last up date 2004.03.03


「…と思う」(…とおもう)
 断定形を使うことを避けて、自分の発言から視野狭窄性や傲慢さを除こうとする予防線。つまり、自分が「真理」を示そうとしているわけでも、「自分の判断が適格である」と信じて疑っていないわけでもなく、他の見解を否定した唯一絶対の文言を提示しているわけでもなく、自分の言は「ただの個人的な見解にすぎない」と示す意図がある。しかしこのような言い回しはだいたいは蛇足に過ぎず、濫用されると回りくどくなる。そしてなによりも、「思う」と付けたところで視野狭窄性や傲慢さは回避しえない。


 あらゆる発言は、発せられた瞬間にある程度の視野狭窄性と傲慢さを帯びる。発言はどうしても、特定の観念と自分の情緒に基づくからだ。つまり、どんな婉曲的な言い方をしようと、少なくともその発言に於いて発言者は、他の視座に立たないことによって消極的にそれを否定して、特定視座から発言することによってそれをある程度肯定していることになる。「こいつは、ただひとつの基準でしかものを考えられず、しかも自分の見解を唯一絶対の真理とでも思っているのか。その『正しさ』に従えと、俺に言っているのか」との印象を聞く者に持たれるリスクを、発言する際には必ず伴う。
 視野狭窄で傲慢と思われて得なことはあまりない。だからこそ、こうしたイメージを避ける技術は有益だが、「…と思う」を連発するような安っぽい小細工にあまり効果はない。自分が神の代行者のごとく「真理」を述べているのではなく、あくまで自分が「思ったこと」を発言しているなんて当たり前。いちいち「思う」などと付ける必要は、特別な文脈を除いてそうあるものでもない。


 それどころかこの小細工は無責任にもつながる。つまり、「これは私個人のとるに足らない愚考に過ぎない」という意味を添付することによって、自分の発言がもたらすあらゆる影響への責任を回避し、さらには自分の発言に曖昧さを付け加えることによって相手に判断と解釈を丸投げすることにもつながる。
 具体的な例を挙げよう。仕事の方法や基準について質問を受けた人間が、「・・・と思いますよ」といちいち語尾につける場合というのはままあるものだ。ただの口癖の場合もあるだろうが、往々にして、確信を持てない事柄に対して「あくまでこれは私の見解の過ぎない。もしかしたら違うかも知れない」という予防線を無意識に張っているのだ。私も電話応対で、「・・・と思いますよ」との語尾をつけて、お茶を濁してしまおうという衝動に駆られたことは幾度となくある。
 しかし法的な予防線を張るのならばもっと別の言い回しをせねばならないし、ただ自信がないだけならば頼りない印象を与える。そして実際によくわからないことをいい加減に応えて電話をとっとと切りたいだけならば、それは不誠実かつ無責任極まりない。わからないときにわからないと言わず、確実な調査を徹底せず、ただ簡単に無責任な発言をして「・・・と思いますよ」というがごとき蛇足を付け加えたところで、何になろうか。「・・・と思いますよ」の背後に、「実際どうだか知らないですが。まあ勝手に判断してください」という含みを持たせたところで、責任回避にさえなるまい。


 さらに言えば、この根性の悪い言い方は視野狭窄的かつ傲慢な態度を助勢しうる。「・・・と思う」と付け加えることが、「・・・だ!」「・・・である!」と断言するよりも柔らかい印象を帯びることはまず間違いはない。強い断定形で語ることに、自分がすべてを見透かして、自分の見解こそが絶対と吹聴しているかのような抵抗を覚える者もいることであろう。 しかしだからこそ、「・・・と思う」などとオブラートに包んだ言い方をすることは、言いにくいことを言いやすくし、抵抗が予想されることも穏やかに口に出来るような気にさせる。穏やかな言い方をしているという自覚が、傲慢な発言をしているという自覚を失わせ、単に自分の意見を述べているに過ぎないという姿勢が視野狭窄性を加速させる。
 つまり、柔らかく、そして相対的であるかのような言い方をすれば、何か言っても許される、何か言っても狭量な視野狭窄的言動とは見なされないという錯覚が生まれ、自己の言動を省みることができなくなってしまうわけだ。思いっきりバカな例を挙げるが、「お前はバカ野郎だ!」と言うのと「君はバカだと思うよ」と言うのと、どちらが腹が立つかと言えばどちらも優るとも劣らない屈辱を与える。だが、なんとなく遠回しに言えば許される、反撃されるわけがないとの感覚に陥ってしまうわけだ。反撃を予想しなくなるということは自己を省みる機会を失い、他者性を想起する能力が曇るということと言っても過言ではあるまい。


