last up date 2002.08.11
抑圧移譲(よくあついじょう)
あるところで抑圧を受けた者が、自分よりも立場や能力などに劣る弱者に対して、その抑圧を移譲すること。ごく簡単な例を挙げれば、腕っ節の強い奴にぶん殴られて、その屈辱・怒りを殴った当人に向かわせず、自分よりも弱そうな奴をぶん殴って晴らすことが挙げられる。
だが、抑圧移譲とは「ムカついたからストレス解消」というような簡単なものではない。他者の優越によって揺らぐ自己の尊厳を保ち、正当性を確認するための、自己の存在を賭した悲痛な行為である。そのために、自己の優越や正当性を(より御しやすい)他者に認めさせる行為そのものである。欧米列強による植民地化への恐怖と、欧米列強の軍事力、科学技術、経済力、社会制度、文化的影響力に圧倒された後発産業国が、近代化を未だ為していない国への侵略・植民地化という形で自己を列強の位置に近づけ、被支配国に対して技術的・経済的・文化的指導を行うことによって、自己の優越を確認する行為などもまた、抑圧移譲の典型である。
さらに言えば、この行為は必ずしも当事者が「自分の受けている抑圧を移譲している」「弱者を支配蹂躙して満足を得ている」などという自覚を持っていないことが少なからずある。例えば、企業、軍隊や運動部など一定の成果を収めることを要求される集団においては、その成員に対して課せられるその抑圧が成員間で移譲されがちである。その形態としては(物理的であろうとなかろうと)あからさまな暴力として現れることもあるが、「自分よりも劣った仲間に対する注意・指導」という善意としての形で現れることもある。
その「注意・指導」がされる側にとって助けとなり、支えとなる場合は良好な協力関係と言うこともできるが、そうでない場合は攻撃行動となる。しかし本人が善意による行動と信じているためタチがわるい。実際には適切な成員の行動に対して、自己の発想・方法こそが唯一絶対の正答として相手の行動を否定し、自己の方法を強要する。ある成員の不得手を克服させようとして、解決できない、あるいは苦痛なだけの困難に直面させる。休暇や就業時間外などの気を抜くべき時間に於いてまで、口を挟む。相手の人格や私的な余暇の過ごし方そのものまで否定し、変革を求める。このような、仕事や練習などの指導鞭撻としての粋を遥かに逸脱し、集団本来の目的にまったく関係のない部分に於いてまで他者を支配し、影響力を行使しようとしはじめると、それは暴力以外の何者でもない。
しかし、抑圧の中で自己の精神を安定させるために他者に対する優越を希求し、優越を確認して自己の立つ瀬を確保するため、他者に影響を行使し続けようと欲すると、人間はしばしば自らがいつでもある人物・ある人間集団に対して優越を誇っており、いつでも自己の判断や行動、その方法が正しく適切で、それ以外はまったくもって間違っている、という感覚に溺れることがある。この抑圧下に於ける自己優越意識・自己正当意識が肥大化し、優越を示そうとする対象に対する行動が「指導」「協力」の域を脱したとき、それは抑圧移譲という暴力となる。
同様に、国家や組織による抑圧移譲もまた、自己が「正当」ないし「正統」な行動をしているとして為されることがある。人間社会に於ける暴力は、抑圧移譲として行われることが少なくなく、暴力とはアイデンティティのための闘争と言えなくもない。優越の確保という目に見えぬが、人間が自らの生存目的とさえ捉えかねない問題が根底にあるため、当事者による抑圧移譲の構造の自覚と、それによる暴力の停止は困難である。