監督歓送会
2004年05月09日(日)


 大学時代の所属部、その監督が本業の都合でアメリカへ赴任されることとなった。今日は、監督を歓送するための会合である。実は私も歓送会事務局員として、準備段階から関わってきた。事務局では最年長の部類にはいるのであまり大したことはさせてもらえなかったが、それなりに関われてよかった。
 私が歓送会の事務局メンバーとして参加したことどころか、歓送会に参加したことにさえ、驚きを隠せない人もいたらしい。それもそのはず、この監督と私はことあるごとに対立し、事務運営と稽古との兼ね合いを巡っては思想や精神な在り方をゼロサムゲームで完全否定しあった間柄だ。お互い非寛容な人間だ。寛容の名に於ける上意下達という暴力と、改革・革命という名の権威と既存のやりかたの否定。この対立は生やさしいものではなかった。かなりひどくぶん殴られたこともあるし、かなりひどくぶん殴ったこともある。お互い未だに残っている傷もある。
 もちろん私は監督を今でもあまり好いてはいない。過去の屈辱や理不尽は、今だに胃を焼け焦がす。しかしだからと言って、同じ時代に同じ場所で過ごし、同じ仲間に同じ情熱を持った戦友に対して、私が歓送さえしないと思われるのは心外極まりない。次に会えるのは、もう何年後かさえもわからないのだ。3年後には帰国されるとのことだが、そのときには今度は私がロシアに渡っている可能性が少なからずある。札幌に舞い戻っている可能性もある。同じ大学というヤサで毎週顔を合わせていた時代と異なり、それぞれ別の生活を持つようになってからは姿を見ることさえマレになるのだ。敵だったからこそ、会わなければならなかったのだ。歓送ぐらいしたって罰はあたるめえ。


 そして歓送会の副次的な恩恵として、卒業式以来2年以上会っていない後輩と再会し、中には途中で部を去り、そのまま4年5年と会っていない人間の姿を目にすることも出来た。皆、変わっているといえば変わっているし、変わっていないないところは変わっていない。テーブルで変態性愛についての講釈なんぞ垂れたら、「部に戻ってきたという感じがする、このヤバさ。いい」としみじみつぶやく後輩もいた。そろそろ子供が産まれるという先輩もいた。すでに父親になっている後輩もいた。仕事がうまくいっている奴、そうでもない奴、まだまだ未知数な奴。さまざまだ。
 監督の事実上の引退(本人は、そのつもりはないとは言っているが)は、私にとって大学と部という時代が私にとってすでに終わっていることを改めて象徴づけた。こうした、OBも主体者たりえる会合はともかく、大学に顔を出して、学食や体育館という部の日常の場に足を踏み入れることはますますなくなっていく。しかしそれでも、今後も同じ大学時代を過ごした人々との関係は、例えどんなに小さくとも保っていきたいものと再認識したものである。


 しかし顔を見たくもなかった奴もいた。私には敵と敵以外の二種類しか知己はおらず、他者が私に対して持つ評価も「無関心」を除けば、「ひどく敵対的」「なかなか友好的」の2つしかない。だが、今日この日に於ける経験だけでさえも、もう面も拝みたくねえと思わせる奴はいるものだ。大学時代から孤立していた、OBになってからもなけなしのカネと時間を使って大学にしばしばやってきて、その度に現役部員に内心白眼視されているような奴について、今更どうこう述べることなど醜悪な行為でしかない。が、それをわかった上で書く。
 今日の1次会は、監督自身が号令をとる短期的には最後の稽古であった。飲み会は2次会という位置づけである。その稽古の前、■■の野郎め、私に「まさか今日見学なんかしねーだろうな」と言いやがった。どういう意味だ。見取り稽古は、手足を動かす稽古よりも賤しいものだと言いたいのか。「自分だけ楽をする狡猾な奴」と言いたいのか。もし私が卒業してからも毎日稽古場に入り浸って見物だけしているのならばまだしも、監督の歓送稽古に見取りとはいえ参加したことが、そんなに責められるべきことか。私は紳士だから無視したが、未だにはらわたが煮えくり返る。
 第一、稽古を「見物」したことが責められることならば、なぜ私だけ責める。同じく見取り稽古をしたべーやん(仮名)を責めない。稽古に参加しないのが賤しい、卑怯者の所作というのならば、二次会からやってきたГ先輩や魔人先輩、.32グラム氏、Wild氏(いずれも仮名)いった他の連中をも否定することになる。なぜ彼らを非難しない。「見取り稽古」が「手足を動かす稽古」よりも劣るだの、楽をしてズルいだのというのは、何年間も部にいて稽古人を名乗った人間の発想か。


 私はちょっとした雑用をしただけだが、歓送会には準備段階からかかわってきた。贈呈品のナイフ選定と購入、写真撮影、写真編集、デジタルプリント、発送作業と、それなりに時間と労力と精神力というコストを支払った。まだまだ面倒は続く。そんなこと誰にも誇らないし過剰評価してもらいたくもないが、奴に嫌みを言われるような筋合いはまったくない。
 あいつはかわらない。年を食ったマシになったかと思ったが、全然かわらない。唾棄すべき、切り捨てるべき人脈だ。まったく。




 最後に。中大から二次会会場へと向かう途中、モノレール駅で撮影した迷惑防止ポスター。
 なかなかいい。どこぞの漫画家でも動員したのか。これには皆、かなりの反応を示しておった。


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