「住まなきゃわからないドイツ」
熊谷徹著、新潮社、1997年
NHK特派員を経て、フリージャーナリストとしてドイツに住み続ける著者が、ドイツの生活から社会情勢までを興味のままに描くエッセイ。著者が早稲田の政経を出てNHKに入社したジャーナリストだと聞くと、生真面目な堅物か頭の切れる秀才というイメージが先行するかも知れない。が、幼稚園時代から嗜んでいた漫画描きの特技を活かし、ひょうきんなイラスト付きで日常的な疑問や驚きを描く、親しみやすい一冊である。だが、さすがはジャーナリストだけあって、ただ見た聞いた驚いたと書き並べるに終始せず、卑近な出来事から社会情勢や歴史的背景を導き出しており、ドイツに対して調べてみるキッカケにもなりそうである。
本書の中からいくつか印象に残った点を上げてみる。
閉店法
ドイツの小売店には、閉店時間を決めた閉店法なる法律がある。この法律によると、1996年11月までは閉店時間が次のように決まっていたそうな。平日は木曜以外18時まで、木曜は20時半まで、土曜日は14時まで。これより遅くまで営業していると警察に逮捕されて、罰を喰らうことになる。
私はこの法律に衝撃を受けた。閉店時間を決めることによって、小売店従業員のプライベートを保証するというのだ。そもそも残業などという概念がないドイツに於いて、小売店だけは一般サラリーマンよりも長く働くことになる。その格差を是正するための閉店法である。
この閉店法での精神を知ると、日本の労働事情と比較したくなってくる。日本の会社では、帰宅するのが一苦労である。クソ忙しいときならばともかく、自分の仕事が一段落ついた場合でも、上司や先輩がまだ残っていると帰りにくいものだ。たとえ自分のその日の仕事をすべて片づけてしまっていても、早く帰ると「こんな時間に帰るのか」「まだ誰それがいるだろう」などと嫌味を言われ、さらには「**の奴は、いつも*時になったらすぐ帰る」などという風聞まで立ちかねない。例え自分の仕事を完璧に始末していても、帰ることそのものが罪悪であるかのような扱いである。私がいた会社では、何をどう間違ったのかヒマな時期は、仕事などすでに片づいているのにもかかわらず、放課後の高校生よろしく仕事とはまるで関係ない雑談を延々と続けていたものである。すでに仕事は誰もやっていないのにも関わらず、早く帰る奴はなぜか非難された。だからこそ、皆帰るに帰れず、そして自分よりも早く帰った者を叩いて、安心を得ていた。くだらないことだ。
仕事で遅くまで残るのは、それはそれで1つの労働スタイルだ。残業のないドイツよりも、日本の方が所得水準は1.5倍高い。休みと給与、どちらが大切かという問題であって、どちらがいいかわるいかという問題ではない。だが、理解できないのは、必要のない残業や居残りである。私が我慢ならないのは「帰れないこと」そのものではなく、どういう場合に残るべきか否かが不明瞭なこと、どう考えても非生産的で法的根拠もない居残り(残業でさえない)をしなければ責められることである。それを考えると、被雇用者の帰るべき時間を雇用者が侵害しないように、国家が法律で小売店の閉店時間まで規定するドイツは、すばらしい社会のような気がしたものであった。「阿吽の呼吸」「以心伝心」「場の空気を読む」といった、多数者ないし上役の意思を酌み取るようなあいまいなことを強いられるのは苦痛だ。職場は契約関係のみで事が運ばれるべきだ。
もっともこの閉店法は利用者には当然不評で、いわゆる規制緩和として許される営業時間は長くなったそうな。EU域内域外から小売業も新規にドイツ進出をしてくるであろう昨今、さらなる規制緩和を求める声は高まっていることであろう。が、「仕事があってこそ、プライベートがある」という日本とは根本的に異なり、「仕事とプライベートとは、まったく別物。言うまでもなくプライベートのための仕事であって、人生にとって仕事とはそれ以上ではない」なドイツでは、例え閉店法がなかったところで、深夜まで従業員を長期労働させる深夜営業のスーパーやコンビニエンスストアのようなものは不可能かも知れない。また、客がほとんどいなくても多大なる電力を使って照明を使い、ほとんど荷台が空のトラックを四六時中走らせるような小売業の長時間営業を、環境意識の発達したドイツ人が受け入れない可能性もある。
