再び、自主WR
2004年03月25日(木)


 さて、私と美津濃氏、П氏は終電がなくなる直前に帰途についた。後で知ったことだが、П氏はなんとか帰宅できたらしい。美津濃氏は途中から電車がなくなり、П氏宅に転がり込んだとのこと。しかし私は高幡不動駅についた段階で、電車がなかった。
 さあどうしたものか。先ほどの後輩宅に戻れば、朝まではいられるだろう。しかし、直接の面識に乏しい後輩の家に、単独転がり込むほど厚顔無恥ではない。大学時代は転がり込めそうな家など何軒かあったが、一人暮らしの者は次のステージのために引っ越してしまった。さらには携帯電話の電池が完全になくなっており、近場に住んでいる人間がいようとも、連絡のとりようもなかった。さらに言えば、この近くに残っている者とて、平日は仕事。明日も仕事。こんな時間に乗り込むわけにはいかない。学生とても、部の打ち上げにでも出ていることであろう。
 ではタクシーか。現金はあるし、カードもある。しかし高幡不動駅前には、電車で到着したばかりのサラリーマンやOLが大挙して並んでいた。並ぶのは性にあわん。第一、ここから川崎まで乗ったら高くつく。もう多摩センター発着の電車もすべて終わっているが、とりあえず多摩センターまで歩くことに。大学近辺を歩くことなど、もうあるまいて。
 夜道を歩く上で何よりも怖いのは人間だ。私は男で貧乏そうなナリをしているから、若い女や身なりのよい中年サラリーマンよりは、相対的に危険は少ない。しかし、目撃者の1人もいないような夜道では、誰と出くわし、何が起きるかわからない。油断はできん。だが雨も降り、肌寒いため、バラガキ連中は家でファミコンでもしていると判断した。



2004年3月26日、0:56:16

 さて。高幡不動から多摩センターへ抜けるには、中央大多摩キャンパスを迂回する必要がある。山越えする道もあるらしいが、どんな道かはわからない。それならば素直に迂回した方が早い。しかし裏技がひとつだけある。それは、中央大学と明星大学との間に建設されたトンネルである。モノレール用トンネルはもちろん多摩都市モノレール開通と同時に開通しているのだが、なぜか同時に建設された車両・歩行者用のトンネルは開通してない。中がどうなっているかは知らないが、私が大学在学中から終電逃してここを歩いたという話は聞いている。少なくとも、繋がってはいるのだろう。
 これはあまり勧められる手ではない。暗闇の中で万一穴などがあって落下・負傷した場合、救助を呼ぶことも出来ないかもしれない。そうしたトラブルの際には、通常の事故以上に迷惑となる可能性もある。が、今回は体力を温存しつつ、出来るだけ早く多摩センターまで行きたかった。






 これは、鍵束と一緒にしてある青色LEDライトである。見ての通り、小指ぐらいの大きさしかない。電池は豆粒よりも小さい、LR41を4つである。鍵穴を照らす為に持っているのだが、発光ダイオード技術の進歩はめざましい。このLEDライトはこんな大きさで、単3電池2本を使うマグライトよりも明るいのだ。そして青色の視認性は高い。外国のパトライトで赤よりも青が多いのは、遠くからでもよく見えるからだ。この青色LEDライトがトンネルでは活躍した。
 件のトンネルにはもちろん外灯などついていない。その上トンネルはカーブしているので、ある程度歩くと、トンネルの入り口からの光がまったく入らなくなる。いくらネオンのひとつもない市街化調整区域と言えども、多摩で夜道が真っ暗になるということはありえない。しかしこのトンネルの中は、掛け値なしに真っ暗だ。自分の鼻の頭さえ見えやしない。足下に工事機材や穴があろうとまったくわからない。それどころか、「ヨコハマ買い出し紀行」ではないが、自分がどっちに進んでいるのかもわからなくなりそうだ。たとえカーブを直進してトンネルの壁に顔面を強打しようとも、ぶつかるまでまったくわかりそうもない。
 しかし単4電池並のサイズのこのライトのおかげで、どうにかまともに歩くことができた。ライトを正面に向けるだけで、足下も壁もよく見えた。このライトの性能は思ったよりも高い。しかし視界はそれほど遠くまでは及ばなかった。なぜならば、トンネル内に濃い霧が立ちこめ、ライトの光を遮っていたからだ。どこまで続くとも、そもそも出口が開いてかどうかさえわからないトンネル。霧の壁を照らしながら進んでいくと、ようやく出口の光が見えて、やが出口が見えてきた。やれやれ。外に出られたか。



