last up date 2002.12.19


厳しい(きびしい)
(1)環境や条件、自己や他者の行う行為がもたらす、苦痛や困難の甚だしさを示すコトバ。あるしいそうした過酷な事態に相対した人が見せる、余裕のない表情にも用いられる。


 まず、この艱難は人為がもたらす場合と、非人為的な条件・環境として存在する場合に分けられる。人為的行為が厳しいとは、例えば警備、取締り、取調べ、追求、叱責、拷問、訓練、鍛錬、演習などが徹底して行われ、受ける者または行う者にとって過酷なことを示す。非人為的な条件・環境が厳しいとは、経済情勢や財政事情、補給事情、戦況、自然環境が不利であり、その中で生存・行動するのが難しい場合に用いられる。


 次に、その艱難が自力で解決できるかどうかに分けられる。例えば軍隊や警察、スポーツ団体の訓練は、シャバでは考えられないほど肉体的・精神的に過酷なものである。これは「厳しい訓練」と言うことが出来る。だけれども、こうした訓練は肉体・精神の限界を超えると言われているが、死なない程度に調整されている。相対的に身体能力・精神力に劣る者は脱落することもあろうが、大多数の者は血ヘドを吐けばクリアできることにはなっている。
 一方で、企業の営業活動や商品開発は、軍隊の訓練ほどは肉体的に苦しくはない。しかしながら市場のタイミングや資源配分のされ方によっては、個々人がいかなる努力をしようとも設定された目標を達成できないことがある。しばしば恣意的に達成不可能な目標を設定されることもある。いかなる努力をしても、「結果が出せない」という理由で解雇される状況もまた、「厳しい」と呼ぶことが出来る。こうした状況は、いかに血ヘドを吐こうが命令に従事している限りは解雇されることのない軍隊とは、違った「厳しさ」である。
 しかし、この2つの「厳しさ」が質的に違うことを理解せず、違った種類の「厳しさ」に相対する自己と他者との優劣を論ずる者がしばしばいるが、それにはまったく意味がない。


 さらに、艱難に挑戦することが有益な場合と、何の利益にもならない場合とがある。例えばスポーツは、練習をすれば上手くなるとは限らない。指導者が愚かで、間違った訓練方法をすれば上達しないばかりか、ムダに身体を酷使してケガや障害の元となることもあり、「厳しい訓練」をしているのに一向に上達しないという状態は、精神的にも多大なストレスとなる。これはムダな「厳しさ」である。間違った鍛錬はしない方がいい。これを仕事に置き換えると、さらに悲惨になる。無能な上司によって、従事しても会社にまったく利益をもたらすわけでもなく、長く続けても実務経験として評価されない仕事を強いられる場合は、従業員は人生の時間をムダにし精神的なストレスとなり、会社も資源の適性配分が出来ていないことになってしまう。
 一方で、乗り越えれば有益な艱難は、困難に立ち向かう方法論が適正な場合や、問題の解決が可能な場合に限られる。スポーツの場合、同じく苦労して訓練するのならば、身体能力を発展させられ、試合に役立つ技能を身につけることが出来る方法でもって「厳しく訓練」すれば、本人の資質の範囲で有益な結果が出ることだろう。仕事に於いても、困難ではあっても実現可能な問題に取り込めば、会社に利益をもたらし、自身の評価とやり甲斐につなげることが出来る。
 しかしムダな艱難をあたかも有益な行為であるかのように見なし。それを他者に強要する人間は、少なくない。



(2)過酷な環境の中で精神が磨耗しているときに、自己の精神の安定を守るために用いられる文言。2つパターンがある。


 1つは自己よりも他者を劣ったものと認定して、なんとか自己の尊厳を守ろうとするパターン。例えば、社会に出たばかりの新人会社員が、学生相手に「社会は厳しい」などと喧伝して若年者の認識や精神のありようを叩き、抑圧移譲してなんとか満足を得ることが挙げられる。
 経験や年齢に於いて大きな格差がある若年者に対し、日常の些細な心構えや認識の稚拙さを「劣った人間の証左」として叩くのはアンフェアである。違った環境・経験を持つ他者と自己とを比較して、優劣関係を見出したところで自己の快楽以外は何の意味もない。これは所詮、僅かな経験をすれば埋まる程度の差違に過ぎないのだから。また、「相手のため指導してやっている」などとうぬぼれて「社会は厳しい。お前のような甘い人間はやっていけまい」といったような言説が行われることもある。これも、僅かな経験の差違をまるで産まれ持った人格的優劣の差違のように捉えて、未だ「厳しい環境」とやらにない若年者は未来永劫「厳しい環境」に適合できないと決めつけているだけである。人間は環境によって変わることも、自分が甘かったことも考慮に入れず、誰かを叩いて鬱憤を晴らしたいだけの言といってもいい。そのためこうした「指導」は、相手にとって生産的なアドヴァイスにならないばかりか、不当な言いがかりになることも大いにあり得る。


