているわけではない)。
 このセリフは、自分がアホだと思われることへの強迫観念と、「考える自分」は「考えていない他者」よりも優れているという信仰を持っていてはじめて口に出来る。つまりこのセリフは、自分以外の人間の大半が「ろくに物事を考えもしない」という前提の下に、自分や自分の意見を礼賛し、認めるよう要求しているわけである。
 もちろん、面倒くさがって考えることそのものをしないうちに、ほとんど動物的本能だけで生活するようになってしまう人間もいる。だが、必ずしもバカは考えないからバカなのではない。バカは疑えないからバカなのである。例えば「自分はバカなのではないか」「自分はこうも考えているが、他の人間も同じように思い悩み、考えているのでは」というように。当然の前提から出発し、既存のイメージやステレオタイプをなぞり、限定された範囲だけで判定を繰り返しているようでは、それは大して役に立つ「考え」ではない。


「オレにもいろいろあったんだよ」
 自分に何らかの事情があったという、ごく当たり前の内容しか持たないセリフ。誰にでも事情があるのは言うまでもないことだがわざわざこれをセリフとして提示する意図としては、「自分の事情が他者の事情に優越する」、あるいは「(他者には事情がないと言う前提に於いて)自分には事情がある」と示したいと考えられる。この意味に於いてこのセリフは、自分の怠慢や怠業、連絡なき不在などに対して弾劾を受けたときに、好んで用いられる。
 しかし自分に事情があれば、他者にいかなる不利益をもたらしても自分はとにかく許されるという発想は、精神の病理である。特に、自分の事情が重大であればあるほど許される、許されて当然とする発想にはいかなる合理性も存在しない。自己にとっての事情がいかに深刻であろうとも他者にとっては何の関係もなく、例え約束の内容がさほど深刻に思えなくとも、他者の時間、機会といった逸失利益は計り知れない。


オレンジ・ペコ
 紅茶のグレードのひとつ。品種や銘柄ではない(「セイロン・オレンジ・ペコ」という銘柄はあるが、原義はグレード)。紅茶のグレードとは、葉の刻み方や新芽の含有などで区分される。必ずしも下のグレードが悪いというわけではなく、淹れ方によって適したグレードは決まってくる。下とされるグレードの細い欠片の方が、細胞壁がよく破砕されているからミルクティーには馴染む場合もある。しかし高いグレードになればなるほど珍重はされる。オレンジ・ペコは敢えてグレードの序列をつけたら、上の下くらい。しかしこれよりもグレードの高いものは新芽を数多く含まねばならず、必然的に流通量はとても少ない。「オレンジペコしかないけど」というセリフは、特別上等な葉はないという程度の意か。別に恥じるようなグレードではなく、また紅茶は簡単にグレードで「格の低さ」が決まるものでもない。


会話
(1)自分が思っていることを確認する行為。
(2)自分が思っていることに同意をとる行為。
(3)自分が思っていることの価値を認めさせる行為。
(4)自分に上記の(1)〜(3)をさせない人間を非難弾劾する行為。



(1)私にとっては「出入りする瞬間以外は常時かけておくもの」。もちろん、一般住宅(特に単身者用の集合住宅)の鍵なんぞは、ちょっと技術を知っている者にはすぐに開けられる。帰宅時にポケットから取り出した鍵を遠くから写真に撮るだけでも、それを元に合鍵を作れる。また、本気で何事を顧みずに侵入あるいは襲撃しようという相手には、たいした効果はない。だが、鍵をかけておけば酔っ払いや訪問販売の侵入を(大抵は)阻止できるし、もし玄関のドアが開けば入ろうと企み、あちこちのノブを引っ張ってみる三文盗人にも入られずに済む。安物の鍵なんぞに過信は禁物だが、開けっ放しよりはマシである。しかし「出かけるとき以外は開けておくもの」と思っている人には、常時かけていると強迫観念に支配されている異常者扱いされる。

(2)あるパソコンゲームメーカーを表す隠語。


偏った考え
(1)文脈を無視して特定の立場や視座に固執するがために、他者との対話における妥当性を欠いた考え。

(2)自分とは異なる、あるいは自分にとって不愉快ないし不都合な発想や主張を、「世間一般における妥当性」から乖離した異常な企みに基づく発想であるとして、発話者の見識を貶め、考慮する価値を否定するための文言。


