3年ぶりに、自主WRへ
2004年11月13日(土)
大学5年次には、よく「自主WR(ウォーキングラリー)」と称して高尾山に登っていた。WRとは、中央大学当局と学生団体が共同で主催していた行事で、相模湖をスタート地点にして高尾山を登って、高尾山口側に下り、それからは浅川に沿って八王子市内を長距離歩いた後に中央大学多摩キャンパスまで至るというもの。私が大学時代所属していた部では、私が1年次だった1997年から毎年参加していた。さらには年1回の公式WRだけでは飽きたらず、私は単独で相模湖から高尾山口までのコースを歩いたものであった。それが「自主WR」である。
ちなみに2002年以降は在中央大でウォーキングラリーは行われておらず、中央大学から高尾山口までのハイクに変更されているらしい。高尾山が一番面白いのに。
それはともかくとして、2001年11月24日を最後に自主WRは行っていない。大学卒業後に数度、高尾山口から山頂に登ったことは数度あるが、それは平凡すぎて正直物足りない。私はいつまで関東にいるかわからないが、とりあえず関東に住み、ヒマもある今のうちに自主WRを再開してみることとした。
2004年11月13日、12:39:38
JR高尾駅にて甲府行き各駅停車に乗り換え。ボックスシートだ。相模湖駅は高尾駅の1つ先なのだが、東京方面からの列車はほとんどが高尾止まり。この辺まで来ると1駅の間隔が広く、しかも山あり谷ありの過酷な地形なので1駅と言えどもとても歩いては行けない。歩くとそれ自体がWRになりそう。京王多摩センターから京王堀之内まで歩くようにはいかない。
そう言えば、自主WRではいつも高尾駅で乗り換えの列車を待っていたような。
2004年11月13日、13:00:42
13時になってようやく相模湖駅到着。大して変わっていない。
2004年11月13日、13:01:32
自動改札はSuica対応。大学1年の頃は、磁気式のイオカードがここいらで使えたかどうかもあやしいのだが、ちゃんと設備投資が為されている。ちなみに大学1年次はWR参加の為に、当時大月在住だった同期のジン氏(仮名)宅に泊まったのだが、イオカードが使えなくて駅員を困らせた記憶がある。
2004年11月13日、13:04:42
2001年05月23日の第6次自主WRに於いて、同行した後輩の美津濃氏(仮名)が立ち寄った店。演歌が流れ、1.8リットル800円台日本酒が売られなどしていた店だったのだが、今日は定休日なのか、それとも閉店してしまったのか。
2004年11月13日、13:13:28
スタート地点たる相模湖公園に到着。幼い子供を連れた若い家族が、何組か来ていた。
そう言えば私も幼少期には、家族で割と規模の大きい公園に連れてきてもらっていたものであった。事業を起こしたばかりの父は日曜も祭日も関係がなかったが、たまに休みの日には、「動物園か、西港公園か」とどこに行くか選択肢を提示されたものであった。今考えたら釧路の西港公園はちょっと大きな滑り台と小山があるぐらいで大した場所ではなかったのだが、母親が弁当作って楽しみにして行ったものだ。などということを思い出した。幼いガキと若い夫婦は、このぐらいのカネのかからない休日がちょうどいいのかもしれん。
2001年06月03日公式WRにて
スタート直前の風景。公式WRでは相模湖に現地集合して、出発手続きをしてスタートするまでの間に、よくアホな服装に着替えて写真撮影などしていたものであった。
2004年11月13日、13:17:42
ここは2001年の中程まではコンビニだった。自主WRでは、相模湖を出てすぐにここに立ち寄り、飲料水とちょっとした食料を調達したものであった。だが、ここは2001年の秋頃には潰れて、釣り船屋の待合室に改造されてしまった。
2004年11月13日、13:19:08
3年も来ていないと、どこが変わっていて、どこがそう変わっていないのか区別がつかない。だが、あんな落石避けの覆いがあっただろうか?あったのに無かったと思い込んでいるのかもしれないし、思いだそうとしてみても、あったようにも無かったようにも映像が思い浮かぶ。
2001年08月27日第10回自主WRにて。
