last up date 2002.12.19
視野狭窄(しやきょうさく)
要約
(1)医学的に、見える範囲が狭い症状のこと。
(2)一定の視座や観念でしか物事を考えられず、思考が及ぶ範囲が狭い状態のこと。
(3)上記(2)の一種。二元論でしか物事を考えられない状態のこと。
(4)強い感情を見せる人間を評するコトバ。そうした人間は、(2)の状態に陥っているというイメージないし願望を意味する。
(5)強い意見を言う人間を評するコトバ。そうした人間は、(2)の状態に陥っているというイメージないし願望を意味する。
(6)自分に都合の悪いことを言う人間を評するコトバ。そうした人間は、(2)の状態に陥っているというイメージないし願望を意味する。
(1)緑内障や網膜色素変性などの、先天性あるいは後天性の疾患によって、見える範囲が狭まる症状のこと。周辺から狭まってくるため、初期のうちには自覚するのは難しい。異常を覚えたら早期に眼科医の診察を受けること、ある程度の年齢に達したら、定期的な検診を受けることが望ましい。また、網膜が光を認識する機能が衰えて起こるため、いわゆる夜盲症が先行して起こるケースもある。そのためこの視野狭窄症状を持つ人の中には、夜間は視覚障害者用の杖と懐中電灯を駆使して歩行している人もいる。しかし視野狭窄症状そのものは、運転手など特定職種を除けば、仕事や日常生活には、それほど大きな支障にならない。不便の助けとするため、高感度カメラと高解像度モニターを利用した、視覚補助装置の開発も進められている(2002年12月段階では、実用化されていない)。
(2)思考に於いて、その思索が及ぶ範囲が狭いこと。軽蔑した響きを持って使われがちであるのだが、身体的症状としての視野狭窄への不当な差別に繋がるとの問題提起は、2002年12月段階では広くは行われていない。また、この思索に於ける「視野狭窄」は医学的疾患と異なり、どのような状態か明確に定義されないままに用いられがちであるが、だいたいは次のような有様を指すと考えられる。
この抽象的意味に於ける「視野狭窄」とは、次のようなことを指す。
将来起こる物事や事象の予想や、過去に起こった物事や事象を想像するときに、「起こり得ること」「起こり得たこと」の予想・想像できる範囲が狭いこと。questionを放棄し、確固たるanswerを希求しそれにしがみつくこと。自分がこれから選ぶ選択肢の幅を、ごくわずかしか考えられないこと。人・事物・事象を判断するのに当たって簡単なラベリングやイメージで片付けてしまい、自分の想像の範囲内に終始してしまうこと。
あるいは価値判断の問題ともとることができる。自分が抱く価値判断を、唯一絶対のものと見なして他を完全否定すること。自分の価値判断以外の判断が存在することそのものを考えられないこと。価値判断を離れて物事を考えることをしようとしないこと。一つの価値観の軸でしか考えられず、軸を基準とした右か左かどの程度の中間か、しか考えられないこと。
他者がこのような思考を行うと人が感じた場合に、この「視野狭窄」という語は用いられる。もちろん他者をそう認定するときは、相手が「劣っている」という消極的な、あるいは自分が「優っている」という積極的な優越意識を伴う。さらに、本来複雑怪奇な他者の思考回路を把握することはほとんど不可能に近いが、「相手が極めて単純な思考回路をしている」と簡単にわかった気になることは、安心と快楽をもたらす。しかも、相手を「視野狭窄」と判断した根拠が自分の抱いた印象とイメージしかないため、一度他者を「視野狭窄」だと考えたら、それを覆すのは難しい。
また、「視野狭窄」と言い放たれた人間は、まさか「自分は視野が広い」などと言う訳にもいかず、「視野の狭い人間は、自分の視野の狭さも認識できない」として相手は見下してかかっているため、言い返すのに窮する呪詛のようなコトバでさえある、と言えなくもない。
