「宣戦布告」
石侍露堂監督、日本映画、2002年


注意
 ここに於いて私は、北朝鮮問題や日本の有事法制に対して、一切持論を述べることも価値判断もしません。ただ、この映画の制作者が訴えようとしていることが、うまく伝わらないのではということと、制作者が望むであろう有事制度改革をするためにはどういった視座を持つべきか、を指摘するに過ぎません。



 10年前ならば、「有事に備えよ」「北朝鮮は脅威だ」「日本(国/人)には危機管理意識がない」などと焦臭い話をぶち上げただけで白眼視されたものだった。戦争や武力に関して「完全否定」と「対話礼賛」以外のことを言ったものならばもう、軍国主義者、ファシスト、ウルトラナショナリスト、殺人狂、ナチの肯定者、太平洋戦争の絶対的賛美者云々と、よけいな枝葉までくっつけられてあらゆる罪悪の権化として見なされ、事実上狂人扱いされたものであった。それを思うと、現実とオーバーラップさせて危機感を煽りたてるような映画が話題を呼ぶだけでなく、わりと肯定的にテレビや雑誌で取り上げられるなんてことは、10年前には想像もしなかったことである。これが私の第一の印象。
 そして第二の印象は、これは危険な映画だな、ということである。


 優柔不断で日和見主義の総理。政争のことばかり考える閣僚。法令と指示を墨守し、責任逃れしか考えない役人。この映画に出てくる政府関係者は、なんというか、モリエールの性格喜劇の登場人物みたいだ。何かの権化みたいな人間ばかり。顔までステレオタイプのカタマリみたいな役者を選んで使っている。責任逃れしか考えない県警本部長は「行動力も実力も熱意さえない青二才キャリア」として、童顔で声の高いメガネのやせた男を使っている。自衛隊の行動に関する法律を読み上げる法務担当は、いかにも「知識だけで現実とかけ離れたことをしている頭でっかち」として、声に重みのないメガネデブが演ずる。なんとも危険な映画だ。
 この映画の何が危険かと言ったら、北朝鮮以外の何者でもない「北東人民共和国」の兵が乗り込んでくることでもなく、それに日本国がうまく対応できないで徒に警官や自衛官、民間人までもが多数死亡することでもなく、ましてこの事件を契機に「北東人民共和国」、中共、台湾、韓国、フィリピン、ヴェトナム、そして米国を含めた国々が一触即発に陥ることでもない。こうした危機が深まる原因が、あたかも政府閣僚や官僚の「人格」によって引き起こされているような印象を与えるのが危険なのである。


 この映画が喚起したいのは、政治家や役人の「人格の腐敗」に対する警鐘もあるのだろう。けれども、それ以上に何も出来ない何にも対処できないという、この国の法制度の立ち後れと緊急時に於ける甚だしい不合理を皮肉混じりに指摘することこそが、この映画のテーマであり役割ではなかろうか。だけれども、あまりにも滑稽な登場人物達の印象が強烈すぎて、観る者は「制度的構造性」にまで目がいかずに、「政治家は我が身しか考えていない」「官僚に決断力などない」という「人格」にまでしか目がいかない可能性が強い。
 前述の防衛庁法務担当。少なくとも彼は責任を放棄していないし、ましてくだらないセクショナリズムや責任逃れなんかは一切していない。ただ、職務を忠実に遂行しているだけである。「現行法でどういう行動ができるか」を述べるだけで、それを無視するとか超法規的なことを考えるなんてことが仕事なわけではない。しかし人によってはは「なんて法律だ!」と思わないで、「なんだあのデブは!」としか思わないでしょう。


 そして、いかにもダメっぽい奴が実際にダメな反面、出来そうな奴はやっぱり出来る。頭の切れる奴はすべきを見抜いたかのように行動する。そしてそういう奴に限って迫害されるマイノリティ(帰化したコリアンとか)だったり。まあさすがにコリア系日本国民をスパイの役として登場させたものならば、この映画は叩きつぶされただろうけど、「誰に花を持たせるか」という図式としてはわかりやすい。そして情報室長はいつでも的確な行動をし、そして最後には自分の打った奇策によって危機を収束させてさえ見せる。これもまた、この映画の危険な性質である。ここには性格喜劇的な側面はなく、ただの「ダメ人間」対「まともな人間」という二分論。わかりやす過ぎて面白味に欠ける。そして面白味に欠けるだけではない。
 「優秀な奴」が、「ダメ人間」の妨害にあいながらも的確な意見を述べ、的確に動こうとし、事態の解決までしてしまうというのは、観る者に「英雄こそが必要である」「優秀な人間による導きこそ欲している」と思わせるではないか。各法律や命令系統の不備が政治家や役人を非難すればそれで済むわけではないように、優れた政治家や役人が颯爽と登場すればそれでいいわけではない。


