last up date 2003.01.11
差別(さべつ)
(1)人種・宗教・出自・身体的特徴など、ある共通の要素を持つ人々を、そのただ1つの要素を持つということのみを根拠に同一視し、他のあらゆる要素を無視して個々人の人格や能力などに対して、固定的な見解を持つこと。また、その見解によって、個々人や集団の特徴を無視し、同一性を侵害すること。
極めて簡単な例を出せば、次のようなものが挙げられる。「ロシア人は金融犯罪者が多い」「チェチェン人は爆弾テロを行う」「米国の刑事犯は黒人が多い」といったイメージやごく一面的なデータを根拠にあたかも科学的事実であるかのように、ある人々を犯罪者の予備軍とする発想。「アメリカ人はハンバーガー食って、ペプシコーラを飲む」「中国人は烏龍茶を飲んで、油っこい中華料理を食う」といった、ちょっと見知った生活習慣を、ある人々の誰もがいつでも行っているというイメージ。「日本人はアイロニスト」「ドイツ人は緻密な職人気質」「イタリア人は陽気で大雑把」といった、人格・性格・精神構造までをも平準化してしまうステレオタイプなどがある。
もちろん「〜人」というのが何なのかというのははっきりしておらず、「〜国民」のことなのか、「〜民族」のことなのか、どういう地域に住んでいるどんな階層の人々を想定しているのかもよくわからない。さらに言えば、どこのどういう出自の人間であるからと言って、個々人にそうしてステレオタイプを当てはめて実際を無視し、人格や能力、犯罪の可能性に至るまでをも勝手に判断するのは不当な評価であり、同一性の侵害と言える。
また、「障害者は、自らの障害に悲嘆するあまりに周囲を憎悪し、倦怠に支配されているのではないか」「学歴のない人間は、粗暴で怠けることしか考えていない」「大阪の出身者はドけちで、図々しい」という負の評価はもちろんのこと、「障害者は自らの障害に毅然と向き合い、闘っているのだろう」「進学しなかった人間は、学歴社会とは違った価値を見出して自らの道を邁進している」「大阪の人間は気さくでおもしろい」という無理やりな礼賛評価もまた、同一性の侵害や不当な待遇に繋がる。
ステレオタイプや想定の内容の正負とは関わりなく、「こういう人間は、こういう人格を持っているに違いない」「こういう人間は、こんなことに優れるだろう」と異質な人間ないし人間集団を定型的に思い描き、それを個々人への適用することこそが、あらゆる不当な待遇と同一性の侵害の温床と言える。
もちろん、この世に大勢いる人間を認識するに当たっては、カタマリとして認識する方が簡単である。そして、こうしたステレオタイプはある程度共通認識として存在するので、話題や表現技法、冗談としては便利である。そのため人間(集団)を定型的に捉えるのは不可避であり、また好んでそのように考えがちであるが、少なくとも個々人に集団に対するステレオタイプを適用させようとせず、集団に対するステレオタイプもまた常に疑い続ける必要がある。
(2)自己との差異、特に当人の責任ではない身体や出自の差異や、単純に優劣を測れない生活習慣や価値観の差異のみを根拠として、特定の他者を価値の低い存在・劣った存在と見なすこと。異質な存在に対して、安易にラベリングして納得しようとした結果なされる不当な評価とも言える。
自分が思い描く人間の在り方がマジョリティかどうか。マジョリティと想定する人々の中に自分が入るか。マジョリティとされる中に於いて自分はどんな位置づけか。これらのことに関しては大抵は根拠はないのだが、人間の在り方に対して想像できる範囲が狭い人間は、往々にして自分がマジョリティであり、自分のやるようにすることが幸福だという思い上がりを無意識に持つ傾向がある。そのため異質な人間に対しては、自分よりも劣ったもの、間違った者、まだ自分の位置に至らぬ者という感覚が意識下に湧き出し、結局優劣関係で異質な人間と自分との関係を規定してしまうことがある。
「差別」という意識も、不当な評価や生活スタイルの強要をしているという意識もないため、その不当性の指摘を受け入れさせることは困難である(そんな指摘がなされること自体が、想像の範疇を大きく逸脱している)。一般的に、人の出入りが少ない地方の住人や、生活環境が激変した経験のない人間が行いがちな思考とされる。しかし、国際交流、グローバルというコトバが流行る時代に於いても、人間が他者と出会う範囲は限られており、どうしても一定の同質性・共通性の中で生活をする。そのため、こうした優劣関係で異質な他者を判定するしか出来ない人間は、都市部や在外経験者にさえも依然として少なからず存在する。
(3)口にするだけで、相手の待遇や発言を完全否定するための呪文。
もちろん「差別」の不当性や犯罪性は指摘し、弾劾してしかるべきだが、普段迫害される側の人間がその立場を逆手にとって、攻撃手段とすることもある。また、過度な「差別」の排除運動がコトバや態度を「差別的」と認定呼称して、表現の利便性や多様性を著しく阻害し、絶対不可侵のタブーを作り出してしまうことも起こっている。「差別的な」表現さえ使わなければそれでよいという態度を浸透させてしまうとともに、「差別」や「差別表現」を論じるに当たってそれらを完全否定する以外の言説を封じてしまう恐れもある。
そういう意味に於いても、非常に扱いと対処が難しいコトバと言える。