閉店法1つで、ドイツ人の労働意識だけに簡単に結びつけるのは性急だが、個々人の時間を守るために国家が営業時間を規定するなどという発想が産まれうる土壌はすばらしい。くだらない皮膚感覚が蔓延り、仕事の進み具合よりも上役や同僚の顔色を窺わないと、家族のもとに帰ることでさえ犯罪のように見なされかねない日本が、いかにも前近代社会のような気はしてきた。少なくとも私にとっては、ムラの形のない規範に依る不明瞭な人治主義の日本よりも、厳格な法と契約関係によってやるべきことが明確になっている法治主義のドイツの方が、住みやすいかもしれない。何をするかしないかではなく、なにをすべきか不明確な社会は生きにくい。
はじめに理屈ありき
日本では「和」だの「場の雰囲気」だのといった「状態」に価値がおかれ、それを保つことが美徳とされる。もめ事があったときにはとりあえず譲歩して、自分が堪えてでもその場を収束させると「場に配慮している大人」と見なされる。が、ドイツでは違うらしい。徹底して自分の立場と正当性を通す。譲歩や沈黙は、屈服であり、あるいは自分の非や劣等、相手の正当や優越を全面的に認めることでもある。
下手に謝れば、本来は自分が悪くないことでも賠償や補償を求められかねない。本書には載っていないが、日本人がドイツで車に轢かれて、「自分は悪くない、お前がフラフラしてるから悪いんだ」と怒鳴りつけてくるドライバーに対して「すいません」と反射的に謝ってしまったがために、「車へ意図的に当たった自殺志願者」として逆にドライバーに車の修理代と精神的苦痛に対する賠償金を払うハメになったという有名な話もある。だからこそ、クッションのための形式としての謝罪などなければ、相手の痛みや損害に気を払うことなど二の次で、何よりも先に自分の立場と正当性の主張が為される。そうしなければ、表面だけ「和」を保って内心忸怩たる思いを募らせるだけの日本とは違い、全面的な闘争の連続のこの社会では叩きのめされてしまう。
こんなドイツは、日本人には疲れる社会と言えるだろう。「相手にはどうせわからないから、自分の正しさはわかる人にはわかってもらえるから」と主張を放棄することさえ許されない。放棄すれば、他者の正当性を全面的に認めたことになってしまう。気を緩めるヒマがない。だが、私にはこれもまた、魅力に感じた。
私は黙らなければ、必要のない謝罪もしない。非社交的な私は場所によっては寡黙で、どうでもいいことは闘うのが面倒くさいから従ったりもする。が、何か押しつければ断れないカスと思ったら大間違いだ。呑めないことにYESとは決して言わないし、主張すべきときには相手を叩き殺すぐらい勢いで自分の正当性を主張するとともに、相手の正当性をも追求して突き崩す。いくら日本と言えども、出来ないことを出来ると言ったり、下手に非を認めたりすれば、責任問題になる可能性がある。責任を追及されなくとも、自分の非ではない事柄から自分の能力や見識、人格を低く見られるデメリットも看過できない。私には「和」とかいう妄想よりも、自分1人の生存の方が当然大切である。また、黙ることによって誰もリーダーシップも責任を明確に持つこともないまま、なんとなく集団がどこかに流れていくことの危険も怖い。だから私は必要なときには黙らない。