 余談になるが、次のような人間がしばしば存在する。上記のごとき思考の結果かどうかは確かめようもないが、明後日の方向や床を見たまま、「・・・は・・・だと思う」と独り言のように、突然飛躍した自分にとっての結論をつぶやく人間を、私は何度も目撃した経験がある。自分がさりげなく真理を突いているかのような態度だ。本人がどういうつもりでこのような言動をしたのかは知らないが、「特定の話題が登場した瞬間に、突然自動的に自分にとっての結論を文脈を無視して口にするしか出来ない視野狭窄性」と「自分が『真理』を語ったからそれですべて語り尽くした、これ以上の説明をする必要もないと言うがごとき傲慢な態度」という印象を与えかねない姿勢である。
 しかしまあ、「大学」と聞いただけで「大学の奴はみんなオタクで、こういう奴が官僚や経営者になるから世の中がわるくなると思う」と口にしたり、「政治家」と聞いただけで「政治家が悪くてズルくてワイロばっかとって金持ちと私腹を肥やしているから、世の中よくならないんだと思う」といった世間話の類の言動ならばまだ聞き流せる。しかし「**は生きていけないと思う」「**は堪えられないと思う」などと第三者あるいは会話の一員に対する誹謗(根拠が提示されず、抽象的に過ぎるので誹謗でしかない)を提示しただけで、自分がその人間について語りきったかのような気になり、しかもそれでいて周囲の人間からの不興を買っているという自覚もない。そんな人間というのもいるものだ。予防線としての表現手法を免罪符と思い込み続けることが、かくも自己完結的な思考回路を造り上げる一因となってしまうのであろうか。


「あれもいいし、これもいいし、自分の考えなんて数ある発想のひとつにすぎないし、押しつけるつもりもないけど……」
「自分の見解なんかはただの愚考であって、あまり気にしないでください」
などなど、自分の主張をぼかす文言は、ここそこで見られる。「・・・と思う」という余計な語尾もまた、こうした根性の悪い稚拙な予防線の一種であり、多くの人が気軽に使われる。だが、主張に於いて本来伝えるのは、自分の形而上的視野や人となりではなく、一点の意見にすぎないはず。伝達すべき意見に、「自分がこの意見を唯一絶対視していない」などと余計な文言を添付すると、伝達されるべき意見の解釈に阻害を来す。
 それに、視野とやらや人となり、見識についてのイメージも操作したいのならば、「・・・と思う」などというくだらん小細工を弄したところで、「歯切れの悪い奴だ」「根性の悪い言い方をする」と思われるのがオチだ。「自分は視野狭窄的かつ傲慢な人間だ」との印象を与えないが為に、「自分は視野狭窄的かつ傲慢な人間ではない」と主張するなど、あまりにも幼稚な方策と言えよう。
 意見を伝達するにせよ、自分の存在そのものに対するイメージを統御するにせよ、同じ内容を伝えるのであってもその表現の仕方次第で、相手の受ける印象は大きく違ってくる。いかなる戦略をもってどのような目的を持ち、そしてどのような表現手法で目的を達成するかは、弛まぬ努力が必要である。そして努力したところで企図した通りにいくとも限らない。難しいものだ。しかし、「・・・と思う」のごとき語尾の濫用が、視野狭窄性や傲慢な態度とのイメージの回避に繋がりなどはせず、責任回避にさえなるまい。それだけは、自信を持って言える。


戻る