ちなみにこの意味に於ける「視野狭窄」的な人間は、必ずしも「考えていない」というわけではない。考えはしても、物事や人間に対して、自分のラベリングやイメージ、ステレオタイプを疑うこともなく、非常に簡潔な認識しかしていない。そのため、世の中の膨大な情報の大半を見ることなく、ただとてつもなく簡単なステレオタイプを連鎖させていくだけになる。例を挙げれば、「あいつは気が弱い」→「優等生だからだろう」→「ならば、ガキの頃からただただ先生や親の言うことばかり聞いてきたに違いない」→「悪さの一つもやったこともないに決まっている」→「世の中勉強よりも大切なことがあるんだよ」→「世の中の官僚とか社長とか偉い奴らもこんなのばっかりだろう」→「まったく、こういう奴が世の中をわるくする」、のように。
こうした思考は、1の情報(というか自分の抱くイメージ)から100の妄想を生んでしまいがちで、またそうして抱いた認識はなかなか覆らない。疑うことが出来ないため思考に大した何の発展性もなく、ますます狭い自分勝手なステレオタイプが固定化されてしまうことになる。そしてこのような人間こそ、自分の想像できる物事の範囲、つまりステレオタイプの連鎖の枠から逸脱した人間に出会ったり、自分にとって不愉快な人間と出くわしたときには、相手を「視野狭窄」と見なしがちといえる。なぜならば、相手が「思考の範囲」から1つの選択をしているなどという想像を「視野狭窄」的人間には出来ず、相手が自分と同じく、ただ1つの単純な世界観を持って生きているとしか想像できないためである。
他者を「視野狭窄」的だと思ったのならば、それは口にしない方が賢明かもしれない。
(3)
二元論に支配される人間が、自分に都合のわるいことや気分を損なうことを言われたときに、そうした発言ないし発言者に「敵対者」「劣った者」というラベリングをし、それによって自己を省みることなく、自己の思考の「視野狭窄」性やそれが生み出す問題から目をそむけるための文言。
敢えて極端な例を挙げれば、いわゆる「体制寄り」と「反体制的」。「市場開放・自由競争」と「市場介入」。「権力サイドの人間」と「テロリスト」。製造・サービスなどの「現業」と、経理・人事・法務などの「管理」、より簡単に言えば「組織の、存在目的のための活動」と「組織の、存立のための運営努力」。世の中にはこのような対立軸が溢れており、どちらかの立場に立って、とにかく他方を叩く人間は必ずいる。ここに於いて折衷案や対立軸そのものの批判をすると、逆に「視野狭窄」と見なされることがある。つまり、敵対する思考の熱烈な信奉者であり、敵対する思考を礼賛してそれ以外を考えることができない人間と見なされる。
本来は、多くの人々にとって共通の価値である「平和」にさえも、その傾向がある。例えば、冷戦期には「平和」を唱えると体制寄りの人間には「共産主義者」としてしか見なされず、反体制的な人間には「帝国主義者」としか見なされないということもあった(戦後日本に於いては、「平和」を口にすると共産党などの革新政党の支持者と見なされることの方が多いが、「平和」を口にして革新政党から責められる逆のパターンがなかったわけではない。また共産圏では「平和」を語る人間は、「反動的な帝国主義者」としばしば見なされた)。
会社の繁栄を第一義に考える人々の間でも、本来の目的たる現業を第一に考える人間にとっては、現業に対するあらゆる拘束(合理化や規模見直し、法令社則の遵守指導など)は、「管理を自己目的化した人間」の本末転倒な発言とみなす。また、組織が存在するための努力を払ってきた人間には、組織の存在目的の遂行のために無理を押すという発言に対しては、「存在目的という理想をとかく掲げて、実際を無視する人間」の寝言とみなす。
自分にとって不利な決定を阻止するため、あるいは自分の社会的立場を守るために確信犯的に言うのならばともかくとして、本気でこの世に右対左のごとき座標軸しかなく、すべては究極的に二元論的に振り分けられると考える人間にとっては、自分に批判する人間、この座標軸を批判する人間自体が「視野狭窄」に見える。つまり、相手が「視野狭窄」な愚か者なので、そうした人間の発言や問題提起に耳を貸す必要はないと結論付けることができる。つまり、非常に自己完結的で、安定したゆりかごの中に思考を安置していられる。
