「ボウリング・フォー・コロンバイン」(英題:Bowling for Columbine)
Michael Moore監督、アメリカ映画、2002年


 反ブッシュ・プロパガンダ映画である「華氏911」はともかくとして、この「ボーリング・フォー・コロンバイン」を観ることには抵抗があった。なぜならば、私は自衛のための武装を当然と見なし、個人の火器所有を肯定する立場にあるからだ。恐らくは銃器規制促進映画であろう「ボーリング」は、観ると必ずや不快になるであろう・・・とは思っていた。ちなみに、今回観たのは必要があったためであって、好きこのんで観たわけではない。


 「ボーリング」は、基本的には銃器規制を求める雰囲気を持った映画である。しかし「個人所有の銃が多いから、人殺しが多い」のような簡単に話を片づけず、そういったイメージとは異なる統計も出しているところには、好感が持てた。つまりカナダは(アメリカほどではないにせよ)銃が広く普及しているのにも関わらず、銃による殺人はアメリカよりもずっと少ないという統計だ。ヒステリックな銃器規制論に終始せずに、この違いに着目したのはわるくない。


 銃があるから銃器犯罪が起きるのは当たり前。だから銃をなくせばいいというのは、自動車を無くせば交通事故を撲滅できるというのに等しい単純すぎる発想だ。問題は、なぜ銃があるとそれを人殺しに使うか、である。NRAの文句ではないが、意思を持って殺人を犯すのは銃という道具ではなく人間である。その点を忘れずに、銃所持が難しい日本や英国は別としても、その気になれば銃を買えるカナダやドイツや、フランス、それにアメリカより銃器法がルーズなオーストラリアと比較してもなぜ、アメリカだけ年に1万人以上が銃殺されるのかを解析しようとする姿勢そのものはわるくない。さらには安易に、暴力映画や暴力ゲーム、伝統的家庭像の崩壊、退廃的な前衛音楽なんかのせいにしないのには感心した。


 正直なところ、論理の飛躍や粗野な編集は好きになれないし、アイロニーが過ぎる。Kマートの弾薬販売への反対行動や、ヘストンへの射殺された少女の写真を持っての突撃取材に、どれほどの意図があるのかもよくわからない。ただの思いつきではないのか。所詮キワモノ映画という気がする。ドキュメンタリーなどと言えた代物ではない。が、時々みせる問題に対する着目点はそうわるくない。悪者を決めつけていやがらせ同様の突撃取材をするのは感心しないが、「アメリカの殺人が多いのは銃によるものである」と断言してはいないのには好感が持てた。いや、断言していないだけであって、「雰囲気」を醸し出してはいるのだが。それもセンセーショナルな、どうでもいいやり口で。


 ちなみに私は、この「ボーリング」で2つの点に衝撃を受けた。それは、ガキがガキを殺した悲惨な事件でもなければ、ヘストンの「過激な思想」でもなく、米国国内の経済格差や多文化主義への非寛容さでもない。ムーアの悪辣な編集でもなければ、ヘストンの痛々しい姿でもない。


 1つは、「フルロードしているであろう.44マグをこめかみに向けてコックする」ようなイカレポンチが、ガンジーも知らない無知蒙昧なアホだということを、ムーアが作中では大きく扱わなかったことである。もし私だったら、自分とは異なった思想を持ち、しかもそれが気に喰わない意見で、さらには実銃を弄ぶような異常者が無知蒙昧であるならば、必ずやそれを喧伝してことであろう。クズだからこそこいつは無知で、無知だからこそこいつはいかれている、ぐらいは言ったかもしれん。しかしムーアは、彼がガンジーも知らないことに大きな衝撃を受け、DVDの特典映像ではこのことを「悲惨なこと」と表現までしているのにもかかわらず、だ!
 「ミリシャに関わるような銃異常者は、かくも無知でダメな奴らだ」ぐらいのニュアンスを漂わせることはできただろうに。思想性やいかれ具合と、無知を安易に結びつけないのになぜか。カネ持ちではないかもしれないが、マイケル・ムーアと同じ年齢で、同じ教育を受けた男だ。無知だとしても、「教育機関や社会の不備の犠牲者」ではなく、本人がアホで怠惰なだけであろうに。どういう目論見があって、この「悲劇的な事実」に対してムーアは大きく取り扱わなかったのか。非常に気になる。悪辣なイメージ操作がお得意のムーアが、なぜ軽く流したのか。


