last up date 2004.02.05


神々の闘争(かみがみのとうそう)
 マックス・ウェーバーが言う、非呪術化(Entzauberung)と合理化を進めた結果至る「合理的社会」に於ける、人々の思惟の在り方。普遍的な価値観が存在せず、個々人が自由意思によって価値選択をするしかない社会に於いては、主観的な価値観が永久にせめぎ合い、特定価値が永劫に人々の思惟を支配することはない。そのことを、価値観を神になぞらえて表現したコトバである。永遠性に眼目があるため、「神々の永劫の闘争」とも言われる。


 このコトバについて述べるに当たっては、まず「魔術の園」から説明せねばなるまい。「魔術の園」とは、呪術的思考が蔓延る原始的な血縁的ないし疑似血縁的共同体である(注:1)。呪術的思考とは、あらゆるものに「人格」や「意思」を見出し、「部分」と「全体」を錯誤する発想と言って差し支えない。思いっきり簡単な例を挙げれば、「天気が悪いのは精霊の機嫌がわるいからだ」「誰それが病気になったのは根性がないからだ」「誰それが天然痘のわけはない。だったらこんなに簡単に治るはずがない」「作物が実らないのは誰それのやる気が足りないからたたりが起きた」といった、物事への正当なアプローチ方法を持たない人間の思考である。
 この「魔術の園」に於いては、個人の価値選択という発想そのものが存在し得ない。何故ならば、こうした呪術的共同体に於いては、あらゆる事象に見出した「人格」や「意味」に対して統一された発想で行動することこそが、生産活動そのものであったからだ。つまり、今まで共同体が存在していられたから、同じ発想に基づいて同じ行動をしていれば、今までのように共同体は生存していられる。つまり「永遠の昨日」を再生産できるのだ。これは「今まで死んだことがないから、これからも死なない」と言っているような発想だが、これこそが、呪術的共同体が導き出した生存の術であった。だからこそ、変化要因たる「外部」に対して極度に排他的になり、また内部の成員は共同体に恭順する以外の発想を持ち得なかった。価値観は統合されていた。


 しかし生産力の向上とともに普遍性を志向する宗教が発生し、普遍宗教はこうした「魔術の園」を非呪術化していく。つまり、人々に価値選択という発想を与えた。普遍宗教とは、「(唯一)神」と「世界」とを区別する発想である。木々や天候、病気、穀物などあらゆるものに精霊を見出し、自分達ウチの共同体がそれらの意思を操る神聖な園であるという呪術的発想を、普遍宗教は破壊した。つまり外とウチという発想を無効化し、シャーマン的指導者のよる価値支配とは「別の価値」が見えるようになった。価値観の相対化が可能になったとも言える。共同体への忠誠という政治的価値と対立する価値を、はじめて人は考えられるようになった。
 そして価値観の相対化は、「世界」をただの事象の束として見ることを可能にする。つまり、物事を「客体」として体系化することが可能になる。これが合理化の二層過程に於ける、「非呪術化」の次に訪れる第二段階の「合理化」である。この「合理化」は普遍宗教がもたらしたのだが、「合理化」されたことによって人々は宗教意識そのものを希薄にしていく。


 「非呪術化」によって伝統主義や呪術的タブーから解放された人々は、その次の「合理化」を徹底させていく。物事を客観的に体系化しようと考えることが出来るようになったために、学問、経済、科学、芸術といったあらゆる分野で、分野ごとの自立化としての「合理化」が行われるようになる。各分野の体系化は分野固有の法則性を人々に見出させ、人々はその法則に従って「合理化」を追求していくことを自己目的化させていく。
 例えば、政治の分野では、合理的国家の形成と合理的行政の追求が自己目的化される。経済の分野では、非合理的な活動を廃して合理的な経営をすることが自己目的化される。学問に於いては、主知主義的な科学的研究が自己目的化される。芸術に於いてさえ、宗教に代わる「救い」と意識されることによって、美の追究が自己目的化される。
 こうした各分野に於いて、人々は分野の固有の法則性に従い、自己目的化された価値を追求する。そうすることによって、人々は自らの自己実現を図るようになった。すなわち、呪術的共同体の統合された価値への恭順こそが唯一の生存方法であった時代より、どの価値に自らが参加することによって自らの生を意味づけるかという、選択の自由が増大することとなった。そうした固有目的の追求は、宗教的意識からも人を自由にしていった。そして普遍宗教に於ける普遍倫理に代わり、人は新たな価値を自ら選ばなくてはならなくなった。逆説的なネーミングだが、この状態をウェーバーは「神々の闘争」と呼んだ。


