クズ映画上映
2003年06月07日(土)


 土曜ということで、久々に掃除機をかけて、便所風呂を掃除し終えて、人心地ついた頃。大学時代の部の後輩・課長(仮名)から携帯にEメールが送られてきた。なんでも課長宅に来て、パソコンでもいじりませんか、とのことである。明日は日曜。実際問題として、この週末にはいくらかやっておきたいこと、やらねばならないことが溜まっていて、平日は土日になったらそれらを片づけようと思っていた。しかし後輩からの誘いなどというものは、関東に戻ったと言えどもそうそうあるものではない。行ける機会には行く。差し当たって「ガンダムSEED」を見終えてから課長宅に出発した。


 「来た人は必ず迷う」とのことで課長は最寄り駅までわざわざ出迎えに来てくれていた。胡散臭い出で立ちなのは昔から変わらない。さすがは課長。途中ドラッグストアに寄って食料飲料を調達。普段は清涼飲料水の類は一切飲まないし、間食そのものをする習慣がない私だが、思いっきり健康に悪そうなチョイスをする。果汁ゼロどころかコチニール色素を大量摂取できそうないちご飲料と称するパックと、スナック菓子を購入。自分1人では5年に1度買うかどうかという品だ。酒を買わなかったため飲み物食べ物にはささやかなこだわりを見せたが、酒がないのは私が歯根炎で抗生剤を服用しているためである。
 かくして食べ物飲み物を調達した我々は、課長宅へ向かった。




 課長宅では、新しく購入したというパソコンを触らせてもらったりした。そして一通りプログラムを見た後、課長は「これはすごい映画ですよ」と、おもむろに胡散臭いパッケージのビデオを取り出す。そのタイトルは「ユナイテッド・トラッシュ(United Trash:Die Spalte)」。この時点でもう終わっている。クズゴミ連合(体)。しかも監督は、闇深き大国ドイツでさえ上映、ビデオ化、創作活動の一切を禁じられた、あの鬼畜中の鬼畜異常者、クリストフ・シュリンゲンズィーフ(Christoph Schlingensief)。
 シュリンゲンズィーフとくれば、同じドイツの異常者監督ユルグ・ブットゲライト(Jorg Buttgereit)も連想せざるを得ない。大学時代、課長にブットゲライト作品の「ネクロマンティック(Nekromantik)」を勧められて、興味本位で観てしまった記憶が未だ生々しい。「ネクロマンティック」はまあ要するに、タイトルの通り、死体に性的興奮を覚える異常者の話なのだが、氷山の中に封じ込められた美女・・・というようなキレイな死体など出てこない。男か女かさえもわからないような、腐乱死体やコマギレのパーツばかりが出てくるという。撮影技術や小道具があまりにも稚拙でウソ臭すぎるのが救いだったが、それでもグロテスクなシーンの連発には吐き気を催し続け、それ以上に登場人物達のイカレた行動や発想には脳が拒絶反応を起こして呻いたものであった。倍速にしながらも終わりまで観た私もどうかとは思うが。今回の「ユナイテッド・トラッシュ」もそうしたグロ映画かと覚悟しつつ、上映が始まりつつある画面を見るのであった。


