古巣の敷居を跨ぐ
2003年03月16日(日)


 今日は昼過ぎに秋葉原へと出かけた。パソコンのマザーボードなどパーツを買いに行ったのである。別に今までのスペックでもさほど問題はなかったのだが、動画専門機でMPEG4を再生すると、コマ落ちが目立つようになってきた。それにDVD-Rも倍速で焼くと転送速度が間に合わずに、しばしばエラーが出る。来年度に入る前にパソコンを一新し、これからしばらく使えるマシンにしてしまおうとの魂胆であった。
 さて、本日は部の追いコンである。これは事前のOB連絡でわかってはいたのだが、行く予定はなかった。もちろん行きたくないなどという積極的意志などない。先輩からも背中を押されてはいたのだが、敷居を跨ぐことに抵抗があったのである(注)。だからこそ時間をあまり気にすることもなく買い物をしていた。しかし秋葉原で買い物を終えようとしているとき、後輩からも連絡があった。後輩から誘われたとあっては行かない手はない。私を巡る個人的事情はどうあれ、私自身が勧誘して目を掛けてきた後輩が祝われる席に出ないなどというのは間違っていた。
 今から川崎の自宅に帰って、それから出てくるのではもう遅い。私は秋葉原から新宿に直行して、新宿のコインロッカーにマザーボード一式をぶち込み、そして集合場所に向かった。 




 私が大学一年のときは、全部員あわせても10人いるかどうかであった。追いコンも他のあらゆる行事も、居酒屋のテーブルひとつで済んでいた。飲みに行くと相席になることもしばしばだった。だが、今回の追いコンはとあるビルのホールを借り切った立食パーティーである。しかも部の名称と「送別会」の文言が掲げられている。ついに我が部もここまで来たか。隔世の感あり。




 在学生が会場でセッティングをしていたらしい。我々老人は会場の外で待機。そして新OBが呼ばれて、一列になってホールへと入る。私は同期のF氏(仮名)と「中で銃殺されるんじゃないか」などと軽口を叩いていたら、中から連続的な炸裂音が。まあクラッカーなのだが、いいタンミングであった。定番ではあるが、粋な演出をしおる。



 我々旧OB(「その他のOBの方々」だそうな)も中へと入る。白いテーブルクロス。周囲の夜景を見渡せる窓。壁際に並べられたイス。そしてコートを預かって掛けてくれる係の後輩。本当に立食パーティーである。細かな飾り付けは在学生諸氏の手によるもの。室内には(部を)卒業する新OBの写真や、彼ら彼女らへの後輩からのメッセージなんかも貼られている。なかなか味なことをしおる。居酒屋で飲んだくれて終わりだった昔の追いコンとは大違いである(違う、というだけであって、昔をわるいと言う気はまったくない)。




 しかもビールサーバーまで借りてきている。
 そして、食物は後輩達が持ち寄った一品料理。料理の横に、それを用意した後輩の名前が立ててあった。
 何から何まで、私にような古い人間には新鮮であった。


 だが、酒はやはり「美少年」。
 なんかよからぬ数字が頭に浮かんだが、まあ気の迷いだろう。
 今回卒業する某女史へのはなむけであろうか。




 そして乾杯。はたして今回は、何十人が参加したのであろうか。
 もう数えられない。




 顧問の教授によるご挨拶。法学部の教授であらせられる。
 部員であるというだけで単位をもらえる、という噂がまことしやかにささやかれていたが、幹部(着任のとき、教授に仁義を切る)だった某氏はDだった。




 厳粛な挨拶の後は、歓談。
 そしてなぜかビンゴゲーム。
 仕組まれていたかのように(それはあり得ないが)、新OBのWild氏(仮名)が当てる。
 景品は串カツ一瓶。
 もちろん私も消費の手助けを。


