last up date 2006.05.11


民族主義(みんぞくしゅぎ)
 民族とは、シャーマーホーンによると集団を識別する文化的・身体的特質を同じくするシンボルを持つ集団であり、人々のアイデンティティの拠り所である。そして民族主義とは、こうした集団が自らの自決権と文化的特色を確保する運動である。


 民族主義は、古くは中世ラテン語・教会権力の支配を自らの言語と世俗権力で打破する動きとして現れた。そして19世紀には、近代化の為に国土の諸民族に共通の言語・歴史観を普及させて、1つの国民への統合が図られた。しかしその一方で、文化を強要される側の民族の反発が高まった。この動きは民族国家としての分離独立を目指す近代の民族主義を生みだし、第一次大戦は民族主義が頂点に達した為に起きた側面があった。
 第二次大戦後に民族主義は、欧州支配下の反植民地・反帝国主義として現れ、1960年代の「アフリカの年」やインドシナ紛争に民族主義の興隆が見て取れる。その一方で、欧州に於いては国民国家として成立しているイギリス、フランス、ドイツなどで民族主義が勃興した。これは民族的には統合されているのにもかかわらず、国内に政治的な分裂が深まっていることに対して国民がアイデンティティを再確認する為に、排他的なウルトラナショナリズムが発生したのである。
 そして1990年代以降、世界的に人・モノ・カネ・情報が移動するグローバル化が進展する中、世界中の人々の文化や生活の同質性は高まっている。しかしグローバル化がもたらした経済格差の深化への反発として、伝統的な文化へ回帰しようとする民族主義が高揚している。


 このように民族主義は常に政治に対する力学として存在してきてた。この流れの具体例としてロシアを挙げる。ロシアは19世紀、アンダーソンが指摘するように後発国として国民統合を急ぎ、国内の多くの諸民族にロシア語教育を実施した。そして第一次大戦へは、スラブ民族の立場からセルビアを支援する為に参戦した。しかしカーが「危機の20年」で述べている通り、この大戦の結果ロマノフ朝は、国内に諸民族を抱えたハプスブルク朝やオスマン朝と同様に内部圧力によって崩壊してしまった。
 そして社会主義国として成立したソ連は、民族自決を理念として掲げていながらも実質的には帝国であり、ウクライナやバルト諸民族、中央アジアのトルコ系民族などを支配し植民地化していった。冷戦下に於いては西側という敵の存在が民族主義を抑止していたが、冷戦後には民族主義が一気に噴出してソ連を構成する民族共和国は独立し、グローバル化する市場の中で資源を自らの手で活用する道を選んだ。グローバル化の中でロシア本国もまた、欧米の文化・生活へ近づいたが、それにもかかわらず国内は経済格差が拡大し、政治的にも分裂が深まった。この結果、民族主義へ回帰する動きが現れ、尖鋭的なウルトラナショナリズムが社会問題となっている。このように、ロシアもまた、民族主義によって政治と社会が大きな影響を受けていると言える。


参考文献
「新訂版現代政治学事典」 ブレーン出版 1998年


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