カネ
(1)通貨。現代に於いては主に、金属価値に依存しない不換紙幣、およびそれを補助する硬貨を指す。国家や中央銀行の不断の努力と人々の想像力によって、その価値と信用を保持しえる。
(2)ほぼ普遍的な価値を半永久的に持ち続ける物体で、どこかにはあるのだが、誰かが悪辣な行為によってこの物体を独占しているために、ごくごく少量しか自分の手には入らない、と妄想されるもの。


殻を破る
 周囲と同じように考え、同じように感じ、同じように振る舞う予見可能性の高い人物であるという外形を、意識的にであれ無意識的にであれ、整えて保つこと。


「頑張れ」
 同一ベクトルに対して、なお一層の気合いと労力を投入し、またそのことの効能・意義を疑うな、との意。


寛容
 コンフリクトや問題に対して、対話し許し合って解決を模索すること。逆に言えば対話や許容を行わない人間の存在を認めない、極めて非寛容な発想。
 対話と許容以外の解決策を認めないということは、つまり問題の内容そのものにアプローチせず、当事者同士が譲歩することのみを解決策とすることである。しかし腹を割って話し合ったぐらいで物事が解決するのならば、暴力に基づいた強制執行力を持つ司法機関は必要ない。バランス・オブ・パワーの維持という努力も必要ない。簡単に解決しないことに対して、「許容」「相互の譲歩」という高邁ぶった文言で無理矢理決着をつけるということは、不合理・理不尽・不利益・暴力を受けた側に忍耐を強いる暴力に他ならない。寛容とはつまり、問題の構造性はそのまま保存し、譲歩めいたことを引き出してその場の感情をガス抜きをしつつ問題構造を固定化し、そして仲介人が保存された既得権益の上で自己満足することに過ぎない。
 「寛容」をモットーとする者、他者に「寛容」を説く者は、実は自分が特定他者に一方的な犠牲を強いる暴力を行使していないか、顧みて頂きたい。確信犯的にやっているのならばともかく、すばらしい解決策にして人類の英知として本気で「寛容」を掲げているのならば、その発想で物事がそれぞれの人間とってどのように「解決」するのか考えてもらいたい。


「キビしいこと言ってごめんネ」
(1)相手の欠点や失敗に対して強く批判をしたが、それは相手に対して有益なことである。また、自分の立場行うべきことだった。だから、相手を憎くて攻撃したわけではない。自分は他者を叩いて喜んでいるわけではないし、有益な指摘をして尚、相手が落ち込むことに心を痛めているいい奴である。として、自分を恨むのではなくいい奴だと思うことを強要するセリフ。

(2)相手に対して何一つ有益でも妥当でもないデタラメな非難を浴びせ、あるいは相手の行いや人となりについて介入すべき正当性がまったく、下手をしたら徒に相手を苦しることによって自分が優位に立ったかのような錯覚にひたっているだけなのにも関わらず、自分が有益かつ正当な指導をしたと認めることを強要し、そして(1)のようなことをも強要するセリフ。

(3)何にせよ、自分が正しいことをしたと思っているのに謝るのは、不思議である。自分の行いや、他者からの評価についてそんなに自信がないのだろうか?もちろん妥当な指導を理解せず逆恨みする奴もいるかもしれない。しかしだからといって「ごめんネ☆」なんてコトバを加算したところで、何かが好転するのだろうか?


教育ママ
 「受験戦争」とやらの陳腐な象徴。子供を高等学府へ進学させることを唯一絶対の目的と見なし、子供のあらゆる時間や交友関係を規制し、塾や家庭教師に莫大なカネをつぎ込む、少々いかれた人間味を喪失した母親のことを指すらしい。自分よりも学業で優る者を貶めることが出来るイメージとして多くの人々に愛用され、そのためマンガやドラマなどでは好んで使われる。
 驚くべきことに、高学歴者を輩出した家庭にこうした母親が実在する、と確信している者は少なくない。だが、実際にはこのような母親に育てられた子供で大学と名の付くところへ進学を果たした者は、私の知る限定された範囲では一人としていない。


協調性
(1)左右の人間の様子を伺い、左右と同じように振る舞い、同じように話すことを意味する雅語。
(2)公式的あるいは非公式的な上位者の様子を伺い、上位者が満足するように振るまい、話すことを意味する雅語。
(3)飲酒など特定の機会において、自分は普段(1)や(2)のように振る舞ってきたが、本当は違うんだという言説を、その場にいる人間の様子を見ながら「腹を割った」ような印象を与えつつ、足並みを揃えた同じような言説を話すことを意味する雅語。
(4)個人の生存戦略としては時としては有効であり、集団としても構成員を統御しやすくなるので、こうした振る舞いを重視することは必ずしも間違いではない。しかしやりすぎると集団浅慮に陥り、突出することを避け、新しいことを嫌い、問題提起を忌み、変化を拒み、緩慢に死に近づく麻薬的な効能をもたらすのでほどほどに。


