last up date 2002.12.03


貧乏(びんぼう)
 必要な金銭が欠乏して、生活に困窮すること。産業革命以後の貨幣経済に於いて誕生した、割と新しい概念。
 もちろん貨幣経済が浸透する以前から、その日の食い物にも困るような貧窮はここそこに存在した。農耕技術が未発達なため生産力は人々に十分な食糧を供給できず、封建領主は農民から食糧を搾取して支配の経済基盤としていた。そのため、人々−特に人口の圧倒的大部分を占める農民は、しばしば飢餓に苛まれていた。こうした状態を称して貧しい、貧乏と言えなくもないが、 それは天候不良で不作になったり、戦争で田畑が荒らされた結果そうなるという運次第のものであった。また、貧しくなるときは共同体全体が困窮し、貧富格差が著しく発生することはまずなかった。そのため、貧しさというものの原因や打開策について取り立てて注視されることは、封建社会に於いてほとんど為されなかった(儒教では古くから富−すなわち食糧の不平等な分配が貧困の原因、という発想はあったが、人々に広く浸透していたわけではない)。


 産業革命によって、農村から多くの人間が労働力として都市に流入し、多くの人間が自ら食糧を生産するのではなく貨幣によって食糧・物資を手に入れるように至ってから、貧乏という概念が意味を持ちはじめる。
 肉体以外に生産手段を持たない労働者が大量に都市に発生するようになるが、こうした鉱工業に従事する労働者同士でも、食える者と食えない者との格差が生まれてくる。失うものは何もない労働者でさえも、ふとしたことでさらに最底辺の貧民に成り下がる。小さな商店や工房など、肉体以外の生産手段・設備を持つ人々も容易に没落してしまう。そして一度没落したら、ほとんど完全に這い上がることが出来ない最底辺の貧民に成り下がってしまう。資本家と労働者という区分を見るまでもなく、持たざる者同士にさえも貧富格差が歴然と生まれてくる。
 こうした目に見える貧富格差の発生、貧乏の発生、最底辺の貧民の発生。これの原因として、当初は貧乏な当人がクズだから、という見解が普及する。貧乏人は、働く意志がない怠け者であり、人格的欠点を持つからこそ、貧乏に陥り、貧乏から這い出せない。こうした発想は、勤勉こそが誉れという近代産業社会に於ける価値観の中で、当然のごとく発生したのである。古くはアダム・スミスが「国富論」に於いて「適正な競争が行われる資本主義社会では、実直に働けば中の上の階層までには上ることが出来る」と延べ、20世紀初頭にはマックス・ヴェーバーも「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の中で、実直な勤勉さを資本主義の基本と讃えている。かくも勤勉こそが至上の価値とされ、働けば社会のためになり自分のためになると謳われる時代に於いては、貧乏の原因が個人の人格のみに結び付けられるのは必然であったと言える。

 やがて、社会構造そのものに貧乏を発生させ、さらには固定化してしまう原因を求め、それらへの改善を求める運動が起こる。フーリエやロバート・オーウェンなどを経て、マルクスの登場によって社会構造そのものを分析・批判する研究が進められる。これによって、貧乏は個人的病から社会的病へとシフトされて見るという発想が広まり、マルクス的発想と敵対する資本主義側でも戦間期の「市場の失敗」−大恐慌を機に、貧乏が個人の意志・努力・能力だけに起因するものではないと痛感させられるに至る。
 かくして経済の管制高地を支配し、市場を国家が統御することこそが貧困の撲滅に繋がるという発想が普及し、第二次世界大戦後は、いわゆる東側世界は言うに及ばず、西側世界でも1970年代までは国家による市場管理政策と社会福祉政策とが重視されていた。ここに於いては貧乏とは国家の責任であり、貧乏人とは社会の教育制度やセーフティーネットが不十分だから発生する、という認識が一般化する。国民の圧倒的大多数が飢餓に苦しむような貧しい国に対しては、共産主義モデルであれ資本主義モデルであれ、開発が不十分なため貧乏であると決め付けられた。


 しかしながら1970年代以降、国家は流れるカネ・モノ・人・情報が膨大化する市場を管理しきれず、国家の行政府は財政赤字を抱えるに至り、経済の管制高地は再び市場に委ねられる。加熱する競争原理の中では、貧乏の原因は再び個人に帰結されはじめる。黎明期の産業社会に於いて貧乏の原因と見られた勤労意欲の欠如・人格的欠陥もさることながら、貧乏とは技術・技能・知識・人脈・対応力・先見性などの能力の欠如にその原因を求められる。すなわち、貧乏とは敗者であるという認識が高まっている。
 能力礼賛・優勝劣敗の美名の下に市場原理はうねりを見せているが、ここに於いて発生する貧乏の原因は多様であり、深刻である。英語能力・情報リテラシーを習得できない者・習得する機会がなかった者は「敗者」として固定化され、先進国に於いてさえ底辺の地位から這い出せなくなる。これは「第4世界」と呼ばれ始めている。また、能力があろうとなかろうとも、巨額の資本移動のうねりの中では人は(事業体も)自己の能力と関係なくして「敗者」の地位に追いやられることがしばしばある。そして例え自らの失策によって「敗者」となったにせよ、市場原理が極大化する中では負債に堪え、再び再起するのは困難である。投資する価値も見出されないような国・地域に至っては、貧困は固定化され、そこに住む人間は生活レベルを向上させるチャンス自体が与えられない。かくして貧しき者はますます貧しく、富める者もしばしば貧しくなり、一度貧しくなると這い上ることが難しい。誰もが貧乏に陥る危険があり、それを忌避するために闘い続ける。これが「全世界規模の自由競争」時代の貧乏である。


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