「戦場のピアニスト」(英題The Pianist)
Roman Polanski監督、アメリカ映画、2002年


注意
 
 このページでは、一切のネタバレに関知しません。
 この映画を未見で、先の展開を楽んで鑑賞したい方は、読まないことを勧めます。



 この映画は、実在した音楽家シュピルマンの戦争・ゲットー体験を元に制作されており、ナチスドイツによるポーランド侵攻やユダヤ人迫害、そして反ドイツ闘争を、一音楽家の目を通して描いている。侵攻や迫害というのは、まったくもって凄まじい罪悪である。だが、そうしたことを扱った映画や書籍を観て「ひどいことだ」「罪悪だ」などというのは何も言ったことにはならない。せいぜい、「自分はナチスやユダヤ人迫害を賛美肯定していない」という立場を表しただけに過ぎない。そこで私は、「都市に於ける食糧供給」という視点で、この映画について述べたい。


 いきなり私事から始めるが、地震多発地帯に育ったせいか、中学時代に軍隊のサバイバル教本を読みふけっていたせいか、どうも私は「非常時に対する備え」を好む。具体的に何をするかと言えば、保存食や水を備蓄し、ツールナイフやラジオ、懐中電灯、電池をわかりやすい場所に集積配置するだけなのだが。これだけでも、ないよりはマシであろう。ただ、保存食・水の備蓄というのは、せいぜい自衛隊等が救援物資を配給するまで、あるいは商店が再開するまでの「つなぎ」に過ぎない。例え地震や天変地異といった災害から逃れたとしても、誰も救援に来ず、物流も完全に消滅したとなっては、多少の備蓄などしていてもすぐに食い尽くして死んでしまうことであろう。流通と分配のインフラが消滅しては、都市で人間は生きてはいけまい。
 都市という場所は古来から、食糧を外から運び込まなければ住人が生活できない人工的な場所である。都市には外の農村や漁村、山や川から、様々な形で食糧が運び込まれる。金銭による売買。その形態は様々だ。物品との交換。武力による徴発・略奪などなど。そして都市に集められた食糧は、一定の秩序の元で住民に分配される。武力によって支えられた支配者が、徴税として食糧生産者や商人から直接食糧を納めさせる。あるいカネを徴収してカネで食糧を購入する。そうして集められた食糧を、支配者から忠誠や勤務の見返りに支給される。あるいはカネの形で支給を受け、カネで食糧を買う。あるいは、自らの何らかの仕事に携わりカネを稼ぎ、食糧をもたらす商人から買う。とにかく、古来であろうと近現代であろうと、秩序に乗っ取ってはじめて、都市で食糧を口にすることができる。しかしこの映画の主人公シュピルマンは、その食糧供給構造から外れてしまう。


 まず、ユダヤ人であるシュピルマンは、ポーランドを占領したドイツ軍の命令によって、ゲットーと呼ばれるユダヤ人居住地区に押し込まれてしまう。この段階で、今まで都市の一部として様々な労働に携わっていた人々は、いきなり都市の食糧供給構造から切り離される。ラジオ局でピアノ演奏をして稼ぎ、そのカネで食っていたシュピルマンも例外ではない。ゲットーにもあの手この手で食糧が持ち込まれ、食糧は売買される。だが、いきなり仕事を失った人々は、まずは手持ちの現金で、次に本や貴金属を二束三文でたたき売って食糧を得る。売るモノがなくなり、いかなる仕事も見つけられない人間から次々と餓えて、病気になり、そして死んだ。当然の帰結として身よりのない老人や単身の女性、庇護者のいない子供から死んでいく。
 ゲットーにも富裕な人間は存在した。警備を買収して闇商売で荒稼ぎをしたり、あるいはナチスの協力者として利益を得る人々だ。シュピルマンは幸運にして、そうした富裕なユダヤ人相手のカフェテリアでピアノ弾きの職を得ることが出来た。ほとんどの財産を失い、不衛生で密集したゲットーの中に押し込まれたシュピルマンだが、ここでは都市の食糧供給構造に乗ることが出来た。一般論として、有事には芸術や学問から切り捨てられる。力仕事も工業技術も、まして不正取引や盗みの能力もないピアノ弾きとしては、彼は例外的な幸運を見せた。