経験至上主義
(1)物事を調べたり予備知識を仕入れたり、あまつさえ文字を読む意志・能力・経験が乏しい人間が掲げる、自分が為しえる唯一の現実認識を讃える在り方。逆に言えば、自分の目と耳と皮膚感覚を盲信すること。百聞が一見に如かない場合はもちろんあるが、体当たりではなく外から観ないとわからないこともある。どちらが優れているかではなく、実際の経験も事前事後の地道な調査考察も、どちらも物事を認識するのには大切なことである。

(2)現業部門と管理部門、あるいは「実労働」に対する学術活動といった対比に於いて、管理部門やアカデミズムを批判する場合によく使われる発想。もちろん現場でなければわからないこともあるが、現場から距離を置いていないとわからないこともある。優劣を述べるのはナンセンス。そして、管理や学術活動をしたことがない人が、なぜ「書類だけで右左」「研究室に籠もっている」などと勝手に思い浮かべられるのか。結局、経験に基づかない安直なイメージに過ぎない。

(3)取り柄も誇るべきものも持たない年長者が、年少者に対して優越を行使しようとする最後の拠り所。自分の言動に大した正当性がなくても、自分が口を出すことにろくな正統性もなくても、この経験至上主義という題目がある限りは、抑圧移譲の対象として年少者を見ることが出来るらしい。

(4)「やってもいないことをとやかく言うな」などとよく言われるが、もっともなようで必ずしもそうでもない。特に、麻薬の使用や自殺に対しては通用しない。また、思想信条、とりわけ宗教の戒律で禁じられていることを「やってみないとわからない。だからやれ」と言ったものならば、訴訟や国際問題になりかねない。

(5)とにかく、たいした能力のない人間ほど「経験」を礼賛しているが、果たしてそうした連中がどれほどの経験をしているかと言えば、かなり疑問である。多くの人間同様、自分が生きる狭い生活範囲の中で、ごく限られた人々と大して代わり映えのしないことを話し、大したこともない行動を積み重ねているだけである。ただ「経験」をやたら連呼する人々は、「管理部門のやつらは何も出来ない」「高学歴者は何もしたことのない」として大した根拠もなく気に食わない異質な人間を「経験に劣る人間」と見なし、相対的に自分を高めようとしているだけと言えよう。


「しかし、言い方というものがあるだろう」
 強烈に非難や批判を受けた人間が、問題そのものに対して妥当な反論や言い訳を思いつかないときに、唯一できる反撃のセリフ。自分が悪いとわかっていても、他者に強くものを言われると腹が立つ。その怒りを晴らし、問題を起こした自分よりも、ひどい言い方をする相手の方こそ問題があるかのような気になることによって、自分の尊厳を守ることが出来る。


自分の殻を破る
(1)1つの固定的な視座から決まり切った価値基準での判定でしか物事を認識できない人間が、もっと違った角度から物事を見たり、簡単な判定ではなくもっとじっくりと物事を探求してみるようになること。

(2)1つの固定的な視座から決まり切った価値基準での判定でのみ物事を認識する人間にとっては、他者がこれまで持っていた思想発想を捨てて、自分と同じ世界観を持ち、同じ基準でもって物事を判定するように同化することを指す。


社会人
(1)社会に労働力を提供し、対価として給与所得を得て生計を営み、納税することによって社会を支え、社会を構成する人間のこと。しかし巷間で用いられる場合は、この定義よりも著しく狭く人間層を限定されがちであり、限定された人間層に含まれない人間への強く粗雑な蔑視をも伴う。
(2)ごく狭い集団において、同じ認知の仕方を共有している人間のみが普遍性ある立派なあるべき人間像であるとして頌え、共有するべき認知の仕方に従うことがすべてに優先する正しい在り方だと信じるあまり、自己の人生や生命はもちろん事業の利益や存続さえも損なう道を選ぶ集団浅慮を促進するのに用いる語。


視野狭窄
 他者を評する発想として、人類が考え得る中では最も便利なもの。他者を「視野狭窄だ」と評する根拠としては、その人物が自分の望むように行動せず、言わず、考えないというだけでよい。そして、自分と同じようにやらない人間を劣者と認定し、「相手が出来ない発想を出来る」自分を優者と見なすことが出来る。つまり、気に入らない人間を無条件で優劣関係に捉え直すことが出来るわけである。しかも、もともと指標もなにもない代物なので、相手に覆されることはまずあり得ない。何か言い返してきたら「俺の考えを理解できないとは、やはり奴は視野狭窄だ」と思えばそれでよい。自分を安定した優越の位置に固定化できるという、最高の悦楽を伴う発想と言える。