 さて、我が部の追いコンではプレゼントが恒例行事となっている。
 各部員が喜ばれないプレゼントを送りつけるというもので、今は次のような品々が送られた。
 鉄パイプ180センチ分、頭部の人体模型、ブリキの配管カバー、柄杓、日本刀、長ドス、鎖付き鉄球、モーニングスター、緩衝剤のロール縦2メートル×数十メートル、発泡スチロールの壁二畳分、鉄だらい、鍬、プラネタリウムセット、駐車禁止の道路標識、赤パイロン、ブルースリーのトレーニングスーツ、酒瓶の着ぐるみなどなど・・・。
 新OBは、これらの品々のありがたさもさることながら、家まで輸送するのが非常に困難であった。例年、追いコンは歌舞伎町で行われていたため、新卒業生の抱えている大量の荷物がゴロツキに当たって一触即発になったこともあった。まあ私の代からは、一人の卒業生に対して「後輩一同」からまとめてプレゼントする形式になったのではあるが。
 今回はどんな品が登場することやら。
 卒業生が一人一人呼ばれて、プレゼントと色紙、そして卒業と今までの功績を讃えるシニカルな冊子が渡される。
 そして一人一人の新OBが卒業挨拶なんぞをして、進んでいった。


 無類の酒好きたる某氏には、酒のとっくり。
 この直後、一升瓶を抱えた後輩がこの中に大量の酒を注ぎ込み、彼はもちろんこれを飲み干した。




 変態として知られる某氏には、セーラー服。
 パーティーグッツの、透けて見える代物だ。


 哲学者肌な某氏には、バラエティ番組で使われているサイコロが。
 振って出たのは「役に立つ話」。
 プレゼント授与後の挨拶では、この面を見せながら実存主義について語りはじめた某氏であった。
 ちなみにこれがもっともかさばるプレゼントである。


 そして某女史にはトロのぬいぐるみ。
 もしかすると、最も喜ばれた品かもしれぬ。


 無類のはづき好きな某氏には、ちょっとはずして「明日のナージャ」の服。
 身長180センチを超える彼は、どうやってこれを着るのだろうか。




 そして某女史には、電気で動く招き猫の置物が。
 よからぬものでも招いてもらいたい。


 そして某氏には「挫折禁止」の標識とハロのプラモデルとが贈られた。


 そして走り屋な某氏には、NSXのラジコンカーが。
 ぜひこれで峠を攻めてくれ。


 そして宴会屋な某氏には、お猿さんセット。
 本人も大喜びであった。


 今回のプレゼントは、なかなかまっとうというか良心的であった。


 さて、一次会の立食パーティーはかなり長時間ではあったが、やがて終えた。
 そして今度は二次会のカラオケである。
 もちろん場所は新宿パセラ。徹桶である。
 明日もヒマな私はもちろんこれに参加。




 二次会会場へと移動する某OB。
 どこかの山岳ゲリラか。
 今時期は危険な扮装である。




 そして私が入った部屋。今回はパセラのある階のほぼすべてを占拠したのだが、なんの因果かこの部屋だけは凄絶な人間が集まった。もちろん「走れ!嵐の中を」から始まり、「クレクレタコラ」「花右京メイド隊」「キングゲイナー・オーバー」「哀・戦士」「残酷な天使のテーゼ」「勝利のVだ!ゲキガンガーV」と続いていく。
 さらには配信会社によっては映像が出るのだが、「ブッシュベイビー」の歌のときも映像が出た。このとき、この番組の主人公について「萌えか?」と聞くと、全員が「当然」「もちろん」「そうです」と答えた。観たくなってきた、「ブッシュベイビー」。




 他室から乱入してきた人々。ふり付きでアイドルグループの曲を歌い、踊って帰った。
 三次元が流行るとは、我が部も変わったものだ。
 多様化してきて大変よろしい。




 新OBが早速もらったプレゼントで乱舞する。
 いくら同じ階の大半を占拠しているとは言っても、この格好で部屋から部屋へと渡り歩く彼らに対し、店員や他の客の動揺を隠せないでいた。廊下ですれ違った客なんぞは、我が目を疑うかのように振り向いて凝視していたものであったわい。



