last up date 2002.12.02


国際(こくさい)
(1)internationalの訳語。単純に「国家と国家との付き合い」という意味に於いては、王侯や教会が思い思いに土地を支配してせめぎあっていた時代には、「国際」なる概念は存在しえなかった。主権国家(sovereign state)を主体とした(原則)対等な関係は、1648年のウェストファリア体制の成立を持ってはじめて見出される。
 主権国家とは、唯一絶対・最高の統治権を持つ人ないし機関が、統一的に土地と人を支配する国家形態のこと。こうした主権国家は成立当初、専制君主が雑多な宗教・言語・習慣を持つ人々を支配していたが、やがて国民国家(nation state)化が進んでいく。つまり、かつては主権者の下に散在していた人々が、同一の公用語や歴史観・伝統観を与えられ、国家の枠組みの下で後天的な同質性を持ち、国家の成員−国民としての自覚を持ったということである。ここに於いてはじめて心理的なつながりに依る集団であるnationと、制度的な共同体であるstateとが重なった意味を持つようになり、inernationalという語は、国民国家を主体者とした「国」と「国」との関係を表す語として、提唱される。
 広くこの語が用いられ、国際関係(international relationships)が研究されるようになったのは、第一次世界大戦後。大戦の惨禍はなぜ起こったか、どうすれば阻止できるのか、という疑問と使命感から多くの研究が為され、現在に至るまでinternational relationshipsは重要な研究対象として捉えられている。昨今は国家のみをアクターとし、国家間関係を見るのでは社会の動向を把握・研究するのには不十分だとして、国際機関・NGO・企業・宗教団体・民族団体など、より広いものが主体者として重視されるようになってきている。transnationalな動向を研究するに当たって未だ「国際」「international」なる語が用いられているのは、日本語でも英語でもいささか違和感を禁じえないが、他に代わる語が定着していないので、今後もこれらの語は意味を変えつつも生き延びていくことであろう。ちなみにglobal/globalizationという語は広く使われているが、これはあくまでひとつの具体的な現象・あるいはその力学を意味する語として定着しているので、internationalに取って代わるものではない。



(2)息の長い流行語。日本においては第二次大戦後から大々的に大衆社会において用いられるようになったコトバだが、外国旅行や留学、外国人とのつきあい、外国企業と(あるいは外国企業で)仕事をすることなどへの憧れから、ハイカラなイメージを伴って用いられがちである。この際の「外国」とは、主に北米か西欧、あとはせいぜいオーストラリアとニュージーランドしか指さない。そして「外国人」とは白人しか指さない。チリやコスタリカなど、北米・欧州以外にも国民の大多数が白人の国は存在するが関心を持たれることはほとんどなく、ロシアや東欧も冷戦期に培われた安易なマイナスイメージ(共産党独裁、血の粛清などなど)と冷戦後に培われた安易なマイナスイメージ(経済が破綻して貧乏、犯罪が跋扈などなど)しかないので関心は持たれない。つまり、北米・西欧の白人と付き合うこと、それらへの仲間入りをすることを想定されたコトバである。
 1990年代末期から中国や韓国などアジアの隣国への関心は高まり、黒人や東洋人が活躍するハリウッド映画が日本でも人気を博するようになってきてはいる。しかし、日本に於いて「国際」なる語が伴うイメージとして、依然として北米・西欧/白人中心的な部分を拭いきれない。


 「国際」なる文言の具体的な用法として大学を挙げるが、大学では「国際」の名を冠した学部学科が1990年代から次々設置され、「国際」の文言を取り入れた校名も増えてきた。こうした大学・学部学科では、必ずしも他大学・他学部他学科と差別化されたカリキュラムが組まれているとは限らず、「国際」の名を冠した講義が数コマあったり(しかもそれは他所でもやっているようなことであったり)、語学が週に1コマ2コマ程度多い程度に過ぎなかったりするだけの場合も往々にしてある。しかしそれにも関わらず、「国際」の名を関している学部学科の人気は高く、「国際」の名を掲げている大学も新設大学としては学生が比較的集まる傾向にある。
 「国際」の名に惹かれる学生は、「国際的」な仕事をしたい、「国際社会」に貢献したい、「国際関係」を研究したいなどの結構な動機でそうした名を掲げる大学を志望する者も相当数いるとは想像されるが、上記のような、「国際」を単純にかっこいいもの、ハイセンスなものというよくわからないイメージで捉えて、「国際」の名に引き寄せられている者も少なくはないであろう。だからこそ、内実が政経学部・経済学部・法学部、あるいは文学部・外国語学部とさほど差別化されていない学部も、「国際」と名を冠しているだけで倍率が跳ね上がるのかもしれない。もっとも、殊勝な動機で「国際」なるものについて学びたい学生とて、具体的にカリキュラムや教授陣について調べないで志望校・志望学部を決定する者は相当数いると予想されるが(それはどの学部でも同様のことが言える)。


 何はともあれ、「国際」の名を掲げるだけで受験生が増えて増収が見込まれる、という意味においては、大学にとってはすばらしい文句である。なお、外国人がほとんどいない大会やイベントでも「国際××コンクール」などむやみに「国際」の名が掲げられ、外国と1円も取引がない企業でも「国際××社」などとむやみやたらと「国際」が濫用されるのは、やはり「国際」の文言がすばらしいことのように聞こえるせいであろうか。
 余談であるが私は大学時代に、友人に誘われて「国際××社」なる会社でバイトを行ったことがある。その業務内容は検品や工場の雑用などただの軽作業であり、外国企業との取引など1円もない。2〜3人しかいない社員も、外国人と接した経験があるようにはとても見えない。社名の「国際」は、まったく意味のない文言であった。しかし私にそこを紹介した友人は、「『国際』ってつくから、立派な会社なんだろうと思った」とのこと。こういう意味に於いては社名の「国際」も、少しは意味があるのかも。 


 最後に、「国際」の名を掲げる大学や学部の中には、新潟県の大学院大学・国際大学のように、高度な教育研究体制を持つところもあるし、「国際」の名を掲げる企業の中にも目覚しい活動をしているものも当然ある。また、立派にtransnationalな交流に貢献しているイベントも数多く存在することを付記しておく。 


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