DVDプレーヤー譲渡す
2003年03月21日(金)


 限られた輸送量に合わせて川崎に運ぶ持ち物はかなり減らしたのだが、それでも持ってきたはいいが要らなくなったものもある。その一つが、DVDプレーヤー。ビクターのXV-521だ。大学時代に6回払いで無理矢理購入した品で、CD-RとVideoCDの読み込みが可能。つまり、CD-Rに焼いたVideoCDを再生できる優れもの。発色もよく、何年間も役に立ってくれていたのだが、思わずDVD-RAMビデオレコーダーを買ったために要らなくなってしまった。XV-521もストックしていればいつかは使ったかもしれないが、限られた部屋のスペースを使わないものに占有させるのは惜しい。かと言って、廃棄するのも忍びない。となれば、譲渡しかない。大学時代の後輩に申し出たところ、部の後輩・課長(仮名)がぜひ欲しいとのことなので譲ることとした。


 自作代行をした帰り、最寄り駅で課長と合流。そして我があばら屋へと招待した。部屋のボロさについては、こんなものじゃないですか、とのこと。凄絶な部屋に住んでいる彼にとって、私の家はきれいな部類に入るとのことだ。そういうものか。まあ、ちゃんと掃除と片づけさえしていればいいのかもしれんが。
 そして我が家に到着するや否や、DVDのお礼として課長が持ち込んだビール500ml缶6本を開けて乾杯。なにやら、人間の優劣意識とその病理について長々と話していたような。札幌時代は、この程度の愉悦さえもなかった。友人はおらず私的に酒を飲む機会も少なく、本来は私的に楽しむための同期との飲み会とて、同期と使用言語があまりにも異なったため気を遣うばかり。というよりも、極端に知識・認識が違いすぎて文字通り話にならないばかりか、奇声を発することと「当然の前提」を話して、「当然の帰結」に収束させることしかしない「会話」など、話好きな私にとってなんら話し、聞く悦びがなかったと言える。札幌には何一つ充足を得る瞬間がなかった気がする。


 札幌にも関東にも、様々な問題や闘争がある。大抵の人間は程度はどうあれ、そうしたものを抱えている。だけれども、心底楽しめる刹那があれば、それ以外の時間を闘えるのかも知れぬ。不平不満のガス抜きをすれば日々の問題に堪える、という意味ではない。闘うためには、自己の尊厳の芯となる場が必要である、ということだ。
 くだらん見栄も哀しい優劣意識も介することなく、「当然」と思いたがっている認識を言い合って予定されていたかのようなオチに収束させる会話に終始することなく、(ある程度)対等にやり合える人間(達)と些細なことであれ、何であれ、正面から言い合って論じることが、他のすべての時間を支える愉悦となり自信となる。こうした時間が、どんな正当なことでも正統な権限があったとしてさえ、正面から取り合われないことが多い社会に向かうエネルギーとなるのかもしれぬ。
 やはり関東は私の巣だ。


 ビールが6本ともなくなり、終電がなくなる少し前に課長は箱ごとDVDプレーヤーを担いで帰っていった。
 そして明日はTem氏の来訪である。
 札幌時代には考えられないようなスケジュールである。 


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