 かくして人々は、「客観的に絶対的な『意味』が存在する」という発想から解放された。二層過程の合理化を経た後の社会で「絶対」を語ることは、その人の「主観的信仰」としてしか見なされない。普遍宗教の下では普遍倫理が「客観」をもたらした。しかしこの「神々の闘争」の時代に生きる現代人は、価値観が分化している中、自ら価値観−ウェーバーが隠喩として言うところの「神」−を自ら主体的に選んで、自分の人生の意味と価値とを見出さなければならなくなった。その判断は、個々人が自らするしかなく、その決断が「正しかった」のかどうか知る術は存在しない。
 ウェーバーは「各自の生の経験を踏まえて、自分で選び取った自己の究極の信念に基づく価値合理性を誠実につらぬく『人格』として生きること」(注:2)を、現代人に強く要請している。つまり、強烈な主体性と自己責任で持って、自らが主体者として生きるしかない、とウェーバーは言っているわけだ。


 だが、永遠に決着の付かない「神々の闘争」の中で、ウェーバーが言うような価値相対主義と決断主義に基づいて生きるのは、過酷なことだ。誰もがこうした主体的自由に堪えられるわけではない。実際問題として、エーリッヒ・フロムが指摘するように、かつてドイツでは多くの人々が疑似宗教的に、主観的な絶対的発想に逃げ込み、全体主義という呪術的共同体の再来のごときうねりに身を任せた。また、パウル・ティリッヒは、相対主義の結果安っぽいニヒリズムに溺れて、自分にとっての「究極の関心事」に溺れ、安易な自己絶対化して疑似宗教的に他者へ絶対指標を示そうとし、相対化を拒むため他者との関係を破壊する悪魔的ダメ人間が発生するとも指摘する。
 確かに「神々の闘争」の時代に至って人は、ナチズムのごとき新たな「呪術」や、ティリッヒの言うような悪魔的人間をも生み出す可能性を持った。しかしウェーバーの言うような、価値合理性にコミットして自己実現をする生き方の可能性もまた、提示された。
 人々の精神の在り方、思惟の在り方を指摘したウェーバーの「神々の闘争」という発想は、これからもなお、人間にとって大きな意味を持ち、これからの時代を生きるにあたって有効な示唆を得る手がかりとなるだろう。


注:1
「魔術の園」とは、呪術的思考が蔓延る原始的な血縁的ないし疑似血縁的共同体である

  疑似血縁的とは、血縁が人間同士が血縁者に関係をなぞらえるということである。「近代」が契約によって関係を規定して組織活動を行う時代であるのに、こうした血縁的・疑似血縁的な関係で集団行動をまとめようというのは、マルクスやウェーバーが言うには猛烈に遅れた社会の発想ということになる。
 疑似血縁関係がまかり通る国の代表例は、日本である。家を借りるだけでも「大家」と「店子」という親子関係になぞらえられる。学生寮・独身寮に入れば、「寮母」が親代わりをする。近代的経営の象徴たる「会社」を継ぐために、所長の娘と結婚するだけでなく、養子縁組までする「婿養子」という習慣もある。やくざ者同士の関係は「親分」「子分」「義兄弟」とやはり家族を模される。堅気の仕事場でも、「親方」と「弟子」、「兄弟子」「弟弟子」と、徹底的に家族を模される。そういうコトバが使われなくとも、本来契約関係でしかないはずの被用者・被雇用者や、被雇用者同士でも「親」や「兄弟」のような関係を志向したがる。そして何よりも近代国家化するために日本は、天皇が「親」で国民がその「赤子」という親子関係を支柱に国民統合を果たした。
 こうした家族関係に全てをなぞらえるのどというのは、猛烈に遅れているアジア人−マルクスが「アジア」と言うときは猛烈に遅れた原始人という響きを持っている−の発想である。しかしその「遅れたアジア人」である日本が、なぜ列強の支配を受けることもなく、国民統合・国民教育・官僚制・常備軍・憲法といった近代国家の要件を次々に見たし、やがては欧米ともそれなりに戦えるようになっていったのか。
 ウェーバーは日本を「非呪術化」されずに「合理化」された。つまり「呪術を合理化した」と評した。こうした日本に於ける思惟の在り方と欧米との差違は、過去を分析するだけでなく、現代を見るためにもまだまだ考え続けていかねばなるまい。


注:2

千葉眞編 「講座政治学II 政治思想史」 三嶺書房 2002年 P50より引用


参考文献
エーリッヒ・フロム著 日高六郎訳 「自由からの逃走」 東京創元社 1965年
千葉眞編 「講座政治学II 政治思想史」 三嶺書房 2002年
マックス・ウェーバー著 尾高邦男訳 「職業としての学問」 岩波書店 1980年
マックス・ウェーバー著 脇圭平訳 「職業としての平和」 岩波書店 1984年
マックス・ウェーバー著 世良晃志郎訳 「支配の社会学」 創文社 1960年


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