譲歩
 相手の優越意識を満足させる行為。カネと同じく、優越意識も与えすぎると付け上がられるので注意。


人格
(1)物事の原因・理由として、最も簡単に見出されるもの。「構造」や「システム」といった分析概念を持たない人間にとっては、物事の唯一の認識方法。呪術的な原始集落の成員があらゆる自然現象に人格を見出していたように、現代人でもすべての社会現象を人格でしか捉えられない人間は往々にして存在する。非呪術化されないまま合理化が進められた日本では特に多い。
 例を挙げれば、酒を飲めないのを人格上の欠陥と見なすこと。病気や体質を人格的問題のせいと見なすこと。試合や仕事の正否を人格のみで判断すること。構造的あるいはシステム上の問題をミクロな個々人の人格のせいとしてしか見なさないことなど。これらはすべて呪術的発想と言える。

(2)持てる者は必ず劣っている、と確信されるもの。金持ちは傲慢だ、権力者は強欲だ、体力に優れる者は横暴だ、知能に優れる者は根暗だ、美人/美男は高慢だ、などとして優れた地位や能力、資産を持つ者は往々にして人格に問題があると見なされる。さらには社会の問題はすべて、権力者や高所得者、高学歴者に人格的問題があるためだ、と確信している人間さえ少なくない。
 このように思えば、自分よりも優れた人間を貶めることができる。その上、社会に対して自分の責任や方策を考える必要もない。非常に楽であり、心地よい。だからこそ、このイメージはとてもよく好まれ、しばしば持たざる者同士の間であたかも当然の事実であるかのように扱われる。

(3)誇るべき何者をも持たない人間の、最後の拠り所。「優れた人格」は、いかなる技能、知識、権力に優る宝物であるかのように礼賛される。しかも自分がいい奴だと思うのには大した根拠はいらない。例え人々に嫌われてようと疎外されていようと、自分をいい奴と思うのは簡単である。あるいは積極的にいい奴と思わなくても、他人に人格的問題を見出せば相対的に自分が「マシ」な気になってくる。だからこそ、自分が他のことで優れていなくても、いい奴だ、あるいは「マシ」な人格を持っているとして自信にしている人間は珍しくない。
 しかしこうした発想は有害である。自分自身が横暴、怠惰、憤怒、嫉妬といった人格的問題によって、他者に多大な不利益と不快感を与え、仕事や共同活動を阻害していても気づず、問題だと思わないことも往々にしてあることである。しかも自分の技能や知識・経験の不足による失策や単純なミスを指摘されようものならば、相手に「人格的欠陥」があるとしてなんら自分を省みなかったりも。「優れた人格」とは何かは不明だが、少なくともこのような人間になってしまったら人格的に問題があると言って差し支えあるまい。


ズルい
(1)不正な手段をもって、時として他者を不当に陥れることにより、利得を得る様。
(2)手段の如何を問わず、他者が自分よりも利得を得ている様。
(3)利得を得るために、努力や工夫、能力や才能、その他用いることが出来る資本を他者が動員している様。


相談
(1)問題に対して、他者の助力やアドヴァイスを受け、自ら解決するために行う行為。
(2)問題に対して、他者にすばらしい解決策の提示や、解決そのものを依頼するために行う行為。
(3)問題に対して、差し当たって解決方法があるとは思えないが、他者に話すことによって気を楽にする行為。
(4)問題に対して、相手が問題の根元や加担者であるかのように、一方的な怒りをぶつける行為。
(5)何か問題を提示することによって、相手の力量や自分への情念を試す行為。
(6)何か問題を提示することによって、気の利いた解決策を提示できないであろう相手を貶め、嘲笑する行為。
(7)何か問題を提示することによって、自分が何かをしようとしている、何かを考えていると相手に思わせるための行為。
(8)他者の問題をうち明けさせ、あまつさえ自分が他者の問題を解決しようという、思い上がった行為。