(4)極端な情緒を抱く、あるいは極端な情緒を見せる人間に対して抱かれがちなイメージ。(2)の意味に於ける「視野狭窄」とは「思考の及ぶ範囲」が狭いという意味だが、「点」あるいは「ベクトル」に過ぎない情緒と、「面」である「思考範囲」とを一緒くたにしているところに、この発想の無理がある。
もちろん、昂ぶった感情が目を曇らせ、他のあらゆる選択肢を認識できなくなる、ということはある。怒りや憎悪、あるいは陶酔的な悲しみに溺れ、自分の感情を万人が認めるてしかるべき世界で唯一の価値であるかのように捉えるようになっては、それは病的といわざるを得ない。そして、自分の思い込みや願いにしがみつき、目の前にそれを覆すような事象が展開されても、自己の願望を否定したくない、思い込みを覆されたくないがためにすべてを虚偽として完全否定する、などというのも異常な状態と言える。これらの精神状態は(2)の意味に於ける「視野狭窄」を招いていると言っても差し支えないだろう。
だが、他の選択肢や他の視座があることを想起できないことと、他の選択肢が見えてなおただ一つの選択肢に邁進することとは異なる。例えば、「自分の選択肢がこの世で最も崇高であり、それを選ばない人間はすべて間違っている。だから自分は優れており、他者を啓蒙する」などという認識と、「ただ自分の感情を満足させるために数ある選択肢の中から1つ選んで、強烈に実行する」のとは違う。だが、ただ「激しい感情の発露」「激しい行動言動」を見ると、人はしばしば「この人は、自分の考えが絶対正しくて、他のものが目に入っていないのか」などと思いがちである。これは、必ずしも妥当な判断とはいえない。
瞬間的な感情というものは、いかなる意味に於いても視野とは異なる。感情というものは、何か一点の要求を充足させるために沸き立つ欲求であり、そして充足する流れそのものである。そういう意味に於いては感情とは、「点」であり「ベクトル」に過ぎない。それに対して、視野とは「面」である。見えている範囲、考えられる範囲の中で、どういった行動をしようかという原動力こそが情緒である。つまり、激しい感情をたぎらせて、猛烈に何かをしようとするということは、選択をして行っている行動に過ぎない。例え、誰もが避けそうな艱難の道や非合理的な道を邁進していたり、あるいは誰もが顔をしかめそうな自暴自棄や暴力に走ろうと、それは必ずしも「他に選択肢が見えない」からとは必ずしも言えない。他に選択肢があるのをわかっていてなお、自らが自らを拘束し、1つの選択をするというのは、(2)の意味に於ける「視野狭窄」、つまり「思考の範囲が狭い」ということにはならない。
情緒は、見えているものを無意識に見ないふりをさせたり、異常なまでに物事の解釈を自分に都合良くさせる、選択肢や視座が他にないかのような気にさせる、という意味に於いては、「視野狭窄」を招くこともある。だが、激しき感情によって猛烈な「選択」をすることそのものは、「視野狭窄」とは関係がない。
ちなみに「この映画は今まで観た中で最高だ!」「このゲームも誰それというキャラにハマった!」などと熱烈に語っただけで、「視野狭窄」ではないかと見なされる場合もあるようだ。自分にとって何がすばらしいと語ることを、自分の価値判断を他者に強要し、自分の情熱を他者に共有させることと見なすなど、いかにも「視野狭窄」的である。つまり、自分にとって妥当な選択肢を選ばない者、自分とは違ったことに情念を傾けることは、「視野狭窄」的人間にとっては、「視野狭窄」と写るらしい。
(5)強く何かを主張する人間、特に極端な意見を述べる人間に抱かれがちなイメージ。本来「点」にすぎない意見と、「面」である思考範囲とを錯誤しているところに、この発想の「視野狭窄」性がある。「点」と「面」の錯誤とは、ひとつの「点」に過ぎない意見や見方を、その人物が四六時中いつでも考えている、どんな場合にも視座から同じ基準に従って同じ判断しかできない、とみなすことである。
もちろん、いつでもどこでも、一貫して同じことしか考えられない人間も存在することであろう。しかし、誰もがそんな単純堅牢な思考回路をしているわけではない。どんな駆け引きでもって、その主張をしているのか。どんな意図でもって、数ある視座・数ある価値基準から1つを選んで意見を組み立てたのか。そんなことは、そう簡単に見透かすことが出来るものではない。強い口調で主張を行ったり、過激な意見を提示したりしたぐらいで、「あいつはいつでもそういうことを考えている。そういうことしか考えられない」などと見なせられるほど、人間の思考回路は単純ではない。
