last up date 2003.03.30


ノミニケーション
 酒を飲むという意味の「飲み」と「communication」の合成語。酒を飲んで交流を深めることを指す。酒を飲むことこそがコミュニケーションであり、コミュニケーションとは酒を飲むことである、といういかにも日本的な前提を持つコトバである。


 何が日本的かと言うと、一緒に酒を飲めばそれだけで他者と分かり合えて、何らかのつながりが出来たかのような錯覚を持つところが日本的なのである。
 もちろん、人間とアルコールとの歴史は深い。アルコールがもたらす快楽も、他者と酒を酌み交わしてなにがしかの時間を共有する愉悦は、多くの土地で幅広く普及している。だが、飲みの場で有益な話や取引や行為が為されなくとも、ただ自分が奇声を発してよくわからんことを抜かしただけだったり、そうした人間を笑っただけだったり、よくわからんゲームやシュプレヒコールやオチが最初から決まっているかのような雰囲気に追従しただけだったり、猥談をしたり愚痴をこぼし、あるいはそれに同意しただけだったり、あまつさえただその場に居いただけだったりしても、飲みさえすれば分かり合えた、他者と自己とを分かつ敷居が低くなった、何らかの関係を築けた、などと思いこむのは非常にナンセンスである。飲んだだけで人事を尽くしたような気になり、相手が自分のために何かしてくれる、商売の取引がうまくいく、などと考えるのはあまりにも安直かつ自己完結的な発想と言える。


 だが、そうした傾向は日本の世間には溢れかえっている。学生も会社員も役人も、帰りに集団単位で飲むことがとても多く、そのため居酒屋の類がとても多い。酒を主に供する店の数と日常においてそこに立ち寄る頻度は、極めて高い社会と言える。
 そしてただ飲みの場にいてとりたてて内容のある生産的な会話が為されなくとも、分かり合えた、腹を割った、信頼関係が出来たなどと大っぴらに称され、それが当たり前としてまかり通ることが極めて多い社会でもある。もちろん酒に関してそのような発想を持つ人間は、酒が普及し消費されている社会において必ず存在するが、それは教養も知能も生産力も低く、下手するとアルコールや薬物の依存症だったりもするクズの発想と見なされかねない。しかし日本に於いては、酒の場に対する信仰が社会の高い階層にも普及している点で特異である。


 余談だが、就職の面接で「ノミニケーションをやっていたのか」などと聞かれたときに、ただノミニケーションを礼賛し、自分が酒好きなことや宴会王であることを喧伝するのはお勧めしない。酒を飲むことこそが接待であり、接待とは酒を飲むことである、酒の場に同席すればそれだけでパイプが出来て、一緒に飲んで盛り上げれば取引もうまくいく、と考えるクズと見なされかねない。酒や飲みや宴会が好きなことを言っても構わないかもしれないが、それこそが人間関係であり意思疎通であるというようなことは自分がバカだと言っているようなものだ。むしろ、酒は飲むがそこでの行動・言動をどうしている、飲みという場をどう捉えてどう利用しているかまで言えるようにしておくことは有益である。
 ただ相手が「ノミニケーション」を手放しに礼賛しているときは逆効果かもしれないが、それは程度の低い人間がまかり通る程度の低い会社と思って別の手を考えるべし。 


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