「モスクワ地下鉄の空気 新世紀ロシア展望」
鈴木常浩著、現代書館、2003年
ロシアに4年間留学して建築を学んでいた著者が、モスクワ地下鉄を通してロシア/モスクワ社会について淡々と描くエッセイ。コトバは難解で、何を学べるかもいまひとつ知られておらず、危険も不自由も多いロシア。そのロシアに留学するような人は、この国に対して多少なりとても好感なり感心なりを持って足を踏み入れ、現地で危険や目や不愉快な目にあっても、在露体験記を出版する際には自己肯定も含めて好意的なことを書く場合がしばしばあるのではなかろうか。しかし本書にはロシア賛美や無理矢理なオプティミズムを演出しようという気概はない。ただ、ロシアでの体験が率直に書きつづられている。
本書に現れるロシアは、闇が深い。理不尽、暴力、憂鬱、諦念、多層性。曲がりなりにも信奉していた共産主義が崩壊し、一気に資本主義・民主主義そして欧米的なスタイルが流れ込んできたロシア。資本主義導入の混乱で貧富格差が一気に拡大し、そしてそれが固定化しつつあるロシア。かつて超大国として君臨しながらも、誇るべき経済力も芯となる思想もないロシア。制度や権力構造の非効率や非人間性は共産主義時代と少しも変わらないロシア。そして飲んだくれ、自分よりも弱そうな人間に抑圧移譲するロシア。著者の目の前には様々な光景が繰り広げられ、そして著者は多くの失望と怒りを味わったことであろう。警官にカツ上げされ、ネオナチの襲撃に備えて包丁を抱えてホテルに逃げ込むなど、尋常な体験ではない。
もちろん彼はそうしたロシアは嫌いだと明言しており、実際嫌っているのだろうけれども、本書はそれだけに終始するような本でもない。恨みを晴らし、実態を告発し、筆誅を叩きつける。私が似たような体験をしたならばそういう本になりそうなところだが、著者はあくまで観たことをただ、並べて記述しているだけである。ロシアで観て体験したこと、そこから思い描いたロシア像を、地下鉄駅の建築様式から見出したロシア像と重ね、あるいは齟齬を覚える。本書は、そうしたロシア像をひとつひとつ描き出しているが、そこからひとつの文脈としてロシア礼賛やロシア弾劾はしない。統一的な意味づけをしてひとつの価値に体系づけるのもない。あくまで無作為な併記によって、ロシアの混沌というものを描こうとしたのではなかろうか。まさに表題の通り、ただ空気を描いた書とも言える。
モスクワの地下鉄の空気、モスクワ/ロシアの空気。それらは、一言で言い表せられるようなものではない。日本人−あえてこういう呼び方をするが−日本人は、「**人は〜」「**国は〜」という大主語による言い方を好み、集団で個をはかることを好む。もちろん日本でもそんな簡単に物事を述べることなど出来ないが、ロシアはとりわけ一概に評価することが難しい。そのロシアでの滞在記として、無理に一貫性を見出してロシアなるものを総括しようとせず、ただ淡々と出来事や印象を書き連ねていく率直な姿勢は好感が持てる。軍事技術や外交など一貫したテーマがある研究書ならばまだしも、ロシアなるものを描くのに「ロシア人はこうだ」「ロシアはこうだ」という自信満々に言い切られるのは多大なる抵抗があるので。
本書は旅行案内としてはロシアに行きたくなくなるし、地下鉄解説としてもそれほど詳しく調査がなされているわけでもない。ただ、なんとなくロシア/モスクワなるものについて「触れて」みたいという人にとっては興味深い一冊となることであろう。