 地獄絵図。
 ちなみにセーラー服の某氏はネックレス、ブレスレット、指輪で武装し、さらには化粧までしていた。
 うげ。




 狂乱に疲れ、廊下で死んだ人。


 かくして追いコンは終えた。最後に集合して連絡事項を通達して挨拶して締め、朝の歌舞伎町を死にかけな一団が歩いた。そしてそれぞれが西武線、JR線、小田急線、京王線などで帰途についた。ある者はこれからすぐに就職活動の面接だそうな。部員諸氏の妥協なく日々を消化する様は相変わらずである。
 私にとっては、13ヶ月ぶりの徹夜カラオケであった。いや、かくもアニソンを歌えたカラオケ自体が13ヶ月ぶりである。会社ではせいぜい「宇宙戦艦ヤマト」と「マジンガーZ」、そして軍歌しか歌えなかったからね。やはりたまには二次元曲を歌わないとね。
 そして部の敷居を跨いだのは、公式行事の場に対しては11ヶ月ぶり。ただ部の占有空間を訪れたというだけでも半年ぶり。部の敷居を跨ぐことには抵抗があり、やはり予想していた問題も存在してはいたが、想定していたものよりは軽微であった。とりあえず、古巣を失ってはいなかったことを確認できただけでも儲けものである。
 私自身が新勧の指揮をとって勧誘した諸氏が卒業していく様。さらに若い後輩達が彼ら彼女らを見送る様。現在の形で現在の部が営まれている様。そして同じ時代を過ごした古い人間の変わらぬ様、年輪を深めた様。これらの様子をかいま見ることができたことは、幸いなことであった。OBとしての距離の取り方には今後とも神経質にやっていくつもりではあるが、公式行事にぐらいは顔を出しても罰は当たらないようではある。まあ、また古巣の敷居を跨ぐこともあるだろうて。


 そして私は、新宿駅のコインロッカーからマザーボード一式を取り出して、同じ方面の後輩とともに帰途についたのであった。


注・・・意識を跨ぐ抵抗とは

 大学時代の部は、今もなお私が忠誠と帰属意識を持つ場所である。極端な寛容さと、寛容であるが故の極端な非寛容さを併せ持ったこの集団は、私が4年(+1年)の大学生活を過ごすに当たっては非日常的な日常の場となり、あらゆる思索と討議と蛮行と変態と、そして闘争の場となった。
 だが。部を卒業し、1年遅れで大学を卒業して名実ともにOBとなった私は、部との距離にますます神経質になった。在学中、長年OBによる不当な干渉、横暴、暴力、支配などの「老害」を弾劾していた私が、学生部会の敷居を安易に跨いでよいのか。もちろん部はすばらしく居心地のよいところだ。だからこそ、社会ではゴミにすぎないクズOBがしたり顔でやってきて居座ろうとし、学生の貴重な時間とカネと労力というコストで成り立つ場を支配しようとし、中身のない経験至上主義でもって学生と自己とを優劣関係でとらえて学生を愚弄していい気になったりしたものだった。そういう輩は部の内政にも干渉した。そして私を筆頭とした現役部員によって、徹底的にパージされた。私はもちろんそのような横暴な振る舞いも出過ぎたマネもしないが、かつて(卒業後も)不良OBを弾劾して追放し続けてきた私が、家が近くなったからと言って、そうそう会合にやってきていいのか。抵抗があった。


