「最も尊敬し、最も憎い」
2003年04月25日(金)


 大学時代の部の先輩I氏(仮名)に声をかけられ、今日は一緒に飲むことになっていた。2週間前からこの話はあったのだが、お互いの都合の調整の結果、この日となった。私は急なスケジュール変更をできないため、話を持ちかけられてから少し間が空いての実現と相成った。そして部の後輩であったトーマス、課長(いずれも仮名)の2名も呼びつけた。あと何人かにもI氏は呼びかけたらしいが、それぞれ職場の飲み会があったり、シャバに出られなかったりで、結局この4人での飲みとなった。


 新宿駅南口に待ち合わせ、1830時から飲み始めた。会場は怪しげな雑居ビルにある安居酒屋。エレベーターでその居酒屋があるフロアまで上ったのだが、「途中の階に何があるのか。極道者がいるんじゃないか」と称して課長は途中の階のボタンも押した。そして開かれるドア。そこには、鉄の扉で閉ざされた、金融会社の事務所があった。課長はエレベーターを降りて偵察に行ったが、急いで戻りエレベーターのドアを閉めた。いやまあ、どういう素性の会社かは知らないが。
 そして目的の居酒屋に到着。たどたどしい日本語で迎えられ、傷んだテーブルに案内される。さすがはI氏。すばらしい店を知っている。メニューを見ると、50円80円といった格安の食い物が並んでいる。ただの魚肉ソーセージをぶった切っただけの代物だったり、皿に盛ってから何時間放置したんだというような漬け物だったりするのだが。あらかじめ「安いが、お世辞にもうまくはないぞ」と言われたが、そういうことか。まあ、食える。


 それからは、雑多な話なんぞをした。比較は出来ないが、学部時代の前半に於ける飲みは、こんな感じの飲みが多かったような気がする。話した内容は以下のようなもの。
・大学時代やったことは、今やったら確実に逮捕される。
・非呪術化されていない農村の人間、都市の人間
・「お前は優れたバランス感覚を持っているんだから、シケた**社なんて辞めてしまえ」
・コンフリクトを恐れるな
・帰納法的人間と演繹法的人間
・「俺が乞食ならば、お前らは乞食以下だ」
・捨象の技術としての極論
・哲学と「仏滅」(意味不明)
・公式がないところに公式を見出して、普遍化すること
・「陰険ですねー」
・部で一人歩きし跳梁した、個々人のイメージ
・関係の絶対性は覆らないが、言いたいことは言う
・不運と自業自得からの不当評価。そして原罪

 とまあ、雑多なことを話した。
 特に、I氏が私を称して言ったこと。「最も尊敬し、最も憎い」というのは、私とかの人物との関係を称するのに最適な文言であろう。もちろん対称的な関係ではない。I氏は私が「ものを言う」から尊敬し、「考える」から憎いとのことである。I氏はいいかげんにごまかさないではっきり言う人間に敬意を払うそうだ。だが、I氏自身もまた場が荒立つことを避けようとして、くだらないギャグで場を支配して無理矢理雰囲気をねじ曲げようとすることが多かった。真摯に向き合おうとする人間に対して、これは最も不誠実な態度であり、ときに暴力となった。だから私はI氏を憎んだ。しかし向き合って真剣勝負をしたときのI氏の見識と論理展開力には、私は掛け値なしに敬意を覚えた。


 さて、この店で生ビールを数杯飲んでから、私は豆乳サワーなるよくわからないものを頼もうとした。しかし品切れ。それならばということで、「カッパ割り」なる得体の知れない飲み物を頼むこととした。そして運ばれてきたグラスには、案の定キュウリの千切りがぶち込まれていた。
 おそるおそる口を付けてみる。焼酎自体は大した味もしない。安焼酎だ。それどころか、キュウリの生臭さと割った水のカルキの臭いしかしない。もしかしたら、キュウリがなかったら焼酎のくさみがあったのかもしれないが。単にサラダなんかで余った千切りを活用し、それでいてメニューに載せれば人々はおもしろがって注文し、珍妙さを話のタネにして満足し、280円払う。うまい商品である。味はお世辞にもうまくはないが。さらにやはり焼酎自体がかなり低質だ。悪酔いするのは必定と見たので、半分しか飲まなかった。



 店を出たのは2320時。およそ5時間飲んでいたこととなる。
 会計は1人頭4100円。倹約して、昼飯は廉価パン、朝晩は自炊を徹底していた私にとって、1日で4000円というのは浮世離れした巨大な額ではある。しかしまあ、カネは使うためにあり、こうしたアホ連中とアホな時間を過ごせるのならば、たまにはこの程度の金額、惜しくはない。とか言いつつ、先日は「灰羽連盟」の最終巻と「ガリーポッテル 秘密の取調室」のDVDを買ったばかりなのだが。


後日記

 この日の日記を記してから数ヶ月。オフラインの人々から様々な反響があった。その内容は2つに大きく分けられる。それは「こんなにI先輩のことを書いて、やっぱ仲いいんじゃないスか」といったものと、「昔散々批判していたあの野郎と飲みやがって、この裏切り者!」といったもの。これは、どちらも私にとっては不名誉であり、不本意な言われようである。


 一つ目だが、「文章量に好意が比例する」とはどういったものか。私の場合、「強い感情」はすべて文を書くインセンティブになる。それは言うまでもなく悪感情も含まれ、その方がよほど強烈である。さらに言えば、ネットに公開するに当たってこの日の日記は、かなり無理して不自然に好悪のバランスを均等に保とうとした。だからこそ文が余計長くなったとも言える。私と件の先輩との関係は、「文章量と好意が比例する」ほど生やさしいものではないし、かといって悪意一色に塗りつぶせるほど単純でもない。
 まあこっちは、私と件の先輩とが、もっと壁をなくして昔のように付き合って欲しい、という軽い呼びかけに過ぎない。


 二つ目。確かに大学時代は、部の運営を巡って闘争を行った。個人的に、多大なる迷惑と不快感をももたらされた。けれどもお互い一介のOBとなった今、それは私と先輩との個人的な問題に過ぎない。共通の争点に対して連合を組んで闘っていて急に私だけが妥協したのならばまだしも、私が昨日「奴は気に食わん」と言い、今日「あの人はいい人だ」と言おうとそれがどうしたと言うんだ。それで「背信」と言われる筋合いはない。
 自分が気に食わない人間を、晴天も悪く言った。だから晴天は、いつでも自分を完全肯定して味方し、いつでも相手を完全否定して軽蔑するに違いない。それがいきなり晴天の野郎、奴と酒なんぞ飲みやがった。これは裏切りだ。今まで晴天が言ってきたことはすべてウソだ!自分は踊らされ、棄てられたんだ!・・・などというのは常軌を逸している。フロイトの言う口唇期(自己と他者との区別が付かない時期)と肛門期(敵と敵以外との二元論の確立期)の2つに、重大な問題があったと疑いたくなってくる。


 話す言葉も書く言葉も、あらゆる行動も態度も、自分の意図したようには他人は受け取ってはくれない。そんなことは当たり前だ。だけれども、私が誰と飲んだ、という程度のことにまだまだこんなにも反響が寄せられるとは、いささか驚きましたわい。というか、想像を超えた言われようには、かなりの衝撃を受けた。


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