last up date 2005.05.01
権力(けんりょく)
権力とは、社会秩序維持の為に制度化された強制力のことである。この力は常に少数者によって保持され、多数者へ行使される。その為権力とは、少数者が多数者を支配する力と呼ぶことも出来る。そして少数者がこの支配を実現する為には、物理的暴力の独占的保有が不可欠であり、そして自己の支配を認めさせる正統性も必要である。これらの条件が揃ってはじめて、権力は強制力として安定した実効性を持ち得る。これについて検証していく。
まず、権力の存在理由から述べたい。前述の通り、権力は社会秩序維持の為に発生する力である。すなわち人間が集団として統合する理由は対立や紛争に対する調整の必要性にあり、それを実現する機能こそが権力なのである。これは1934年にメリアムがその著書「政治権力」で指摘している。しかし権力を保持するのが人間である以上、その行使には必ず恣意性が伴う。他者の恣意を帯びた命令に対して、何故人はそれに強制力を認め、従うのか。この疑問に対しては暴力と正統性の2つのコトバで説明できる。
まず権力者とは、物理的暴力の独占的掌握者のことである。命令に従わなければ、生命や身体の自由を失う。命令に従う理由としてこれほど明快なものはない。その為、権力者は警察や軍隊といった国内最大級の暴力装置を常に備え、それを自己の権力の基盤としている。暴力の独占的掌握が権力を保証することについては、古くはマキャヴェリが言及している。ちなみに、少数者が擁する暴力装置が本当に武力で多数者である大衆を圧倒できるかどうかは、あまり問題ではない。なぜならば暴力は、実際に行使されるまでは本当に行使されるかどうかわからないからだ。このように暴力は見えにくい特性を持っている為、権力者は、服従しなければ暴力が行使されると被支配者に思い込ませるだけで、ある程度強制力を保持しえるのである。こうした権力社会をフーコーは、看守は服役者を監視できるが服役者からは看守が見えない監視塔−パノプティコンになぞらえた。
しかし物理的暴力の恐怖だけでは、権力は十分に強制力を発揮しきれない。メリアムによると、権力は被支配者によって認証を受ける必要もあるのである。これは言い換えれば、大衆が自ら進んで権力に従うことを妥当だと思うよう仕向けることである。この方法は、合理的な手段(クレデンダ)と非合理的(ミランダ)な手段の2つが組み合わされる。合理的な手段は、知性に訴えかける正統性である。その内容は、昔から続いてきたから正しいとする伝統的正統性、権力者に超越的能力があるから正しいとするカリスマ的正統性、権力者の命令が一定の規則に基づき予測可能であるから正しいとする合法的正統性が挙げられる。また非合理的な手段としては、大衆の心理に訴えかける示威行動が挙げられる。具体的には歴史、音楽、演説、行進等がそれに当たる。こうした合理的・非合理的な影響力によって大衆は権力者を正義と見なし、信頼を寄せるようになるのである。
以上の理由によって権力とは、物理的暴力による制裁への恐れと、権力に従うことを正統とする意識の2つが組み合わされて効力を持つ、少数者が多数者を支配する強制力と見なすことが出来る。
参考文献
阿部斉 「概説現代政治の理論」 東京大学出版会 1991年
「新訂版現代政治学事典」 ブレーン出版 1998年