 「ユナイテッド・トラッシュ」。これもまた、エログロナンセンス鬼畜支離滅裂背徳冒涜アナーキークズゴミ映画であった。グロいシーンもそこそこというかそれなりにあったが、「ネクロマンティック」よりはマシだ。アフリカに追放されて、シュリンゲンズィーフも機材や成型設備に事欠いたのかもしれぬ。しかしなんというか、この映画は支離滅裂という点では最大級。私が今まで観た他のどの映画よりも理解に苦しむ。「ネクロマンティック」も含めて、異常者を描いた異常者映画も何本か観たが、そうした映画は異常者達の行動原理が決して共感できず、なんでそんな発想を抱くのか理解できないだけであって、映画そのものは一つの軸、テーマに沿って展開されていく。隠喩や暗示なんかもなんとなく、自分なりに解釈できなくもない。
 しかしこの「ユナイテッド・トラッシュ」は、一切の解釈をする余地がないほど支離滅裂である。登場人物が全員異常者で、しかもみんな自分勝手に動き回り、しかもアフリカ蔑視、ドイツへの怨念、アメリカへの嘲笑、神への冒涜、同性愛、Kindersex、近親姦といったありとあらゆるfxxkが入り交じり、それがわずか79分の時間に無造作に何の構成も考えられずに放り込まれているため、1つ1つのシーンの解釈が極めて困難で、全体の文脈を通してシーンを解釈することもその逆も不可能に近い。こうした描写を次々と見せられ聞かされていると、この映画はわりと短いのだが、3時間4時間はぶっ通しで映画を見続けているというような疲労を確実に脳髄に受けることとなる。見終わったときの爽快感と言ったら最高である。自分で自分を観終わるまで観ようと拘束し、苦しみが終わったという開放感、全部観終えたという達成感、それも一般人はこんなもの数分も保たずにな消してしまうだろうけど自分は観たという達成感を得ることが出来るのだ。この映画によって中枢神経に受け続ける多大なる負荷の前には、鑑賞前に思っていたようなあらゆるプラス・マイナスの感情など押し殺され、そして負荷がなくなると同時に開放感を得る。なんとも屈折した快楽ではないか。このような快楽を味わえる映画というものはそうそうあるまい。そういう意味では希有の映画ではある。二度と観たくはないが。特に1人では。
 それにしても、ヘテキテテクとはいったい何なんだろうか。考えるだけムダなのはわかっているが。


 さて、この映画を課長はVHSで購入したのだが、DVD化を待ち望んでいるらしい。なんでもVHS版で字幕の他に日本語吹き替え版もあり、万一DVD化されればその吹き替えも入ることになる。そしてこの映像は二度と手に入らないかもしれないので、VHSテープは大切に保管しておきたいが、やはりDVDも欲しいとのこと。
 そして課長は、同監督による「ドイツチェーンソー大量虐殺(Das Deutsche Kettensagen Massaker)」と「テロ2000年/集中治療室(terror2000)」のビデオも探しているとのこと。もし入手した暁には、やはり私も観ることになるのだろうか。観たくないような観たいような、やはり観たくないような。とにかく、まともな人間は決して観てはならない映像であることは確実である。必ずや不快な思いをすることであろうから。




 もう終電もなくなった。近くの深夜営業店でカップ麺を買いに行き、私は焼きそば、課長はラーメンを食った。そして麺を食い終えた課長は、何故か台所へ行って鍋を火にかけなどしておる。別段気にもしないでいたが、やがて鍋を部屋まで持ってきて、その内容をラーメンのカップに注ぎ込むではないか。溶けかかった米を。おじやですかい。化学調味料と油脂の宝庫であるカップ麺の残り汁に米を注ぎ、米にそうした恐るべき物質を存分に吸い取らせて摂取する。すばらしい食事である。



 そして課長は、本棚の中に設置してある伝統工芸品っぽい丸いライトを灯し、その間接照明の元、パソコンに向かうのであった。「いつもは、こうやって暗闇の中、パソコンに向かっているんスよ」。すばらしい。なんて怪しい光景なんだ。私が大学を出てもう1年以上になるが、私は無難なことしかせず、自分と同じように万人がやるものだと確信しているという意味の「一般人」とばかり接し、大学時代の人々とはしばらく会うこともなかった。しかし同時代を過ごした課長は、まだまだかくもすばらしい奇人ぶりを発揮しているとは心強い。それを確認し、そして一生関わることも知ることもなかったクズ映画を観れただけでも、今宵課長宅に来た甲斐はあったというものである。それにオモイカネがLinuxのバリエーション名だということも、はじめてわかったし。


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