咀嚼音
 私がこの世でただ1つガマンならないこと。ものを食べるときに何故上の唇と下の唇とを閉じず、大口あけて咀嚼音を周囲に響かせるのか。誰も殴りも殺しもしていない以上ガマンできないわけではないのだが、他人の口の中で食物と唾液と空気を練り合わせる音を聞かされると、美人だろうと親友だろうと無条件で撲殺したくなる。
 私が堪えかねてひとこと言うと、大抵大口開けていた奴はえらく不機嫌になって黙り込む。私に反発すれば、自分のマナーに問題がないことになるわけではないのに。また、食べ物をこぼさないよう食器が音を立てないよう丁寧にお碗と箸を扱いながらも、大口あけて咀嚼音を立てている奴の前で、嫌みで誰のことと言うことなく「咀嚼音を他人に聞かせてものを食う奴は出世できまい。最低のテーブルマナーだ」と第三者に話したら、その夜に「咀嚼音、申し訳ありませんでした」とメールが来たこともある。私1人に謝ったところで、今までの人生で汚い音を聞かせられた人々の持った悪印象と不快感が解消されるわけではあるまいに。
 私が特別な感覚を持っているわけでも、特別狭量なわけでもない。私に謝ったり、腹を立てたりすればいいというものでもない。これはマナーとして失礼なことである。そして自分にとっても損なことである。上の唇と下の唇を閉じることを怠り、歯をむき出しにして舌の上で食物を転がし、唾液と空気と混ぜ合わせる音を聞かせて、何故他人が不快感を覚えないと思うのか。
 私は、大口あけてこの汚らしい音を唇のフィルターを通すことなく、直に周囲に空気に響かせるような人間を、決してまともな人間とはみなさない。こんな人間は、幼少期に親兄弟が誰も注意しないような哀れな育ちの人間か、人に言われても注意されたことに屈辱しか覚えないような自己を省みる能力のない人間のどちらかだ。さもなければ、アメリカ映画に出てくる、ガムを噛みながら話すような最下層のチンピラをカッコイイと思っているようなクズだ。採用活動では会食を面接代わりにすることもあるが、もし私が人事で、求職者がこんな音を響かせていたら、私の権限で×をつけられるのならば最大級の×をつける。取引先との会食でも、担当者が大口あけて咀嚼音響かせていたらマイナスの評価をする。ましてや会って日が浅い異性を食事に誘って、店の品位を貶めるかのように大きな咀嚼音を相手に響かせられたら、二度と会わないし誘わない。別にこんなことは私に限ったことではあるまい。少なくとも、無神経な咀嚼音はマイナスになることはあっても、決してプラスにはならない。


尊敬
 大した根拠もなく、一方的に他者の能力や人格に過大な期待をすること。この感情を持つ人間はしばしば、相手が自分に対していつでも真実を提示してくれる、相手はいつでも自分の味方であるとさえ思いこみ、相手のコトバや態度をすべて自分に都合良く解釈することに繋がる。全てのフリーハンドと責任を放棄して、「尊敬する」相手に依存することとも言える。
 こうした歪な感情は、大抵は悲劇的な最後を迎える。相手が自分に利益を与えてくれなかったり、期待したような心地よい言動をしなかったり、あるいは相手のコトバがつまらないものに聞こえたとき、一方的な評価感情は反転する。つまり、能力を過信していたときには「奴はもうダメだ」、人格を信奉していたときは「奴は堕落した」、自分の味方だと思いこんでいたときは「奴に裏切られた」という強烈なマイナス感情をやはり一方的に持つに至る。


待機電力
(1)電気機器を使用していない間も消費される電力。リモコン操作の入力待機や設定保持などに必要な電力との認識からテレビやビデオを連想させがちだが、一般家庭において待機電力が特に大きな機器はPC、給湯器、インターホンが挙げられる。待機電力が家庭の電力消費に占める割合は2000年頃の水準で10%に上り、2008年現在の最新の省エネ機器を揃えても5%を占める。なお、複数台のPCやプリンター、コピー機を保有する家庭やボイラー暖房設備を備える寒冷地住宅の場合は、待機電力も当然大きくなる。

(2)電気メーターが動いていれば在宅と判断する押し売りや勧誘員が、存在を知らないであろうもの。上記の通りそれなりの機器を揃えていれば、例え不在時であってもブレーカーを上げるかコンセントを徹底的に抜くかしない限り、電気メーターはそこそこの勢いで回り続ける。しかしそれを見て「居留守」と判断してドアを叩き続け悪態をつく光景はしばしば繰り広げられている。なお、そうした人々は在宅・不在に限らず稼働する電気冷蔵庫という製品や、PCやNASを常時稼働するような使用法についても知らないものと予想される。