2004年3月26日、1:23:22

 おお、多摩センターの光だ!
 しかしとりあえずここまで来たはいいが、ここからどうするか。
 いかなる電車ももう終わっている。



2004年3月26日、1:30:50

 タクシー乗り場。この時間になっても、まだ並んでいるのか!
 しかしよく考えたら、京王線も小田急線も、上りはすぐになくなるが、下りはかなり遅くまである。最後の下り列車が到着したのはいつかは知らないが、飲み会を終えた中大生などがあちこちから湧き出し、タクシー待ちの列は長くなる一方であった。
 タクシー乗り場でバカ正直に並ぶのは私の性にあわん。多摩センターに向かってくるタクシーを、別の通りで待ち伏せして捕まえようとする。近くで同じことをしていたサラリーマンは首尾良くタクシーをつかまえたが、私はなかなか捕まえられない。そもそもタクシー乗り場に向かっているタクシーが、道ばたの客を拾う理由なぞないのだ。そんなことは最初からわかっていたが、試してみても捕まらないもんだ。
 ここで決断をした。タクシーを待たず、歩いて川崎まで帰る、と。



2004年3月26日、1:45:20

 多摩センターを離れてすぐ。24時間営業の漫画喫茶が目に入った。これから道もわからない、そもそも多摩地域に於ける東京都と神奈川県との県境は山で、道は真っ直ぐ通っていない上に少ない。雨も降っている。Yasutaka氏宅と美津濃氏宅と2晩外泊して、疲労も溜まっている。何やっているんだ私は。ここで買うまでもないが気にはなっていた萌えマンガでも見て、ネットでもやって始発を待った方がいいのではないか。タクシー代よりも安くつくし。
 と思ったが、私はそのまま通り過ぎた。



2004年3月26日、1:51:48

 昔、ここの交番があったはずだが。多摩センターで飲んで、大学時代のアパートまで帰った道である。ここの巡査には、よく自転車が盗難車ではないかと幾度となく疑いを掛けられたものであった。信号待ちをしているときに、車道の向こうの交番から、お巡りが訝しげな目で凝視していたものであった。さらには、日本刀(居合い刀。それでもみだりに携帯し、あまつさえ抜刀すると軽くない罰則がある)を買った帰りに記憶をなくすほど飲んで、抜き身の日本刀を右手に、なぜか木っ端微塵になった鞘を左手に持って、多摩センターから自宅まで歩いて帰ったが、そのときは偶然この交番を避けていた。はじめて多摩センターから歩いて帰り、この交番の所在など知りもしないのに。まさに偶然である。さらには、酔った後輩を自宅に泊めたときは、後輩の奴が六尺棒を腰溜めに構えて、交番に特攻しようとしたものだった。このときも、お巡りは奥にいて事なきを得た(当人は記憶にないと称している)。
 何にせよ、久々に歩く道だが、世の中変わっているものである。



2004年3月26日、2:17:54

 そして、美津濃氏が住んでいたマンションが今どうなっているのか見てみる。マンションの玄関前までと言えども敷地内への不法侵入の可能性があるが、いろいろ世話になった後輩が卒業した感慨と自主WRの興奮とで、ここまで足を運んでしまった。もし何かあったも、「ここの部屋に住んでいる**さん宅に用があったんですが、引っ越したんですか?」とでも言うつもりだった。違法ビラの投函をしているわけでもないし、そこに美津濃氏こと**が住んでいたのも、**と知り合いなのもウソではない。
 だが、誰もまだ引っ越していないようだ。前の住人が合い鍵で悪さすることを警戒してか、予備の鍵までつけられている。ここに美津濃氏がいれば、楽だったのだがな。というわけで、私が知っている道はここまでである。あとはどう行ったものか。



2004年3月26日、2:27:32

 人どころか、車の一台も通りやしねえ。
 民家の一軒ありやしねえ。
 ここはどこだ。



2004年3月26日、2:48:58

 しばらく歩くと、標識らしきものがようやく見えてくる。
 雨の中傘をさしながら、ストロボが無意味な距離を片手で撮影しているので、かなりブレている。そのため文字で説明すると、あの標識は「直進:町田。右折:永山」とあった。どっちに行っても東京じゃねーか!町田と永山の位置関係から考えると、川崎とはまったくの逆方向に進んできたしまったらしい。道路がカーブを繰り返していたと思ったら・・・。



2004年3月26日、3:06:26

 標識のあったところから引き返して、月すら出ていない中、方角を考えながら歩く。
 すると今度は団地ですか。



2004年3月26日、3:10:22

 なにやら地平線が明るい。もう朝日か!?
 そんなわけはない。関東の日の出は、この季節、6時前のはずだ。
 しかもこの方角は、恐らく南。これは川崎の街の明かりだ!
 そっちに直進したいのは山々だが、道がないのである。