だが、日本では時には、主張そのものが罪悪と見なされる。あるいは、ただ屈服させ、謝罪のようなコトバを言わせれば、自分の優越と相手の劣等とを確認できて、序列関係に於ける指導や管理といった責任を果たしたかのような気になるアホは少なくない。わかりやすい例を挙げると、私の現場研修時代にはありもしないミスで新人を責め立てて、謝罪させれば教育担当としての責任を全うできると勘違いした新人教官がいた。同期は誰もがこの新米教官を嫌い、憎み、軽蔑していたが、ただ「はいはい」言って、責められれば謝り、沈痛に顔でも見せてやればそれで済むことを知っていた。要するに、「新人をヘコませてやれば、仕事の厳しさがわかるだろう。とにかく難癖つけて何をやっても認めなければ、新人は自分の無力を思い知り、謙虚になるだろう」という軍隊なんかではおなじみの教育方針のつもりだったらしい。だが、教官も新人。よくわかっていなかった。身に覚えのない、しかも責任問題になりかねないミスを責め立てられて、黙っているほど私はバカでも従順でもなかった。
「お前、こんなことしてくれてどうしてくれるんだ」と責め立てられて、「すいません、私が間違っていました。以後気を付けます」とでも言えば、教官はそれで満足して済んだのかもしれない。が、適正な操作をしたのにも関わらず100万円する機械が私のせいで完全にぶっ壊れたかのように言われて、その「非」を認めるわけにはいかなかった。試用期間に大きなミスを犯したことになればクビになりかねないし、クビにはならなくても始末書でも書かされたら今後どんな影響があるか。この程度の、「悪くないことを謝らされる屈辱」に怒り狂うほどは、私も青くはない。だが、屈辱よりも架空のミスを認めることによる責任と評価の方が何よりも怖かった。普段寡黙なくせに、いざくなったら楯突く私は、さぞかわいげのない奴に見えたことであろう。かわいげだけならばまだしも、社会人として人格に欠陥があるぐらいのことも思われたかも知れない。
結局のところ、日本人が言う和だの場の雰囲気だのというものは、タテの序列で上に位置する人間に対して、闇雲に従属することによって維持するものらしい。ここで反論や主張をする人間なんかは、クズと見なされる。まあ、謝れと言われて謝り、お前が悪いと言われてその通りだと言えばそれで済むのならば、それはそれで安定した住み良い社会かもしれない。だが、世の中そんなに簡単ではない。いつ、そうした「譲歩」が具体的な責任問題になるか、悪い評価という実際的なデメリットにつながるか、わかったものではない。
日本でも、闘わなければならないときはある。だが、闘うべきときに闘わなかったがために、不当な扱いを受けることもある。闘ったがために、人格的な欠陥がある大人げない人間と見なされることもある。結局、なんだかわからない社会が日本だ。行動に際して、客観的な基準がないのだ。
しかし、ドイツはいつでも闘うのがスタンダードだ。それがいいかわるいかはわからない。が、少なくとも、闘うべきかどうかといったくだらないことに神経をすり減らし、しばしばトラブルや理不尽に泣き寝入りすることが大人の姿勢とされる日本よりも、闘うことにが当然とされている社会の方が感情的なわだかまりは軽くになるような気はする。
別に本書はドイツを賛美するものではなく、閉店法や闘う文化にも、著者は辟易しつつ書いている節がある。しかしそれでもなお、日本とは違った点に私が魅力を感じるというのは、私がそれだけ日本に辟易しているということか。それともどこの社会に居ても、違った社会を見ればそれが自分のいるところよりもよく見えるというだけのことか。それはわからない。
しかし、こういった外国社会(特に欧米)の紹介エッセイを読んで、「ドイツはすばらしい」と思わないまでも、「日本よりはマシだ」と思う日本人は結構いるのではなかろうか。日本はなんだかんだ言って豊かな国で、平凡な市民がかなりの生活を享受できる。日本の大学生や若年サラリーマンが持っているような精密電気機器なんかは、ドイツを含めた西欧の人間はあまり持っていない。猛烈に遅れているようで、環境対策や各種差別対策なんかも、部分的にはかなりのレベルの政策を打ち出していたりもする。アホ学士が溢れ、国民総アホのような気もするが、欧米に跋扈しているような底なしのアホは滅多にいない。しかしそれでも、日本は労働や生活に於いて、あまり魅力ある国ではない気がする。少なくとも私は日本に魅力を覚えないからこそ、こうした外国紹介本を読むのであろうか。