堪える
(1)痛みや侮辱といった短期的な事象や不公正や搾取構造という長期的な事象に対して、言動・行動その他あらゆる反撃に出ることも改善の狼煙を上げることもせず、逃亡することもしないこと。「上」の人間の顔色や、集団内のあいまいなよくわからん空気に従って、自分を殺して穏便にやることこそが協調であるという感覚が支配する日本では、特に重視される。

(2)愚か者の唯一の処世術。堪えればすべてがうまくいき、堪えればすべてが穏便にいく。堪える自分は「大人」で「優れた人間」で、堪えない奴は「クズ野郎のガキ」だという極めて簡単な世界観に基づく。そしてこの発想は、「ただ苦しめば事態が打開される」という、異常者じみた発想に繋がりがちとも言える。例えば、まったく休まないで意味もなく仕事をぶっ通そうとか、痛くて苦しい間違った筋トレ方法をすれば強くなれるとか、ここそこにそうした異常者的「指導」を目にすることは出来る。

(3)場合によっては事態を悪化させる最悪の手。横暴な人間に対して堪えて譲歩しても増長させるだけで、こちらの苦しみ不利益なんぞは想像もされない。その結果、もっとも破滅的な方法を採らなくてはいけないことにもなる。ミューニック的。あるいは、自分の能力・適性に合わない仕事を強いられたり、訂正な評価がなされなかったとき、日本では戦略の一つもなく「もうちょっと堪えてみろ」と言われることがしばしばある。実際に堪えてみると、ますます悪環境の中で固定化され、年も食い、脱却できなくなってしまうことも。
 もちろん社会は堪えなければならない瞬間の連続だが、とにかく自分が堪えればそれでうまくいくわけではない。自己主張なしには自分の不利益も苦痛も誰にも気づかれず、堪えてすべてが穏便にいったところで、自分の心身を病んでしまう可能性も高い。


多様性
(1)人間について用いられる場合は、人間がひとりひとり違うという程度の意味であり、また、違うことは罪ではなく同化強要が善ではないという含意もある。
(2)往々にして、自分に近いほぼ同質な人間については、その在り方の些細な差異が認識しやすく、多様に見える。他方で、自分に遠いまったくの異質な人間ほど、その在り方を雑なイメージでしか認識しがたく、個人間の差異も認識できず、画一的に見える。その結果、多様性とは自分とは近い人間の個性のことであり、遠い人間については異常であり、脅威であり、敵対的にさえ見え、「多様性」の枠組みの外の何かとしか認識されない。


嘲笑の共有
 日常に於いて、最も強烈な愉悦の一つ。まず嘲笑は対象となる他者と自己との間に優劣関係を定めることが出来る。そして、集団で同一の対象を嘲笑すれば、そうした優劣関係を他者に承認されたという安心感を得られる。しかし、他者が別の人間を嘲笑しているからといって、必ずしも自分が嘲笑されている人間よりも優越を保持しているわけではない。一緒に嘲笑を共有している仲間は、実は自分をもまた嘲笑しているかもしれない。もしそうだとすると、気付かない方が幸福なのかも知れないが。
 実は私が誰かと一緒にいて別の誰かをバカにするときは、同行者へ遠まわしに注意を喚起していることがしばしばある。だが、私が誰かをわるく言えば、相対的に自分が高まる、あるいは私が積極的意志でもって「自分」と「バカにされている人間」とを区別し自分を認めてくれている、と確信する人間もいる。


強い人間
(1)何かの点に於いて、他者を凌駕する側面を見せる人間に与えられる称号。特に、他者の悪意に影響を受けにくく、悪条件下に於いて行動を完遂する意思・能力を持つ人間に対して、もっぱら用いられる。例えば、健康、運動能力、物理暴力の技術、情熱、倫理などに於いて、他者に優越するものを持つ人間が、この称号を受ける。
(2)悪条件下でも、問題から脱出することも問題の改善努力をすることもせずに、その枠組みに於いて行動する意思を失わない人間に与えられる称号。こうした人間を一定の位置に固定化することによって経済的政治的利益を得る人間よりも、固定化される人間自身によって自らが自らを拘束することを賛美する為に、頻繁に用いられる傾向にある。


「なんだ、偉そうに」
 物事を、自己と他者との優劣関係という原始的感覚でしか捉えられない人間が、自分の非を注意指摘されたときに発するセリフ。たとえ明確な序列や権力関係がある場合でも(つまり相手が「偉そう」ではなく、制度的に「偉い」場合でも)、明らかに自分がミスや悪事を犯している場合でも、このコトバ以上のことを考えられない人間は往々にして存在する。しかも自分が「正義漢」「優秀」「いい奴」だと思い込んでいる蓋然性も高い。他者が同じことをすれば憤慨し、自分が同じことをしても許される、あるいは大したことではないとしか捉えられないわけである。