 結局すべては国民全体の問題である。もちろん政治家、役人、ありとあらゆる人間に現状の問題の責任はあるが、それと同じようにあらゆる国民1人1人にも制度的問題に対する責任がある。しかし国民は「政治家なんて誰がなっても同じ」と嘯き、汚職に怒り呆れるだけでなにも考えていないし、何もしていない。ひとつひとつの法案について考えたわけでもなく、地方行政であれ外交・国防であれ現状に対するオルタナティブを考えてみたわけでもなく、飲み屋や床屋や教室に於いてイメージでもって場に対する追従みたいなことしか言わず、自分の雑多な生活や仕事といった極小のミクロが天下国家というマクロに於いてどんな役割を果たしているか考えもしないし、その能力もない。学ぶことをあざけり、楽をし、考えることから逃避し、自分が主体者であることを忘れ、ただ政治家や役人の人格だけを叩くだけでものを言った気になった満足する。ここでこうしてこんなこと書いている私もまた、そうした愚かな国民の1人だ。観ている方も、圧倒的大多数はそうした国民の1人ではなかろうか。
 しかしこの映画も巷にはびこる風潮と同じように、「指導者+エリート」の「人格」を批判し、そして「人格」を讃えればそれでいいような気になってしまう。というよりも、人々が期待するような「ダメな人格が世の中をダメにする」かのようなシーンを立て続けに見せて、結局「超越的な能力を持つ人格者が、すべてを救ってくれる」ことを描いてみせてしまうのだ。それが危険だというのだ。結局、「ダメな人」という人種を排除すればそれでよく、「優れた人間」が指導してくれることを待ち望み、構造的制度的問題にまで考えが至らない。制度や構造こそが、個々人の人格を規定してしまうのだが。「ダメな人間」とて、就任前は血気盛んな若者だったのかもしれない。
 そして事態が一歩も進まない中では、「現場の暴走」さえもすばらしいことのように思えてくる。「現場が主導権を握る」というのは聞こえがよいと思う人もいるだろうけど、公務員、特に武器を持った兵士がそれをやるなんて破滅的なことだ。秩序の崩壊は、秩序を保ったまま犬死にするよりも恐ろしい。このことを甘く考えている人というのもまた相当いることでしょう。
 ま、大衆受けする映画としてはこれが限界だったんでしょう。


 あとは細かいことを言えば、なんで小銃小隊が64式小銃ばっかで、レンジャーが89式なのか。ここでレンジャーと小銃小隊とを小道具で差別化しようとする意図がわからん。プロップが揃わなかったのか。そして2003年6月現在、自衛隊に配備されていないM203グレネードランチャーが使われていたのはまだよい。しかしXM177やM4カービンみたいな伸縮ストックつきの89式小銃はなんなんでしょうか。そしてC130よりも遙かに大きいB2を指して「戦闘機」と呼ぶのはいかがなものか。いやまあ、それはどうでもいいんだが、気になりましたわい。


 酷評したけれども、娯楽としてはまあ面白かった。海保が銃撃戦をしたり、日本人が実際に拉致されていたと判明したりで、それまで大した扱いでなかった北朝鮮情報がニュースやワイドショーで積極的に提示されている昨今、それまで軍事にも戦争にも関心がまったくなかった人にも、「ありそうな話」という気がして劇中に没入できたことでしょう。自分が画面から距離を置くのではなく、積極的に自ら危機感を持ち焦りながら観られる映画なんて、そうそうあるものではない。さらには、なんだかんだ言っても「有事」「危機管理」に対する日本の杜撰さについて「警鐘」としたい、という原作者の意図そのものは果たしたことでしょう。価値判断はさておきとして。ま、タイミングのよい映画でありました。


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