 まあ過去に、OB資格さえ剥奪されたクズを弾劾したこと自体はどうでもいい。私がパージののろしを上げてきたことは、次のことと相まってはじめて意味を持つ。その第二の問題は、私が卒業後のイメージ管理に失敗したことだ。受動的に言えば、私の名を掲げて反政府活動を行う者が出現し、そのため私の風評が悪化したということだ。
 OB批判は別にしても、私は部では常に批判者であった。学生サークルであろうとなかろうと、組織には常に問題点と組織固有の問題体質とがある。それらはしばしば個々人の部員に対して、金銭をも含めて不利益と理不尽をもたらした。だからこそ私は、そうしたものを是正するために妥協なく闘い、そして改革を実践し、動乱期には実務の中核として部のすべてを一人で運営してきた。それは当時の部員の多くが、私を評価してくれている。だが問題は、私が使った言葉や、残したマニュアルや文書、甚だしきは私の名前のみを用いて他者を批判する輩が現れたことだ。
 私は常に与党精神をもって、部のため、後輩のために害悪を批判してきた。だが、そうした輩は何のオルタナティブもなく、自分ではたいした仕事も交渉もせず、ただ不満があったら他者を責めた。あるいは不当に貶めた。あえて革命用語を使うと、左翼日和見主義的であった。しまいには部そのものを掻き乱すこと、現行体制を苦しめることが目的となったのか、批判でも弾劾でもなく、サボタージュ(怠けることではない)を行うようにさえなった。その際にも、彼らは私の名を使った。


「晴天さんの作ったホームページを変えることは許さない」
「晴天さんのつくったマニュアルを変えることは許さない」
「晴天さんは、××はクズだと言った」
「晴天さんは、所詮部のために働いても仕方がないと言った。だからお前も新勧なんかやるな」
「晴天さんが言うには、××部は辞めた人間が成功する」
 などなど。はっきり言おう。私はこんなこと言った覚えもなければ、こんなこと望んでもいない。文脈上の技巧や例え話として似たようなことは言ったのかもしれないが、こんな短絡的なことは言うはずがない。少なくとも自分が部に残したものを永遠不変に崇めて欲しいなどとは思いもしないし、むしろあんな不完全な代物はとっとと変えて欲しい。部のために努力することを蔑むなんてことは決してしない。そして、「本当にやりたいことがあるのならば、部を辞めるのもいい」という程度のことは言ったが、「辞めた人間が成功する」などという寝言を言うわけがない。さらに言えば、こうした輩は「〜をやるから部を退く」と言いながらも、部に対してコストを払うことだけをやめて、飲み会や行事といったうま味は喰らい、さらにはとっとと辞めればよいものの現役部員にくだらんことを吹き込む始末。部を介在させて考える限り、こうした輩は殺意の対象以外の何者でもなかった。まあ、こうした輩は私自身が極秘裏に始末したが。
 だが、彼らが私の理論やコトバを部分的にピックアップしてねじ曲げ、いいように曲解して自分に都合よく解釈して利用したのを人々は聞いている。人々は思うわけだ。私が札幌からこうした輩を操って破壊工作をさせている、と。想像が想像を呼び、想像が妄想を呼ぶ。私はいったい、いかなる悪の権化として見なされているのか。私と同時代を過ごした後輩はまだしも、交流する機会さえなかったような人々が多数派になっている今の部で、私が如何様に見なされているか。それは正直恐ろしかった。だからこそ、部の敷居を跨ぐのには躊躇があった。


 良貨は悪貨を駆逐する。すでにパージされたクズが何を言っていようと、私が節度を持って部に出て、まともなことを言って、そして出過ぎなければ、やがて私への不当評価は改められていくことであろう。これは私の万事に対するスタイルなのだが、私の存在そのものがステレオタイプをうち砕き、私の存在そのものが敵への武器となる。しかし、すでに卒業して社会に出ていった人間が、自分のイメージを変えられるほど部に出入りするのは好ましくない。だからこそ、私は自分の最も重要だった古巣は失われたものと覚悟していた。
 だけれども、行ってみたら確かに妙な風評はないわけではなかったが、想像よりはずっと軽微であった。杞憂と呼べるほどでもなかったが。何にせよ、やはり私にはクズの奸計に諦念を抱くよりは、(どんなに些細でも、その機会がごくわずかであろうとも)行動と存在でもって主張とし武器とすることこそがふさわしい。それを再認識するいい機会となった。


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