「逃げ出した先に、楽園なんてありゃあしねぇのさ。辿り着いた先、そこにあるのはやっぱり戦場だけだ」
漫画「ベルセルク」からの引用。
(1)今相対している立場から抜け出せばあらゆる艱難辛苦から解放されるわけではなく、別の場所では別の艱難辛苦がある。目の前の事象から逃げ出せば、それで何もかもが楽になるわけではない、との箴言。「ベルセルク」劇中のセリフはこの意。学校や仕事を辞めたり、別の都市や地域、あるいは外国に移れば何も困難はなく何もかもうまくいく、というような妄想を抱いている人間に対しては有効な警句となる。

(2)あらゆる問題に対して、同じ立場で、同じベクトルに努力し続けろという意味。艱難も辛苦も、種類があれば程度も違う。よりよい条件と環境で、自分の能力と適性に合致した仕事に従事したいというのは人情であり、そして合理的でもある。こうした、より効率的かつ意欲的に働くための自助努力としての転身に対して、「根性がない」、あるいは(1)のような妄想を抱いているとしか思わない愚鈍な人間が、よくこのセリフを引用する。
 同じ職場や学校で、同じ業種や専攻に従事し続けるのは時には有益な経験ではある。しかしそれには、年齢ばかり食い、もしかすると別の能力をつけたりもっと効率的に稼いだりできるかもしれない時間と機会を失い、そして今後自分が活動していく舞台を固定化していくリスクをも負う。自分が今いる場所に不満があるとき、転身するか我慢するか、我慢してから転身するかは難しい決断である。しかし転身しようとする人間にこのセリフを吐く人間は、堪え続ければ道が開ける、転身など何にも堪えない奴の根性のないやり方だ、うまくいくはずがない、と他者に言いつつも、結局は転身する人間を叩くことによって不満がありながらも一歩を踏み出せない自分を肯定し、我慢し続ける自分の方法論と転身との間に優劣関係を認定することによって、羨望をもうち消そうとしているのではなかろうか。
※この(2)は、私自身の自己批判でもある。


ハイジャック
 武力でもって乗り物を支配する行為。語源は禁酒法時代のアメリカで、酒の密輸トラックを対抗組織が強奪するときの掛け声にある。散弾銃を抱えて「Hi!Jack」、つまり「よう兄さん」と呼びかけトラック強奪。「ハイ」という音がなんとなく空間的に高そうな気もすることもあり、日本では「飛行機」の乗っ取りのみを表すと誤解され、「バスジャック」「シージャック」などという造語まで登場して定着している。


被害者意識
 他者に何か不当な行いをされ(あるいは不作為があり)、それにより自分が損失を蒙ったという認識、およびそれに基づいて湧き出てくる感情の総称。その認識にどの程度の妥当性があろうとまったくなかろうと、あまり反芻していると、自分には被害者であるが故に報復する権利があり、被害者であるが故に正しく、自分がどんな攻撃的な行動をしても相手個人も社会も甘受するべきだし理解されるはずだという異常な思考に至りやすい劇薬。


プレゼント
(1)他者にとって価値がある、あるいは自分が他者に贈る行為そのものに相手が価値を見出すという目論見に基づいて、他者に物品を渡す行為。あるいはそのモノ。相手がその物品に価値を見出せば、あるいは物品そのものが役に立たなくともモノを贈られたことそのものに価値を見出せば、人間関係の維持・進展に於いて大きな意味を持つ。だが、物品そのものが役にも立たず、贈られることそのものにも悦びを感じない場合は、贈られた者にとっては極めて迷惑な行為となる。

(2)相手が持ってきた包みや箱をその場で開けねばならず、中にあったものに悦びや驚きを感じねばならず、その物品を日常的に使用して見せねばならず、さらには長期間に渡って過失であっても壊さないように気を付けなければならず、部屋が狭くても引っ越しの予定があっても保存しておかねばならず、それらのことをしないと相手から一方的に人格を問題視されるという、重い試練を科せられる儀式のこと。


法律
(1)国家や自治体の領域内部に於いて、人間の営みに一定の秩序を作り、それを維持するために作られるもの。暴力のあり方の規定とも言える。よく言われる「人倫のため」「支配者に都合の有利な社会を作るため」「弱者を救済するため」といったものは、秩序の確立の前には二義的な目的に過ぎない。