 だが、事態は急転する。シュピルマンらが住む小ゲットーから、郊外の収容所へとユダヤ人の根こそぎ移送が始まる。対ソ戦の捕虜を収容するために、ゲットーを空ける必要があったためと言われている。シュピルマン一家もまた強制収容所へ移送されるが、シュピルマンだけはナチスの協力者である友人に助けられ、辛うじて移送を免れる。ゲットーからの移送先は絶滅収容所。場所を「空ける」とはそういうことだ。移送されていたら、シュピルマンが死んでいた可能性はかなり高い(もっとも、移送されたシュピルマンの家族の中には、収容所から生還した者もいるが)。
 移送を免れたシュピルマンは、労働者の多い大ゲットーにて肉体労働に従事し、食糧を支給されて、なんとか日々を生き延びる。しかし、整列させてほとんど無作為に射殺する「選別」、ドイツ兵の気まぐれな暴力、過酷な労働、不足する食糧・・・いつでも死はすぐそこにあった。ゲットーの住人は、些細なことで、あるいは理由もなく射殺された。どんな人間でも、いつどこで死んでもおかしくなかった。こんな地獄から抜けだしさえすれば・・・とにかく、これ以上の酷いところがあろうか。スクリーンの前で、そう思うのは簡単だ。しかし都市の秩序から逸脱するということは、そんなに生やさしいことではない。


 大ゲットーでシュピルマンは、労働し、食糧を支給されていた。シュピルマンは、都市の食糧供給構造という秩序の一員であった。繰り返すが、労働は過酷で、食糧も十分ではなく、突然射殺されるなどということもザラだった。そもそもナチスはゲットーからいずれユダヤ人を殲滅するつもりだった。ゲットーに残れば、シュピルマンは突然の射殺、労働事故、栄養失調によって死んでいたかもしれない。絶滅収容所へ移送されたかもしれない。ゲットー蜂起で命を落としたかもしれない。だが、とりあえずは都市の秩序の上には乗っていた。例えその秩序が、自分達を殺すための秩序であろうとも。
 脱走したシュピルマンは、都市の秩序から逸脱した。確かに、過酷な労働に明け暮れることもなく、突然整列させられて、ほとんど無作為に撃ち殺されるようなこともなくなった。だが今度は、身分を証明することも出来ないため、シュピルマンはいかなる労働にも従事できない。彼は有名なピアニストなので、顔を知られている可能性もある。街も歩けない。ポーランド人にも反ユダヤ思想を持つ者は少なくないと言われる。そして今度は「脱走したユダヤ人」として発見されたら、即座に射殺される。あるいは脱走や潜伏の協力者を吐かせるため、凄絶極まりない拷問にかけられる。出歩けず、もちろん労働も出来ず、市民が受けるような配給もなく、食糧供給構造から逸脱したシュピルマンは、細々と協力者が運ぶ食糧によって、糊口をしのぐしかなかった。
 シュピルマンが最終的に生き延びたから、ゲットーから脱出してよかった、ゲットーよりは外はよほどマシだ、とスクリーンの前の我々は簡単に言える。だが、「どっちがマシ」などということが言えない、どちらも死ぬ可能性がとてつもなく高い、正解などない究極の選択だったわけだ。逃げればどうにかなるわけでも、何かをすればどうにかなるわけでもない、いかなる選択肢を選んでも地獄という状況。これこそが悪夢というものなのだろう。


 脱走後シュピルマンは、またしても幸運にして協力者の助けを得て隠れ家に潜伏し、食糧の世話もされる。しかし協力者は逮捕され、あるいは逃亡し、シュピルマン自身もワルシャワ市民によって発見されて通報される。辛くも次なる協力者宅に駆け込むも、今度の協力者も疎開してしまう。隠れ家に1人残されたシュピルマン。協力者が運び込んだ食糧も尽きた。ワルシャワ市民による反ナチス闘争は市街戦の様相を呈し、水道まで断水してしまう。さらには戦車砲によって、彼の潜伏する部屋までもが損傷して失われてしまう。水も食糧もなく、破壊された街をさまよい歩くシュピルマン。
 ゲリラ戦が頻発する中では、シュピルマンが何人であろうとドイツ兵に見つかると即座に射殺されたことだろう。シュピルマンは逃げまどい、隠れ通し、ドイツ兵に殺されることはなかった。だが、食糧と水はいかんともしがたい。森や林に1人投げ込まれたのならば、サバイバル技術とやらでまだ食い物や水を得られなくもない。しかし都市、それも秩序が崩壊した都市では、食糧を得るのは困難である。
 蜂起したワルシャワ市民に混じり、人々が集まるような場所へとたどり着けば、食糧にありつくことはできたかもしれない。従来の食糧供給構造は壊れたが、ワルシャワ市民はどうにかしてメシを食っていた。辛うじて行われる郊外からの供給や商店・倉庫の在庫を、市民グループはどうにかして分配していたはずである。人が多くいる場所に食糧もある。しかしだからと言って、いきなり顔を出したシュピルマンがメシを食えるという保証もないが、蜂起にポーランド国民として参加すれば、まだメシは食えたかもしれない。
 けれども彼はいかなる蜂起にも参加せず、廃病院のバケツから水を飲み、家捜しして缶詰や穀物のカスを集めて飢えを凌ぐ道を選んだ。だが、食糧生産能力がゼロに近く、動植物さえほとんどない都市で、遺留食糧を探して生きることなど不可能に近い。