あれもよし、これもよしと、強く一貫した主張をしないであらゆることに肯定的な態度をとっていれば、「視野狭窄」とは見なされにくい。万人の意見に「うんうんそうだねえ」と頷き、諸問題に対して利害を持つすべての人間の立場に理解を示しなどし、他者の行動言動に寛容な姿勢をとりさえすれば、少なくとも短期的には「視野狭窄」とは見なされにくい。
だが、そんな態度でやっていけるほど世の中簡単ではない。すべての意見に耳を傾けても、究極的には一つの行動をすることになる。利害のちょうど中間の選択肢などそうそうあるものではなく、また万人の利害を調整することが「適切」とは限らない。失策や「罪」を犯した人間に対し、「事情があったんだろう」などとばかり言っては秩序は崩壊する。寛容になることを強いてばかりいると、物事の改善がなされないのはもちろん、迷惑を被った人間がフラストレーションでおかしくなる。
だからこそ、何かを為す手段として一点の目的のために、他の枝葉を切り捨てて、非寛容に被妥協的に一貫した主張をしなければならない場合がある。「自分は万人の立場や気持ちを理解している。他の考え方があることも理解している」とアピールするためではなく、自分や組織の利益を確保するため、立場を認めさせるために、問題を「解決」させるために、武器として鋭利な主張を行う必要は必ずある。もちろんそこに於いて、「自分は寛容で、視野の広い人間だ」とアピールするために、一貫性のない甘い顔をするのも一つの手ではある。だが、一貫した、強い、非寛容な主張をしただけで、それしか言えない、それしか考えられないなどと見なすのは、人間社会を生きる上で粗末極まりない判断と言わざるを得ない。
自分と利害を戦わせるわけでなくとも、強い口調で過激な意見を言う者に対して、人は「視野狭窄」の烙印を押したがる。
その理由としては、自分が否定されるのではないか、自分の意見や存在を認めてもらえないのではないか、という恐怖を晴らすためという面もあろう。一貫した主張は簡単に否定できる。違った視座を持ち出して、別の価値基準で考えただけでいい。一貫して強い主張を行う人間を、別の視座・別の価値観の存在を想起することもできない、あるいは「自分の考えだけが正しくて、自分のやるようにすることが唯一絶対の解決策だ」と思っている「視野狭窄」だ、と見なすのもまた簡単である。他者、それも自分を否定しそうな他者を劣者と思うことは、大変な安心と快楽をもたらす。
また、自分と違った主張を行う人間を「理解」することも出来る。自分が想像できないような主張を熱心に行う人間は、不気味な存在である。なんでそんな意見を言うのか、何をしたいのか、何を求めているのか。わからないということは、大変な不安をもたらす。しかし、相手が「視野狭窄」的にも簡単明快な一つの行動原理で動いていると考えれば、わかった気になれて安心できる。
相手が「視野狭窄」だという根拠は、自分が抱く「印象」だけでいい。相手は、こんなことを言っているが、他のことを知らない、他のことを考えられないかわいそうな奴だ、と思うだけでいい。簡単である。簡単に、「非被妥協的」で「異質な意見」を持つ「よくわからない人」という潜在的脅威に対して、「わかった」「劣った人間だ(相対的に、自分が優れた人間だ、という感覚ももたらす)」という快楽と安心とを得ることが出来る。
この麻薬的な快楽に溺れて、他者が何故強烈な言動で一貫した主張を行うか探ろうとせず、簡単に判定しようとしていると、必ずや自分こそがラベリングと判定しか出来ない「視野狭窄」的な人間になってしまいかねない。強烈な主張・過激な言動を行う人間の狙いを想像することさえ出来ずに、足下をすくわれることになるかもしれぬ。それも、「自分は視野の広い人間だ」「あいつは『視野狭窄』だから、バカな主張しやがって」という満足感とともに、肝心な利益を失うことにもなりかねない。