(2)国内最大の暴力装置の力を利用するための手引きと、その技術。その意味では、遵法とは他者が利用する暴力に晒される隙を作らないことである。しかし、遵法を心がける者は往々にして「人倫に従っているクソ真面目な奴」「ルールを盲従するしかない主体性のない奴」としてしか見なされない。

(3)情や慣習では解決できない、あるいは情や慣習で解決すべきでないコンフリクトに、第3者が「解決」を造り出すための目安。あくまで人の営みについて規定なので、法について知るいうことは人や社会を知るということである。フランスに於いては特に、法律に精通しない文学者はいないとさえ言われた。この意味に於いては、法が「人情」とかけ離れた寝言であり、「人情」こそが法よりも高位の存在である、とする発想はナンセンス。


ミレイユ・マウス
 ワイヤレス光学マウスのことを私はこう呼ぶ。光学マウスはボールにゴミが溜まって詰まることがなく、ワイヤレスマウスは配線の取り回しに悩まされることがなく、便利ではある。だが、ワイヤレスマウスは自ら電波を発信するのにも関わらず、パソコン本体から電力供給を受けないので電池が必要である。乾電池という消耗品が増える点では、余計なコストがかかり、なおかつ急用でパソコンを使う際に電池が底をついたものならば、大変な不利益をこうむる危険がある。充電池を使ったところで、タイムロス。
 利便性の代わりに、コストとリスクを背負うことになる代物と言えよう。


無意味
 自分の価値体系に於いて、対象となる出来事や発言が何ら生産性や快楽をもたらさない、といった強力な意味を添付するコトバ。


友人
(1)契約関係や経済関係ではなく、個人の主体的意思によって、親しく付き合っている人間。なかんずく、ヘテロにとっては同性についてこの呼称がなされることが多い。また、日本のようなタテの発想が根付いている社会では、あまりにも年齢に差違がある場合はこう呼ばれることは希である。相互に友人と思っているとも限らない。

(2)他者が自分に対して行う言動を限定するステレオタイプ。例えば、相手が「友人」ならば、相手に心情的、社会的、経済的な不利益を及ぼしても許される、自分が何をしても殴られたりまして殺されたりすることはない、率直な意見や感情ならば受け入れてくれるという発想をしばしば抱く。そして相手が悪辣な行動言動に堪えかねて暴力、非難や罵声などを浴びてくると、相手が「友人関係」という暗黙の了解に違反して、一方的に理不尽なことをしてきた気になれる。


両親
(1)父と母のこと。一夫一婦における婚姻関係を前提にしており、父親を明確に認識して母親と対として捉える、比較的新しい概念である。

(2)自分の周囲の人間のすべからくが、遺伝上の父と母について明確に知り得ており、父と母の婚姻関係に基づいて産まれて、その関係は現在も継続しているという確信があってはじめて、他者の親を称してむやみやたらと使用できるコトバ。


わかりあえる
(1)異なった人間同士、異なった人間集団同士は、究極的にはせめて殺し合わない程度の平和を享受できるという、高邁な理想。実現は極めて困難な上、譲歩や理解の努力をしようとしても相手に、あるいは背後から殺されることも多い人間社会だが、そうしたリスクを覚悟の上で共存を模索しようと試みる人は、立派ではある。

(2)「わかりあえる」ような気がする自分の狭い交友範囲と、全人類とを錯覚した人間が好む文言。つまり自分を理解しない、自分が理解できない、自分に譲歩しない、自分と同じようなことをしないし言わない、それ故自分と協調できない他者は「例外的な異常者」であり、万人はわかりあえるはずだが、そうできないのは相手がおかしいから、という意味をも含んで語られる。そう思えば、理解や共生のための難しい努力をせずに、心地よい狭い世界に籠もっていられる。


Baby in Car
 自家用自動車にしばしば貼られている文言。自動車に赤子を乗せていることをアピールしているのだが、その意図については謎が多い。子供が乗っているからぶつけるな、煽るな、被せるなということなのか、ゆっくり運転しているから先に抜かしていけということなのか。そもそも赤子が乗っていようと年寄りが乗っていようと、全ての自動車に対して気を払うのが当然である。ましてや「自分の車には子供が乗っているのだから、他が気を遣って当然」という発想がどこまで自動車間で意味を為すのだろうか。
 ちなみにこの表示は、おそらく赤子を持つ親の多くが想定しない形で役に立つことがある。それは交通事故に際して、レスキューがこのステッカーを見れば、大破した車のどこかに赤子が挟まっている可能性が高いと判断するからである。


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