2004年3月26日、3:23:46

 しかし、やがては神奈川県川崎市に突入!
 麻生区らしいということはわかるが、川崎のどこなのか、どこへ行ったものか・・・。



2004年3月26日、3:34:44

 雨はなお一層強くなってきた。
 方角は、道路標識や町内地図を頼りに、なんとかわりだしていく。
 しかし自分の方向があっているという確証は持てない。
 ここまで来て、夜が明けてから電車やタクシーというのはむなしい。なんとか自分の足でたどり着きたいものだ。
 大震災などで発生する帰宅困難者というのは、ふだん電車で帰宅している自宅へ、やはりこういう風に歩くのだろうか。



2004年3月26日、3:38:18

 坂だ。まるで、大学時代に毎年参加したWR(ウォーキングラリー)だ。だが、よく考えると、WRよりは楽だ。大学時代よりは格段に心肺機能が劣っているというのに。つまり、大した距離でも時間でもないということだ。ちょうど零時ごろ高幡不動を出発したから、まだ4時間も歩いていない。朝相模湖を出発して、夕方、日没後に中大多摩キャンバスに至るWRでは、後半になると股関節のボールジョイントが悲鳴を上げ、一歩足を出すのさえ苦痛になったものだ。それに比べるとまだまだ大したことない。余裕がある。



2004年3月26日、3:45:34

 エネルギーと水分と暖を提供してくれる貴重な場所。
 普段はブラックコーヒーや無糖の茶しか飲まないが、ミルクと砂糖が大量に入ったホットコーヒーなんぞを一本。



2004年3月26日、3:48:18

 この行軍中、自分自身を写した唯一の写真。
 雨がカメラに当たらないガード下で撮影。
 全体に黒っぽい服装をし、それが雨を吸ってますます黒っぽくなり、それでいて真っ黒ではない。一番ドライバーから視認されにくい格好だ。横断歩道を渡るときなど、たまにやってくる自動車は必ずや私を見ていないであろうという前提で行動した。でないと轢かれてしまう。こんなところにこんな時間に歩行者がいるとは思ってないだろうし。
 車もさることながら、職務質問も困る。「なぜこんな時間にここにいる。どこに行く」と聞かれても、「近所のコンビニへ」などとは言えない。ここらに住んでいるわけではないし、第一どこにコンビニがあるんだ。事実を率直に述べれば、「東京都日野市の高幡不動から、神奈川県川崎市**区***の自宅まで歩いて帰っている途中」ということになる。バカにされたと思ってお巡りが怒るかもしれんし、あるいは異常者の深夜徘徊と思われても困る。



2004年3月26日、3:51:30

 線路が何線で、どっちがどの方向なのかは、町内地図でわかった。
 とりあえず、線路の通りに歩く。
 道がしばらくははっきり。



2004年3月26日、4:09:06

 だが、道路と線路とが分かれた。もう線路沿いに道はない。線路が見えもしない。その上、道はまがりくねっている。どこに続くんだ、この道は!



2004年3月26日、4:14:06

 車にぶつけられたとおぼしき道路標識。
 それはともかく、誰もいない。それにここはどこだ。
 民家はあっても、コンビニ一軒ない。


2004年3月26日、4:48:26

 それでも歩いていると、自宅近くの見知った道路に出た。
 この写真は自宅近くにて撮影。まだ日が出る兆候もない。
 日の出前には家につけたわい。



2004年3月26日、4:50:56

 帰宅。時刻は0450。始発が出るよりも少し早く帰り着くことができた。
 それにしても、袖口。びしょ濡れですな。
 疲れているところを無理して風呂を沸かして浸かり、身体をほぐしてから寝た。足は軽い水ぶくれにはなったが、WRのときは水ぶくれがもっと腫れ上がり、さらには歩行中に破裂したりもしたものだった。それを考えると、まだまだ大した距離ではないということか。
 それから私が起きたのは、27日の0800時。およそ24時間寝たとは・・・。普段ならば12時間も寝れば寝過ぎの頭痛に苛まされるのだが、起きたときはそんなものはなかった。そして恐れていた筋肉痛もなかった。そうか、筋肉痛は1日遅れでくるのか・・・と思ったが、翌日になっても、翌々日になっても筋肉痛は発症しなかった。風呂が効いたか。それとも、私は5時間弱程度の歩行では筋肉痛にならないのか。いやはや。それにしても、貴重な休暇にずいぶんとアホをやったものである。

 ちなみにこの「自主WR」に於いて、
・信号待ち・写真撮影・自販機・小便以外には、5秒以上立ち止まっていない。
・一度も座っていない。
・口にしたのはホットオレンジとカフェオレの2杯のみ。

 いくら中大WRよりも短い距離だと言えども、よくもまあこんな強行軍をやったものである。
 私もまだまだ衰えてはいない、か。

 


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