(6)自分に都合のわるい言を述べる人間に対し、本来「点」にすぎない意見と、「面」である思考範囲とを(しばしば意図的に)錯誤して相手を貶めるコトバ。意見を言う人間の思考回路を劣ったものと認定して、自己と相手との間に優劣関係を認定することによって、提起された批判や問題提起から目をそむけ、自己の尊厳を守ることができる。
社会には、あらゆるところに問題とコンフリクトを内包している。しかしそれでも、物事が「なんとかなっている」限りは、そうした問題に危機感を抱く人間はそう多くはない。個人レベルの対立や一方的な横暴、セクション間の軋轢や、評価制度上の不備、責任の不均衡、あるいは不正の横行に至るまで、社会に存在する問題は大抵はどこかに不自然な歪みがかかりつつも、どこかで誰かが献身的犠牲を払って社会や組織を支えて存立させ、あるいは破綻させないようにしている。先送りされている場合、問題が引き起こした重大な結果を隠匿している場合もある。
問題が引き起こしている現状やその繕いをしている現状が、例えとんでもなく不自然・不健全な状態でも、理不尽な状態でも、なんとかなっているうちは本気で問題視する人間というのはなかなかいない。また、「これでなんとかなっているのならば、これでいいだろう」と思いがちでさえある。
問題に対して馴れ合いを排し、「これでなんとかなってきたんだから、それでいい」という無責任な甘えを断じる人間ほど、「視野狭窄」と見なされる。職責に対して誠実であればあるほど、問題に対して非寛容であればあるほど、「視野狭窄」と見なされる。自分に歯向かう人間、問題を見逃さない人間というのは、大抵「幼稚な人間」「間違った奴」「人格異常者」に見える。(5)で述べたように、意見を言う人間、批判をする人間というのは、「自分の言うことが絶対正しい。自分の言うとおりにすればすべてうまくいく」と盲信しているクズであると見なされがちである。相手が「視野狭窄」だという根拠は自分が抱く「印象」だけでいい。
馴れ合い(という名の抑圧移譲とフリーライド)で楽をしてきた自分が批判されること。そうした楽が出来なくなること。自分は努力してきたつもりなのに、問題の責任を問われること。自分のやり方を非難されること。自分のやり方、あるいは自分が信奉しているやり方に従わない者が出ること。さらには本気で何にも問題はないと思っているのに、騒ぎ立てられること。また、単に自分自身が責められること。こうしたことは、不愉快なものである。不愉快なときには、自分がとにかく正当で、少なくとも自分に問題はなくて、相手の方こそおかしいと思いたい。そこで登場するのがこの「視野狭窄」というコトバである。
相手を「視野狭窄」、つまり知的レベルに於いて劣った人間だと見なせば、優越意識を満たすことが出来る。これは快楽である。相手が自分に不愉快な言動をした人間ならば、自分が優れており、相手が劣っているという発想はますます快楽となる。そして、相手が「劣っている人間」なので、その言説もまた愚にもつかないものとして片付けることも出来る。その結果、自分の問題点から目をそむけることができ、尊厳を傷つけることもない。
例え相手が(2)の意味に於ける「視野狭窄」的発想の持ち主であろうとなかろうと、提起された問題を「所詮劣った人間の寝言である」として一蹴するのは、自己や社会の問題を顧みる機会を逸することとなる。こうした思考を好めば好むほど、自分に不愉快なあらゆる言説を受け入れることが出来なくなり、「視野狭窄」的にも「『視野狭窄』的な愚か者」と「そうでない人間」、あるいは「『視野狭窄』の度合い」のみによって他者を判定するようになりかねない。また、他者を見下し軽蔑することでしか自己の尊厳を守り、「優越」を確保することが出来なくなる。
種々の問題は、勇敢なる批判者を「異常者」「劣者」として簡単に処理することによって、本当に誰もが認める大問題となるまで放置される。また批判が評価されないために批判を行おうという意志は損なわれ、重大な結果を及ぼす前の「事前の批判」は軽んじられ、自己を顧みるという習慣が人にも組織にも身につかない。「視野狭窄」というコトバは、問題提起に対する最も不誠実な回答としても存在すると言える。