last up date 2003.02.10


二元論(にげんろん)
 物事の在り方を一つの軸で二項対立に分かち、物事が二者択一的にいずれの側にあるかを論ずること。英語では「dualism」。「善」と「悪」、「精神」と「物質」、「左翼」と「右翼」、「真の〜」と「かりそめの〜」などが二元論で用いられる代表的な対である。例えば、ひとつの行為を「善」と見なすか「悪」と見なすか。人間を評するのに「善人」と見なすか「悪人」と見なすか。といった具合に、すべての事象を価値観念の軸の右か左かに分類する発想と言える。ここに於いては、その軸が存在することそのものは疑われず、「何が悪か」「悪とは何か」といった判定の仕方しか疑われない。また、+100〜-100のように程度に幅を設けて、「+73」や「-24」のように中間距離をとる場合もあるが、やはり究極的には軸の右か左かということしか見られない。


 人間が何かを認識することは、分類することであるとも言える。そこに於いて、それが二項対立のいずれであるかということを判定してしまえばそれで片付けることが出来る二元論は、非常によく好まれる。条件を限定して物事を考える際には、二元論は結論を導き出す効率がよく、納得しやすく、納得させやすい論法ではある。特に何かを実行するか否かという差し迫った事態に於いては、「やる」か「やらないか」、「必要」か「不要」か、「適切」か「否」かに議論を集約させてしまうと決断と実行を早くできる。具体例としては、二大政党制が典型的な制度化された二元論と言える。
 二大政党制のように、両陣営にほぼ同等の勢力が対峙して議論する場合だけでなく、唯一絶対の「正義」が祀られる場合にも、二元論は人々に好んで使われる。つまり、「正義」か「否」かという用法である。一極の「正義」の元で、本来戦うべき「敵」が事実上ほとんど存在しないような全体主義的力学が支配する社会に於いては、二元論は強烈に暴力的な役割を負う。その例としては、「国家に忠実な労働者」か、「怠慢によって、国家と社会に害を為すクズ」か。「祖国と主義と人民のために勇敢に戦う兵士」か、「戦うことをためらい敵に利する売国奴」か、など。つまり同じ価値観を信奉する同胞同士で異端審問を行い、異端を排除粛清する役割を担うのである。
 このような異端を作り出して排除することを推進力とした全体主義は、なにも一党独裁政権が支配する社会の専売特許とは限らない。


 ある価値に対して疑問を唱えただけで、即座に「反対側の陣営の加担者」と見なされることは、いかなる社会に於いても見られる現象である。言論の自由や精神の自由を掲げる社会も、例外ではない。例えば、人類のほとんどにとって共通の価値であるはずの「平和」について述べたら、体制側の人間には「反権威的な共産主義的危険分子」と見なされ、反体制側の人間には「体制への協力者であり、帝国主義者」と見なされることがある。昨今では、体制側には「邪悪な『テロ』を擁護する犯罪者」と見なされ、反体制側には「経済的文化的侵略を温存固定化しようとする帝国主義者」と見なされうる。合衆国で2001年のアフガン攻撃に疑問を唱えただけで、テレビ・コメンテイターが「5th columnist」として番組を降板され、自宅への投石や嫌がらせが相次いだ。21世紀に、自由を掲げる国で起きた出来事である。
 そこまで過激ではなくても、現在の日本で「平和」というコトバを口にした瞬間に、「日本共産党員か」と見なされうる。「太平洋戦争の罪悪」「従軍慰安婦問題」「南京」なんかに対して、「赤旗」に書いてあるような歴史認識をし、またそういう主張を唯一絶対の正義と捉えていると思われる蓋然性は高い。逆に、「平和」を述べるに当たって「軍備撤廃」「武力行使絶対反対」以外のことを言ったら、「米帝の追従者」「既得権益ナショナリスト」「過去を改竄する国粋主義者」「とにかく武力行使したくてたまらない軍国主義者」などと見なされ、きな臭い有事論を礼賛し、とにかく日本の先人を讃える歴史認識をしていると思われる蓋然性も高い。
 二項対立的な図式を描いている人に対して、その対立図式そのものを疑ったり、あるいはその人が信奉する思想から外れる意見を述べたりしただけで、二元論的に「敵側の人間」と見なされる。これは、いかなる社会に於いてもいかなる人間にとっても、ややもすると陥りがちな病理なのであろうか。


