last up date 2004.01.17


лишний человек(男性名詞・リーシニィ チェラヴェーク)
 「余計者」「無用者」と訳される。19世紀ロシア文学に於いて描かれる典型的な人物像の1つ。西欧的な近代教育を受けたが、社会の経済的行政的発達が遅れているため大学を出ても受け皿がなく、無為な生活を送るインテリとして描かれる。


 国家が近代化を行う過程に於いては、必ず教育制度の整備が図られる。その結果、従来の知識人たる宗教エリートとは異なる、科学教育を受けた近代的知識人・インテリが生み出される。19世紀のロシアに於いてもそれは同様であった。しかし近代化が生み出したロシア初期インテリ層の中には、無気力なインテリが少なからず存在した。
 いち早く近代化を達成したイギリスやフランスに遅れ、19世紀半ばからロシアも国家主導で上からの近代化が推し進められた。特に教育制度の整備は、国民統合、産業育成、軍隊の近代化、官僚制の整備すべてに不可欠な重要事業として取り組まれた。外国から自然科学や社会科学の研究者を呼び寄せ、大学が設立された。その大学で最新の知識と教養を身につけたインテリの中には、社会発展に貢献しない、あるいは出来ない者が少なからず存在した。


 例えば、ロシアの小説家ゴンチャロフは、1859年に発表した長編小説「オブローモフ」に於いて、優れた知性を持ちながらも無為の生活を続ける地主オブローモフを描いた。オブローモフは単調な作業に嫌気が差して仕事をすぐ辞め、社会とほとんど関わりを持たなくなり、朝起きる、部屋を片づける、外出するといった程度のことにさえ倦怠を覚えるような人物である。これこそが、ロシアのインテリ層の象徴的な姿とされる。
  国家が社会発展のために生み出したインテリが、なぜその才覚を社会に貢献させることもなく、ただ倦怠の中で自堕落な日々を過ごすのか。それは、上からの近代化によって大学は設立されても、ロシアでは輩出された人材に対する社会の受け皿が未発達だったからである。つまり、経済が未発達であり、産業が振興していないためである。工業商業活動を行う企業は少なく弱小であり、国家の財政基盤は農業からの不十分かつ不安定な税収を主とし、官庁もまた弱小であった。国家による企業育成政策もまた弱い。こうした社会はインテリ全てにその知性と教養に見合うだけの名誉、専門性、収入のある仕事を提供することは不可能であった。


 しかし高度な仕事によって社会に関わることが出来なくても、インテリは社会を見る目を持っている。社会科学がもたらした視座によって社会を分析できる彼らは、自らの位置について認識することが出来た。それがインテリ層に倦怠感をもたらしたと言える。
 ロシアでは、国民の大多数は農奴階級に位置し初等教育さえ受ける機会がなく、ブルジョワジーも未発達なロシアでは、近代的な高等教育を受けられる者のほとんどが貴族であった。前述のオブローモフも地主である。しかし彼らは、農奴制が大変な矛盾を抱えた理不尽なものであり、そして自分達貴族階級はやがて打倒される「旧勢力」であると、フランスやイギリスに於ける革命の事例からも知っていた。しかし彼らロシア貴族は例え農奴制に心を痛めていても、社会に対して何らアプローチする術を持たなかった。自らの経済基盤である農奴制なしに、実社会の中で生きていく術もまた持たなかった。しかし不敗と矛盾を見出せるがために、積極的に体制の擁護者となる意思も持てない。だからこそ、彼らは生活の中に理想も目的も見出せずに、倦怠の中に暮らすしかなかった。そして安定した生活基盤が社会との隔絶を許した。


 プライドを満たさぬ社会に対し、ロシアのインテリは結局は既得権益によって暮らし、自らと社会とを断絶することしかできなかった。そして革命に際しても、体制の守護者として闘うことも革命に賛同することも出来ず、インテリとしての貴族層は迫害され没落し、やがて消滅した。結局、ロシアに於ける無気力なインテリは何ら社会の潮流に携わることが出来ず、「旧勢力」として時代の流れによって抹殺された。敢えて革命用語を使えば、体制に組みすることができなかったインテリは、社会の矛盾点や問題点を見出し、改革の必要性を理解しながらもその実際的手段と構想を持たなかったという意味に於いて左翼日和見主義的であり、何もしなかったことによって体制を保存したという意味に於いては右翼日和見主義的であった。インテリとは体制の発展に寄与するか、あるいは体制の問題を攻撃するか、どちらかの役割を負うものと私は考える。しかし、19世紀ロシアに於けるインテリの多くはどちらも出来ず、どちらも出来なかった。それ故にインテリが抱える無気力や倦怠感こそが、「余計者」文学を成立させたと言えよう。


参考文献
和田春樹編 「ロシア史」 山川出版社 2002年
ベネディクト・アンダーソン 「想像の共同体」 白石さや・白石隆訳 NTT出版 1997年
広岡守穂 「近代日本の心象風景」 木鐸社 1995年 


戻る