 2つ目は、私がムーアの言うところの「急迫観念に満ちた白人」に相通じるところがあるような気がしたところだ。私は臆病で弱い人間だ。だから自衛の必要を常に感じている。私は決して、ムーアが言うように「自衛とは、危険などどこにもないのに、常に怯えている奴らのやることだ」とは思わない。強盗や暴漢が現実に存在している以上、例え犯罪被害に遭う確率が交通事故や癌で死ぬ率よりも遙かに低いとしても、備えてわるいということはない。ただ、私が何を想定しているかが問題だ。私はただ、異質な他者に脅威を覚えているだけなのではなかろうか。
 ムーアは言う。それなりにカネがあって社会の中心街道を歩いている自負を持っているアメリカ白人が、黒人をはじめとした他人種、モスリムなどの異教徒、貧乏人、同性愛者、さらには変わった趣味を持った「何考えているかわかんない奴ら」が、明日にでも粗暴犯罪やサイコ犯罪を犯さないか恐れている。徒党を組んで街を襲撃しないか恐れている。中層以上の白人は、そんな不安を漠然と大した根拠もなしに抱いていると。グラスナー教授もそうした恐怖について説く。私もそんな傾向があるかもね。


 私は外国人にも、同性愛者にも、異教徒にも、異なったマニア趣味にも、それほど非寛容なつもりはない。明日イスラム原理主義者が乗っている飛行機を落とすとも、外国人グループがATM帰りの財布を強奪するとも、アパートの隣室に住んでいるマニアがサイコ犯罪を犯すとも、そんなに深刻には恐れない。そんなことよりも私が恐れているものが存在する。それは私が言うところの「無知な人間」である。「多文化主義に非寛容な人間」と言い換えてもいい。思いっきり極限すれば、「私の存在を許容しない人間」と言えるかもしれない。
 はっきり言って、よくわからない。だが、私は私の言うところのこの「バカ」がいつ攻めてこないか、電車の中でインネンをつけてこないか、道ばたで殴りかかってこないか、結構マジに恐れている。その「バカ」なるものは何かはよくわからない。ただ私が漠然と妄想するのは、「何も知らなくて、自分と他人が違うことも知らなくて、技能も能力もなくて、『魔術の森』に精神があり、つまり迷信深く、粗野で教養がなく、貧乏で下品なクズ」・・・といった像である。


 そんな奴がどこにいる!?窓を開けても、なかなか見あたらない。あいつはバカっぽいからあいつか、これは賢そうだから違うとか、そんな風に判定できない。なにしろ私の妄想なのだから。日本でも、「青少年に麻薬が蔓延している。こういう奴らがいつ襲ってくるのか・・・」「最近のガキは何をするかわからない。小学生でさえ人殺しをしかねない」「外国人が銃を持って、はした金のために襲ってくる」などとマジで恐れている連中はいるが、そうした人々と私も、そして「恐れるアメリカ白人」もそう変わらない。
 統計資料や科学調査に目を通したわけでもなく、自分自身が「犯罪の蔓延」の現場を頻繁に目撃したわけでもないのに、なんとなく「危険が蔓延している」「ヤバイ奴らが跋扈している」と思いこむのは異常だ、とグラスナー教授は繰り返し説いていた。この説は以外に古く、19世紀にはCesare Lombrosoも指摘している。アニメ以外テレビを付けず、経済新聞の企業情報と国際記事以外は読まない私には、「マスコミというウィルスによる恐怖の感染」は少ない。私はマスコミにあおり立てられた恐怖ではなく、自分で勝手に「自分とは違った異質な他者」という人間集団が存在し、そいつらがそのうち攻めてくる、襲ってくるのではないか、と妄想を抱いているのである。


 私のこの恐れは、肌の色や生活習慣なんかで他者を差別するのと比べて、マシなのかよりひどいのか。それはわからない。ちなみにただ歩いているだけで突然私に殴りかかってきた異常者に出くわしたことが、一度ならずある。どういう人間かはわからない。私はこいつらは「バカ」に違いないとしているが、もしかするとすごく知能の高い人間かもしれないし、品位ある生活習慣を持つ金持ちの子弟かもしれない。
 大学時代に電車の中で、ただ隣に立っていただけの私に突然立て続けにヒジ打ちを喰らわせてきた奴は、背広とコートを着て地味なメガネほかけた、マジメそうなサラリーマンだった。まあわからんものである。だが、私は「世の中みんな敵だ」「誰が襲ってくるかわからない」などとは(たまに恣意的に口にはするが)本気で思ったりはしない。敵はすべて「バカ」なのだ。「バカ」という人種がいて、「彼ら」に警戒していればそれでいい・・・そう考えた方がずっと安心できる。ヒジ打ちのサラリーマンはきっと、「たまたま」頭がおかしくなったホワイトカラーに違いない、として例外視してしまったりもする。まあ私も自分勝手に恐れて、自分勝手に安心する理由を見つけているクズだということだ。


 世の中の企業家、権力者といった金持ちが、「恐怖」を蔓延させることによって、利益や体制の保存をしているという着想そのものはそれほどわるくない。まあムーア自身もその恐怖の伝道者をやって儲けている「悪辣な金持ち」なのだが。その程度の男が指摘する「怯えるアメリカ白人」に自分を見出してしまったというのは、やはり衝撃的なことでしたよ。


戻る