last up date 2005.04.05
国家保安法(こっかほあんほう・韓国法)
韓国の法律。反国家活動を防止して、国家の安全と国民の生命、そして自由を守る為の法と定義されている。しかし権力者は保身の為にこの法を恣意的に運用し、政敵の抹殺や国民の弾圧が行われてきた歴史がある。そのため国家保安法撤廃を求める声は多いが、北朝鮮の脅威から安全と秩序を守るためには必要であるとの意見も根強く、韓国社会を二分する争点となっている。
国家保安法が処罰の対象とするのは以下のような行為である。反国家団体の結成。反国家団体として行動すること。反国家団体の支援。反国家団体の支配地域からの潜入、あるいは反国家団体支配地域への脱出。反国家団体の賞賛・鼓舞。反国家団体との会合・通信。反国家団体への便宜の提供。反国家行為の不告知。特殊職務遺棄。無実の罪の捏造など。ここでいう「反国家団体」とは北朝鮮のことである。
解釈によってはどのようにでも適用が可能で、「お前は金日成よりも悪い奴だ」「北朝鮮は韓国よりも重工業が発展している(注:当時これは事実であった)」との発言を根拠に逮捕された事例もある。韓国政府への批判も利敵行為として同法が適用されて封じられてきた。また、韓国籍を持つ人間が日本で朝鮮総連の人間と会うことも、処罰の対象となる。南北交流事業で韓国を訪れた北朝鮮のスポーツ選手を賞賛してさえ、同法違反となる恐れがある。
違反に対しては、参考人としての出廷に応じないときは拘引が可能である。この法の違反者には死刑から2年以上の有期懲役までの罰則が適用されるが、2度国家保安法に違反すると、死刑にすることもできる。つまり賞賛などの比較的軽い罪でも2回摘発されれば死刑になることもありうる。
国家保安法の歴史は大韓民国樹立直後にまで遡る。韓国の樹立は1948年8月13日だが、国家保安法の公布・施行は同年12月1日である。その契機は同年4月の済州島(チェジュド)武装蜂起に対して、麗水(ヨス)・順天(スンチョン)駐屯部隊が鎮圧命令を拒否して反乱を起こした麗順(ヨスン)事件にある。国家保安法は性急に制定された為、大日本帝国の治安維持法をベースにしている。なお、韓国刑法の制定は国家保安法より5年遅れていたことからも、いかに国家保安法が急いで作られたか窺い知ることが出来よう。
制定当初の国家保安法は、南朝鮮労働党と国内左翼勢力の殲滅を目的としていたが、他愛もない反国家的・反米国的発言をしただけでも逮捕する根拠となった。制定の翌年である1949年の1年間で、約11万8000人が逮捕・投獄されている。そして同法の恣意性を最も劇的に印象づけたのは進歩党事件である。1956年、李承晩(イスンマン)大統領は大統領選挙で進歩党の゙奉岩(チョウボンアム)候補が善戦すると、進歩党はスパイであるとして国家保安法違反で党員を逮捕し、゙候補を死刑にした。国家保安法は体制の保身の道具であるとの印象は拭いようもないものとなった。
朴正煕(パクチョンヒ)が軍事クーデターによって大統領に就任すると、韓国中央情報部(KCIA)の設置や反共法の制定と合わせ、国家保安法をますます恣意的に用いて恐怖政治を敷くようになった。朴正煕大統領暗殺後は、全斗煥(チョンドゥファン)大統領が反共法を国家保安法に統合し、これを強化した。全斗煥大統領時代の1981〜1988年は最も国家保安法の適用が多いと言われ、政治運動を徹底的に弾圧した。その後の政権に於いては国家保安法廃止論が幾度となく噴出したが、北朝鮮の工作員・宣伝員に対抗する為には必要であるとする保守勢力の抵抗によって、未だに実現していない。
参考文献
尹載善 「韓国の軍隊―徴兵制は社会に何をもたらしているか」 中央公論新社 2004年