 2つ目は、過去に自分が行った選択や思考、精神などを嘲笑するパターン。例えば、若い頃に志した目標が達成できないとき。大それた目標でなくとも、かつての予想より遥かに苛烈な生活を余儀なくされたとき。こうしたときに、自己を蔑み、社会とは何もかもうまくいくわけがない場所だと決め込むのに「厳しい」という語が用いられる。
 もちろん生きていくためには諦念は非常に重要である。世の中には解決不可能な「厳しさ」は溢れている。運や生まれた土地柄や家柄・資産といった本人の努力とまったく関係がないことに人生は極めて大きく左右され、個人の能力で物事が決まる余地は少ない。しかし、限られた情報と経験しか持たない過去の自己を蔑むのは、もっとも見苦しく非生産的な思考である。さらには、もしかすると成功出来たかもしれないが、自己の怠慢や能力不足・人格的欠陥などを認識しないがために失敗することもとても多い。環境ではなく、自己に問題があったのにも関わらず、「社会は何もかもうまくいくわけがない。世の中は厳しい」などとつぶやくのは、責任転嫁以外の何者でもない。



(3)社会や組織、あるいは他者の問題点には目をつぶり、ただ苦痛に堪えられるか堪えられないかという「個人の精神力」に問題を摩り替えるための呪文。「解決策がない艱難」や「堪えても無意味な艱難」をも、「解決できる艱難」「乗り越えれば有益な艱難」と決めつける発想とも言える。


 社会生活を送っていると、とんでもない理不尽な目に合わされることもある。努力が不均衡であり、また適正に評価もされないこともある。不正に関わらざるをえないこともある。不当な暴力や暴言を受けることなどもしばしばある。だが、そこに於いて騒ぎ立てることを「苦痛に堪えないガキ」の所業とし、黙ってただひたすら堪えることを「大人の在り方」とする二元論がまかり通るようでは、あらゆる問題はどんな些細なことでも解決が難しくなる。
 もちろん、理不尽や不正や迫害は解決するのが困難であり、堪えるしかない場合も少なくはない。そこに於いて「世の中は厳しいものだ」と奥歯を噛み締めて堪えるのは必要な態度ではある。しかし、なんでも「世の中は厳しいものだ。だから堪えるしかない」などと称して、問題提起やそのための努力、闘争を放棄していては、小さな問題もやがては肥大化していく一方だ。世の中の人間の大多数が驚愕するようなとんでもないことが行われていても、事態の深刻さに鈍感になってしまいかねない。その結果、社会的地位のため、カネをもらうために仕事をしていても、不正に慣れ、不正に堪えた結果、法や世論の裁きを受けて多くを失うことになりかねない。あるいは不備や手抜きに慣れ、事故が起きて命を失うことさえ容易に考えられる。


 理不尽や不正、横暴に堪えるか。見過ごさずに戦うか。あるいは、ただ静かに去るか。どれを選んでも結果がどうなるかはわかりにくい。看過していても、そのまま日常生活を過ごせるかもしれない。あるいは、事故や事件が起きて処断されるかもしれない。闘争を起こしても、誰にも理解を得られず法的にも負けるかもしれない。あるいは、改善を勝ち取るかもしれないし、後々問題が発覚したときに「反対した」という事実が評価されるかもしれない。静かに人知れず立ち去った場合は、新しい道が見つかるかもしれないし、給与・待遇、やり甲斐などが比べ物にならないほど低い道しかないかもしれない。それでも不正に関わるよりはマシとして納得できるかもしれないし、出来ないかもしれない。
 選択に対して、どんな過酷な結果が出るかもわからず、解決などないかもしれない。それでも選択をしなければならないという状況は「厳しい」と呼んで差し支えないかもしれない。しかし、「この厳しい世の中に於いては堪えるしかない。堪えればすべてうまく行く」という全てを個人の根性に帰結される単純な発想は、甘いと言わざるを得ない。


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