 ドイツ兵から隠れ、ワルシャワ市民達に混じることもせず、ただ廃墟で1人、水と食糧を探してさまようシュピルマン。しかし彼はドイツ将校に見つかってしまう。ドイツ留学の経験があり、ドイツ語が堪能な彼は自分をピアニストと説明し、ピアノ演奏によってドイツ将校を感動させる。そしてシュピルマンは、ドイツ将校が与えたパンとジャム、缶詰によって命を長らえ、終戦を迎えることが出来た。これはもう、奇跡そのものである。ナチス協力組織「ユダヤ警察」の警官に助けられたこと、作業でミスをしても射殺されなかったこと、ゲットーに武器を持ち込んでも見つからなかったこと、そしてドイツ軍人が食糧をもたらしたことが、この映画を観た観衆が思い描く「奇跡」だろう。
 だが、ゲットーに放り込まれて都市の秩序からいったん切り離されながらも、ピアノ弾きとして再び糊口をしのげたこと。大ゲットーで労働者として都市秩序に組み込まれ、当分の間食糧を供給されたこと。脱走後に、協力者によってアジトと食糧をあてがわれて、都市秩序と断絶しながら生き延びたこと。そして、全ての関係性が断ち切られて廃墟を放浪しながらも、水食糧をかき集めて生き延びたこと。そしてドイツ軍人に食糧をあてがわれたこと。これら、「都市秩序とシュピルマンとの関係」という視点で見ても、すべてが奇跡と称して差し支えなかろう。


 この映画の優れた点としては、冷静な公正さがよく上げられる。確かに、迫害されるユダヤ人・ポーランド人がすばらしく勇敢に戦い心優しい人々で、ドイツ人はクズ、といったような単純さはない。それどころか、迫害されるユダヤ人の中にも、ドイツのために同胞を殴り、死地に追いやる「ユダヤ警察」を描き、ドイツに協力して私腹を肥やした寄生虫も描いた。しかしそうした裏切り者のユダヤ人が同胞を救う様も見せた。ポーランド人も、ユダヤ人を匿い、ドイツと戦う人々も描かれたが、ユダヤ人を当局に通報しようとする反ユダヤ的なポーランド人も描かれた。ドイツ人は遊びでユダヤ人を虐殺するような非道な面も次々と見せたが、もちろんドイツ将校による主人公の救済も描いた。ヒステリックに、原色のペンキで位置づけや役割を決めつけるやかましい映画に比べて、この映画の客観性は優れていると言えよう。
 ただ私はもう一つ、この映画が「都市に於ける食糧供給秩序」という面から主人公の変遷を描いた点を評価したい。ただただよくわかんないけど「ゲットーは地獄、理不尽」みたいな簡単な描き方ではなく、どこから食糧がもたらされて、どう配分され、人々はどう食糧を手にして口にするか、という物流の在り方がきちんと描かれていた。その中で、主人公シュピルマンがどういう位置づけだったのか、その状況と変遷が丁寧に描かれていた。だからこそ、その秩序から人々をいきなりぶった切って離したり、「とりあえずメシは食えるけど、いずれ殺される」としいうレールに載せたり、しかもそのレールから逸脱するといきなりメシも食えず、即座に殺されるような状況に陥ったりする恐怖と理不尽と無力感とをまざまざと見せつけることに成功している。「都市の秩序」を、悪意を持ってねじ曲げることは、単純に殴る、奪う、殺すといった一過性の暴力以上の恐怖である。そういう意味に於いては、考えれば考えるほど怖い映画であると言えよう・・・。


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