 身近な気に喰わない人間を自分と区別し、報道で耳にし目にする気に喰わない人間と自分とを区別し、あるいは世の中の問題をすべて一定の人間のせいにして、世の中の人間をそうした「問題ある人間」と「そうでない人間」とに分ける、というのは個人レベルでも極めてよく見られる論法である。
 日頃接している人間の中には、ちょっとした言動が癇に障るとか、態度素行が悪いとか、愚鈍さ加減に腹が立つとか、仕事の要領が悪くて足を引っ張るとか、足を引っ張らなくても見ていて苛つくとか、気に喰わない人間というのはいるものである。そういうときに特定一個人に対して批判誹謗するのはともかく、その特定一個人から何かもっと巨大な人間集団を思い浮かべてしまう場合がある。例えば、「これだから高学歴者は使えない」「高校も出ていないから、やっぱりこいつはクズだ」「田舎者はドン臭い」「やっぱり都会人は冷淡だ」など、個々人の事例というミクロから似たような出自・学歴・年齢・性別・趣味・体型の人間集団というマクロを導き出してしまう。「高学歴者は使えない」という例だと、「高学歴者」と「高学歴者以外」という二項対立を潜在的に抱いていることになる。そうした思いを覆すような人間が現れても、「こいつは高学歴者だけれども使える」と、あくまで例外として片付けられ、二項対立そのものはなかなか疑われない。そして、具体的な集団を思い浮かべなくとも、「こいつのようなクズ野郎」と「そうではない人間」のように極めていい加減な二項対立を思い浮かべて、個々人がどちらに分類されるか判定している場合も往々にしてある。


 具体例を挙げよう。北海道在住者の中には、「北海道」と「内地(どうやら北海道以外のほぼすべての日本を指すらしい)」とに分け、「北海道」は「精神の自由がある」と礼賛し、「内地」を「旧弊な封建的因習が跋扈する」と侮蔑する人々が存在する。しかし「北海道」と言ったところで非常に広大であり、住んでいる人々もアイヌ民族の人々、江戸時代の移民の子孫、明治期の開拓農民の子孫、最近転勤してきたサラリーマンやその家族など、多彩である。そうした土地と人々を根拠もなく1つのものとして扱い、もっと多様な「内地」なるものも1つとして扱い、その優劣を述べるなどというのは神学論争に等しい。
 そしてこうした「北海道至上主義者」を批判する場合にも、同じく「北海道人」対「その他の日本国民」というよくわからない図式に囚われ、その「北海道人」なるものを「穏健な北海道人」か「過激な北海道人」か二者択一的に判定する人もいる。これでは「北海道至上主義者」なる人も批判者も大差はない。そういう場合、判定者が「北海道人以外の日本国民」を自認していようと「穏健な北海道人」を自認していようと、結局は「過激な北海道人」なる異端を作り出して貶め、自分をイノセントと思いたがるという、やはり優劣意識が働いていると言える。


 つまり、こうした二項対立を次々思い描き、連鎖的な判定でもって人や物事を捉える思考は、個々の具体的事例を考察する努力を怠ってよくわからないカタマリを思い描くという、幻に支配された思考と言える。そして大抵は叩かれる側には発言者本人は入っておらず、異端を貶めることによって相対的に自分は正常である、自分は優秀であると確認する儀式であるとも言える。犯罪報道を見て、犯罪者の出自や趣味から「犯罪を犯しそうな人々」を思い描いて恐怖するとともに、自分がそうではない、つまり「正常」だと安心するのも同じ発想である。
 とにかくあらゆることに黙して堪えるのが「物事をわきまえた大人」で、待遇の不満や改善要求、あるいはぼやきを口にするには「青臭い、我慢することの出来ぬガキ」。誰とでもすぐに酒喰らうのが「付き合いのいい奴」で、あまり飲みに行かない、行けない人は「自分のことしか考えない卑怯者」。・・・などなど、世の中には驚くほど二元論が満ちている。しかもとんでもなく稚拙なものも少なくはない。自分の気分で他者をカテゴライズし、個々の具体的な検証は怠られる。そしてこうした二元論的なカテゴライズは往々にして、気に喰わない他者を貶めて悦に入り、自分の優越を確認して悦に入るために為されている。快楽を伴う儀式。だからこそ二元論的な認識は、どんな稚拙なものであれ不当なものであれ、疑うことが難しい。その結果、不当な差別に繋がったり、人や物事を甚だしく誤解してミスを犯したり、余計な対立を招いたりする。簡単な二元論を連鎖させて考えているだけでは、思わぬ簡単なことを見落としがちにもなる。


 二元論は、非常に便利な論法ではある。差し迫った事態に於いて何かを「やる」か「やらない」か、あるいは目前の他者が「敵」か「敵以外」か。即座に判断しなければならないときには有用である。そして、限定された条件下の物事を考察する場合にも役に立つ論法である。とりあえず二項対立を設定して検証を開始する、というのも出発点としてはわるくない。しかし二元論の対立軸があたかも人類開闢以前から存在するように捉えて、軸そのものを疑うことを怠ってはならない。右か左か折衷案か、テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼだけではなく、軸そのものを疑いぶち壊す第4の発想、新しい視座を常に模索していなければ、やはり知らず知らずのうちに既存の判定を疑うことをやめ、物事にアプローチする努力を怠り、questionの余地のないanswerだけの思考に埋没してしまうこととなる。しかも、自分にとって心地よい発想を好むあまりに、悦楽をもたらう発想を重んじ、それを壊すことを意識下で拒むようになってしまいかねない。
 二元論は、大変便利ではあるが、病理的な閉塞に陥りかねない危険な論法でもあると言える。


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