麦シャリの朝
2003年05月21日(水)


 大学時代、学食で麦飯を出すキャンペーンが行われていた。私は4階建ての学食の1階で定食を食べることが多く、一方麦飯は2階のメニューだった。2階はカフェテリア式、つまり自分で料理を組み合わせることができるので、選択のひとつとして選ぶことができたわけである。このことを知った同期の男は、「学食で麦シャリを食える」と喜び勇んで、部会の連絡帳に「バクシャリの宴に決起せよ!」との檄文を書き殴ったものであった。今日日麦シャリが食えると私や数人のアホが集ってカフェテリアに押し入ったときには、すでに麦シャリは売り切れになっていた。ならば、自分達で麦を買って釜で炊こうとの声があがり、米を鍋で炊いて鍋から直に銀シャリを喰らうようなこともしたが、結局麦を炊くことはなかった。


 しかし私は最近、米に麦を混ぜて炊いている。川崎での生活は単調なリズムを保っており、朝晩はほとんと必ず自炊している。大抵は米と納豆、卵、みそ汁。あとはその日によって豆腐(水洗いしただけ)、タマネギ(刻んで水にさらしただけ)、トマト(そのまま)、貝割れ大根、ブロッコリーの新芽、らっきょう、にんにくの醤油漬けなどもつく。他のものを喰うことは滅多にない。同じものを食べ続けることと偏食とは違うので、メシとしては問題なかろう。だが変化を付けてみたくなるのが人情というもの。というわけで、押麦や十穀をまぜて米を炊くことが多くなってきた。




 これが麦である。1キロで310円程度。小分けにして包装してあるものなんかは倍の値段がして、米よりも高くつくが、1キロ袋だと米の7割程度の値段である。そこまでして倹約する気もないが、麦を米に併用することは一食当たりの単価を下げる。



 私の米びつ。比重や大きさの関係でわかりにくいが、米7:麦3程度の割合で混ぜてある。
 無洗米と無洗麦(という名称があるのかどうかは知らないが)なので、このまま電気釜に入れて炊けばよい。




 通常「麦シャリ」とは、米に麦を混ぜたものを言う。しかし今日は、麦100パーセントの麦シャリを試してみることとした。とりあえず1合だけ炊いてみる。前夜に釜にセットして、タイマーで朝炊きあがるようにしておく。




 そして今日起きたら、麦が炊けていた。釜のフタを明けた瞬間、湯気と共になにやらくさみが立ち上った。そして思いの外、茶色いではないか。



 茶碗に盛ってみる。なんとも貧乏くさいというか、なにやら古代中世のメシのような(もちろんイメージに過ぎないが)。さて、口に入れてみたところ、やはり米にはない匂いが気になった。歯ごたえはゴムを噛んでいるようだ。噛めども噛めども、状態に変化がないような。まあ特別まずくもないが、決してうまいものではない。いつもの朝食と同様にみそ汁と納豆、卵も用意したが、それらと一緒に喰うとそれほど喰うのには苦はなくなった。納豆と生卵をぶっかけて喰うと、くさみが消えて(というかより強烈な匂いに殺されて)気にならなくなった。それに、卵の黄身の味と麦とは、以外に合うかもしれぬ。みそ汁で流し込むもよし。結局、流し込むようにして食い終えた。


 さて、一応の満腹感を得て出掛けたのだが・・・行きの電車でも思ったが、ちょっと胃が重い。ほとんど丸飲みな上に、粒が大きく弾力がある。消化に手間取っているのだろう。さらには昼過ぎには腸に負担が掛かってきた。その上、屁まで出る。昼はいつも通り、簡素な安パン2つしか喰っていない。これは消化がよいものだ。となればやはり朝の麦が消化器にもたれているのだろうて。別に腹が痛くもなっていないが、あんまり麦だけで喰うものでもないのだな、やっぱり。
 というわけで、今後麦シャリは「米に麦を混ぜる」程度の比率で喰うのがよいのだろう。昔の貧乏な百姓(百姓そのものが貧乏だと言っているわけではない)なんかはそれこそ麦や十穀を主食とし、米はあまり口に入らなかったと聞く。収穫前や飢饉のときなんかは、米などほとんどなくなっていただろう。それはどうやら、なかなか大変な食生活だったようである。
 もっとも、米作よりも麦作が主だった地域ではもちろん主食は麦になった。そうした地域では麦を挽いて水で練り、パンや麺類にして喰う技術が発達した。やはり麦は堅く、そのまま水につけて炊いただけでは弾力がありすぎる。麦は砕いたり挽いたりして、加工して喰うのが正解なのかもしれんね。


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