「ロシア国籍日本人の記録 シベリア抑留からソ連崩壊まで」中公新書1173
川越史郎著、中央公論社、1994年


 休日に、中大図書館に籠もって一気に読んだ本。大陸に出兵した旧日本兵でソ連の捕虜になった者は労働力としてシベリアに抑留され、相当数が日本の土を踏むことなく死亡したことはよく知られている。しかし著者のように、(少なくとも表向きは)自らの意思でソ連に残り、そしてソ連国民となった人がいたことはあまり知られていない。本書はそうしたソ連国民となり、そしてロシア国民となった1人の日本人の半生記である。
 本書の特徴は、起きた出来事や当時抱いた心情を書き連ねるという淡々としたもの。多くの戦友を失い九死に一生を得た戦場体験、抑留の理不尽、仕組まれたソ連残留、ソ連生活でのあらゆる監視と理不尽、数十年ぶりの日本の過剰反応、「新しい祖国」ソ連の崩壊と、著者の半生は劇的な事件に溢れているように思える。著者はその度に憤慨や悲しみや諦念といった、あらゆる感情を抱いたことだろう。しかしそうした思いをペンで紙に叩きつけるようなことは一切せず、ただ述懐するその姿勢には、逆に平凡な1人の人間が辿った数奇な道のりについて考えさせられる。
 そして私が一番気になった点としては、満州に於けるソ連軍との交戦についての記述である。著者が思い返すたびに、指揮官が軍刀を抜き払い、そして頭上に掲げて吶喊する様がいやというほど鮮やかに浮かんでくるという。しかしその指揮官はそんな愚かな突撃をするような蛮勇の持ち主ではなく、おそらくは事実としてもそんなことはしていないはずである。しかしそれでも、士官が軍刀を抜き立ち上がる様が当たり前のように「思い返される」。これはおそらくは、日本軍の銃剣突撃というイメージが再三再四描かれ、また多くの戦場で実際に行われていたことから、知らず知らずのうちに著者もまたそうしたイメージに自分の記憶を当てはめ、記憶を造り上げてしまったのであろう。
 学徒動員され、ほぼ唯一の戦場体験でさえも記憶がおぼつかない。人間の記憶などというものはあやふやなものである。経験至上主義はよく叫ばれるが、自分の耳と目と感触や、記憶そのものでさえも大した信用できるものではない。そのことを正直に書き上げた著者の姿勢にもまた、蛮勇や賛美や悲嘆や怒りを叩きつける軍記ものよりも、好感を覚えるのである。 


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