ひとときの帰郷
2002年08月02〜04日(金〜日)

よく水が枯れる噴水らしい塀


 仕事を無理矢理早く上げて、乗り継ぎを走って札幌駅に駆け込み、釧路行きの特急おおぞらの最終に飛び乗ったのが19時半か。高校を卒業してすぐ上京して、予備校・大学と6年間東京で過ごした。東京に比べれば今居る札幌から郷里の釧路までの道のりなど近いものだ。しかし、東京から名古屋よりも物理距離が離れている札幌−釧路間は、そうそう帰れるものでもなく、19時半に出てしまう特急に飛び乗るのも一苦労。今時期は1年間を通してヒマな時期らしいが、仕事がもっと忙しくなればこんな芸当も出来なくなるだろう。ま、金曜に仕事帰りにそのまま釧路へ行き、土曜をのんびり過ごして日曜帰るのもわるくはない。
 東京の羽田から釧路空港までの所要時間は1時間半。それに比して、札幌から釧路まで、特急おおぞらは4時間以上かかる。これでも随分と高速化したのだが、それでも何時間も車内で揺られる時間は長いものだ。確かに東京よりは釧路に近くなったが、札幌からのその行程は返って長くなったような。私は札幌駅で、カミュの「異邦人」と太宰の「人間失格」の二冊を買い込み、それを読みつつ時間をつぶしたものであった。160ページの小説は、4時間の片道を過ごすのにちょうどよい分量。下を向いて列車に揺られ、疲れはしたが、そう退屈はしなかった。


 釧路に着いたのは23時。わざわざ母が迎えに来てくれていた。久々にV6縦置きの3500ccエンジンでも回してみたかったのだが、助手席に座って母親に運転は任せた。仕事を終えて、そのまま背広で4時間列車に揺られた。仕事ではパソコン、列車では文庫本と目を酷使してきたこともある。今夜はとりあえず運転は控えよう。
 GW以来3ヶ月ぶりに実家の敷居をまたいだ。大学時代は、正月帰らなかったことさえ何度かあり、年に1度程度しか帰省などしなかった。それに比べると、今年はもう4回目の帰省である(自分の引っ越しや、祖母の葬式があったためもあるけど)。帰省頻度がどうあれ、家に帰って、まず最初にやるべきことは、レオ。帰省する理由の過半数はこれにある。

 これが我が家の主・レオである。御年10才になるこの猫。さすがに毛のツヤはなくなったが、まだまだ毛並みはわるくない。

 かつては凶暴凶悪で、牙と爪で文字通り家人の血を流したが、大分大人しくなった。だが老いてなお、人間に媚びぬ猫である。

 半ノラ状態の猫。ミルと名付けている。時々レオに踏まれ、噛みつかれているが、抵抗しない。レオがエサをくれる人の側だと知っているからだ。強かな猫である。

 居間から見上げると珍獣が。かような生物が跳梁するとは、おそろしい家である。


 釧路には高校時代の友人が若干名棲息しているが、今回は連絡もとらなかった。ヒマな時間が土曜だけでは、なかなか落ち合えないと判断したためだ。第一、この帰省の目的は、最近生まれた親戚の赤子と邂逅するためでもあったのだ。親も一緒にメシの一つでも食いたいだろうし、今回は家族・親戚との会合だけにとどめることとした。
 さて、噂に聞く赤子−私から観れば従姉甥(いとこおい)−との邂逅。そのインプレッションは・・・なんというか、想像以上に小さく、それでいてディテールがすべて人間であった。私の人間存在に対する認識を、結構揺さぶる出来事であったかも知れぬ。生まれて1ヶ月もたたない赤子と接したのは、おそらくははじめてである。


 自律歩行できる幼児・児童とは比べるまでもなく小さく、人語を解する様子も見せず(注)、それでいて人間としてのあらゆる機能をそなえ、国籍を持ち、権利を国家が保証しているかの人物。彼と接して思ったことは、人間とは万人が最初はかように小さく、単独では生存することも出来ない存在であったのか、という感慨であると同時に、人は殺してはいかんなという、漠然とした、場違いな発想であった。ガラにもない。
 私が人命についての感慨をいだくなど、10年に1度程度のことでろうて。正直、私はそんなに善人ではないし、人命やら権利やらについしてとやかく思いもしない人間である。暴力・犯罪・死刑・戦争などについても、(ここではその内容については触れないけど)けっこう冷徹な見解の持ち主である。だけれども、あまりにもその存在・生存がはかなげに思えるかの赤子と接すると、一瞬だけ絶対的平和主義・人命至上的立場についての共感を覚えるに至った。ま、一瞬だけど。

注・・・
 赤子が人語を解さない、というのは誤りである。母胎の中にいるときから、胎児は母親や周囲のコトバを聞いているし、それによって精神状態が大きく左右される。胎児が耳にする音や声は、脳などの神経組織に不可逆な影響を与える。また、生後数週間程度の赤子でも、ある程度はコトバを認識する準備が出来ており、ジェスチャーなどを交えて意志疎通を図ることも可能である。
 それは知識としては知っていたけれども、ただ観た感想としては、やはり人語を解しているようには見えなかった。みっとよく観察し、意志疎通を図ってみないとわからないかな。


 さて、血統的には甥も同然の赤子とも合い、メシも喰った。ホンダ・レジェンドも運転した。猫にも触らせて頂いた。日曜の昼過ぎには釧路駅へと向かった。短い帰省であった。だが、金曜にかろうじてとはいえ、なんとか釧路にたどり着け、土日と2日間も休みというのは恵まれている。まあ、帰って得た感慨もいくつもあった。休日としては、十分な内容であった。
 釧路駅に着くと、何やら祭りがやっているではないか。駅前ではイベントなんぞやっておる。真っ昼間でさえ、駅前で人とすれ違うことさえまばらな釧路。よくもまあ、こんなに人がいたものである。思わず撮影してしまったほどである。 

 おおぞらのミニチュア列車が子供限定で運行されていた。ジャリ連中にとっては、思い出になる、興奮する一時か。

 駅前の仮設ステージと人々。規模はとても小さいのだが、釧路にしては珍しいほどの群衆だ。

 「風雨来記」なるPSのゲームで出てくる噴水。水は止められがちで、名所というほどのものではない。少なくとも、靴を脱いでここに入るような人間は、子供でさえも見たことがない。


 さて、行きは「異邦人」を読み、帰りは「人間失格」なんぞ読みながらおおぞらの4時間を過ごした。160ページ程度の文庫本は、4時間で読むのには適した分量かも。かくしてささやかな帰省は終わり、月曜からはまた仕事である。ま、休めるうちに、ちょっと帰省してみるのもいいでしょう。


 ちなみにこの突然の帰省、数日前に買って読んだ「フラッシュ!奇面組」で、大間仁が「里帰り」などと称してネクタイを緩めて、田舎を走る列車に揺られるシーンに触発されたような。
 「奇面組」は、1つ1つの絵は単純だけれども、何を描いているのかうなずかせる表現が、細部にまである。精密に外観を模写したかのようなリアリティとはまた違い、単純であるが故に描こうとしているものの空気や表情が読みとれる。これは、新聞の挿絵と同様、マンガとして古典的な抽出と誇張の表現技術である。新連載の「フラッシュ!」でもそうした表現に優れていて、嬉しいわけです。余談だけれども。 


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