空虚なる主人公が手本である
2002年12月17日(火)


 まずあらかじめ断っておくが、私はゲームをあまりやらない人間である。大学を卒業してからは、ゲーム機の類は一切部屋に置いていない。パソコン用のゲームとて、一回インストールしたが何十分もやっていない。なかんずくギャルゲーと呼ばれる代物については、今までの人生に於いてそう何本もやったことはない。カテゴリーをどこで線引きするかで少し迷うが、ピックアップしてみよう。
 パソコンでは、「雫」、「痕」、「TO HEART」、「こみっくパーティー」、「まじかる☆アンティーク」、「誰彼」、「Kanon」、「Air」、「銀色」、「雪色のカルテ」、「絶望2000」。PC9801・FM-TOWNS時代のものを含めれば「電脳学園」T〜W、「プリンセスメーカー」1〜2、「同級生」なんかも含まれるか。
 コンシューマでは、「ときめきメモリアル」1〜2、「TO HEART」、「Kanon」、「ファーストkissストーリー」1〜2、「トゥルーラブストーリー」、「サクラ大戦」1〜3、「センチメンタルジャーニー」、「センチメンタルグラフティ」、「シスタープリンセス」、「制服WARS」てなところか。
 リストアップしてみたら「少ない」と言えるのか疑問になってきたが、まあこれは人の家でやったもの(やらされたもの)も相当数含み、1度クリアして放置したもの、クリアさえしていないものもあり、やりこんだものなど何本もない。もしかしたら人がプレイしているのを見て(見せられて)、筋を覚えてしまったのをやったと勘違いしているのもあるかもしれない。それに、私の知人友人は強烈すぎて、こんなのは相対的には「少ない」というような気はする。要するに「私は真人間である」と言いたいのではなく、私が決してギャルゲーに詳しくないことを断っておきたい。


 さて本題に入る。今日の夜、大学時代の後輩から電話があった。まあ、有明で行われる祭典に今年は参加できるのか、という問いかけだったのだが、思いの外長電話になってしまった。そこで語られたのは次のような内容である。
 いわゆるギャルゲーの主人公というのは、往々にして空虚な人間として描かれる。プレイヤーが感情移入しやすいように、没個性的な人間として描かれているというのを抜きにしても、日々なにもせず愚鈍なる日常を送っていたりもする。学校ではひたすらに寝て、家に帰っても寝て、ただただ寝る。なにかやったと思えばテレビをなんてことなしに一人で見るでもなくして眺めたり。プレイヤーが劇的なものを選ばない限り、為される会話もどーでもいい、挨拶に毛が生えた程度のものに終始する。実際に顔をあわせたら、相手にもしないような人間だ。だが後輩は、こうした空虚なる主人公に注目しているとのこと。女性キャラクターの魅力こそがゲームの存在目的と言えなくもない代物に於いて、どうでもいい主人公に着目するとは。


 なんでも彼は、どうでもいい不特定多数の人間と話す際に、ギャルゲー主人公のスタイルを手本とするらしい。すべては簡潔にコトバを選び、出来れば短く(具体的には、9文字以内で)話す。接続詞は使わない。誰でも考えそうなことを、疑問の余地がないようはっきりと述べる。普及しているステレオタイプに疑問を差し挟むことなく、無理やり冗談で通す。しばしば相手をバカにする。
 ・・・彼は非常に社交的と思われている人物であり、話術巧みに初対面の人間にも屈託なく会話に引きずり込む。だがその実、彼は実験をしているのに過ぎないらしい。つまり、ギャルゲーの主人公のような空虚な人間がいかに世間から求められているのか。世の人間が、ギャルゲーの主人公の「今日は疲れたな。寝るか」程度の発想しか持っていないか。それを確認するために、ギャルゲー主人公的会話を覚えて使っているとのことである。いや、彼曰く、世間を跋扈する人々はギャルゲーの主人公以下とさえ言う。小難しい話もマジメな雰囲気を出すこともなく、内容がほとんどない受け答えをするだけで、彼はそうした人々の居る場を支配し、人々のイメージをコントロールすることが出来る。なるほど彼の言う「世間の人々」は、表層的な内容のないやりとりを好むばかりではなく、自発的にそうしたやりとりをする意思・能力にさえ欠けるらしい。だから、ギャルゲーのセリフを引用あるいはアレンジして話すだけで、彼に何かを期待してしまうのか。
 彼と話している人間が、そんな意図を知ったらどう思うことであろうか。きっと気の利いた冗談としてしか受けとらないだろう。それにしても、ギャルゲーをこんな形で実用参考に使っている人間なんぞは、なかなかいないことであろうて。  


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