2001年当時の写真にここいらの景色が写っていた。当時はこの覆いを作る工事中だったようだ。まあ完成したのはもっと後なのだろう。ちなみにこの時の湖面が白いのは、台風で落ち葉や木っ端が大量に相模湖に流れ込んだため。
2004年11月13日、13:24:48
この覆いの名称は、「嵐山洞門」というらしい。帰ってから検索かけてみると、工事期間が「平成15年10月まで」となっている。去年完成したのか。どおりで記憶にないはずだ。
2004年11月13日、13:22:12
相模ダム。近くの案内板によれば、発電量は31000キロワット。一基で数十万〜100万キロワットに達する原子力発電の比ではないが、戦前に起工され、戦後に完成したことを鑑みれば、当時は重要な発電所であったのだろう。今現在とて、石油価格の高騰でディーゼル発電コストが高まり、原子力とてウラン資源の将来的な枯渇や廃棄物処理施設の未整備、プルサーマルのコストなど、先行き不安だ。そう思うと、電力を安定供給できるダム発電は、なかなか優れものかもしれない。
しかし私としては、このダムを見るとどうしても「電脳警察サイバーコップ」を思い出す。
2004年11月13日、13:22:34
ここは、大学時代仲間内で「古代遺跡」と呼んでいた場所だ。
1997年06月01日公式WRにて
このときに薄れた落書きが発見されたのだが、「のりピー」は1997年当時でもあまりにも時代錯誤な単語だ。
2004年11月13日、13:22:34
しかしさすがに今はまったくその痕跡も残っていない。
1998年05月31日公式WRにて
そしてもう1つの落書きが「ケンカ上等」。きったねー字。
2000年05月28日公式WRにて
一方これが2000年。まだ薄れてはいるが、ハッキリと「ケンカ上等」と読める。
毎年公式WRの度にここで写真撮っていたんですよ。5年分全部は載せないけど。
2004年11月13日、13:22:58
けれども今となっては、なんとなーく、「上等」の「上」の字が見えるかな、という程度。
その右の、よくわからん青い文様は健在。
2004年11月13日、13:23:18
そしてダムの上。ダムの上が歩行者用通路になっているのだ。
「電脳警察サイバーコップ」では、このダム上で格闘が行われていたものであった。いくら探しても写真が出てこないのだが、このダム通路には車止めのポールが立っていて、そのポールが「サイバーコップ」でも写っていたような気がしたのだが、それはもうなくなっているのか。
2001年06月03日公式WRにて
手すりの模様も変わっていない。だが、小屋のようなものはペンキでも塗られたのか、随分新しくなったような見える。2001年当時はひどくボロに見えたものであった。
2004年11月13日、13:23:54
「サイバーコップ」では、この送電施設近くでも格闘を繰り広げていた。
そして司令がここの地下に監禁されていたものであった。
2004年11月13日、13:26:16
ダムを超えて、田舎道を歩く。
落ち葉が堆積して、この道にはほとんど歩行者などいないことを示している。
2004年11月13日、13:30:10
コースはこの後道路を横切って左側に渡り、そしてさらに左側に下りていくことになっている。だが、そのちょうど左折地点に見慣れない真新しい建物が。そこには、私の在学時、何に使われているのかわからない、廃屋のごときコンクリート製の建物が立っていた。そして2001年にぶっ壊された。あれから3年。更地にした以上は、何か建っていても不思議ではない。
2004年11月13日、13:30:56
ちなみにこれは、迂回路を示した標識。
2004年11月13日、13:30:56
何かの看板を白いペンキで塗って、そこに赤いマジックで書き込みした標識。読みにくいが、内容はわかっている。弁天橋は左という意味だ。カメラの小さな画像をトリミングしたので読みにくいのではない。この字がもともと読みにくいのである。
まあここで左折してもよかったが、建物の招待を探るため、もうちょいと前進することに。
2004年11月13日、13:31:52
養護学校だった。あとで検索をかけたら、主に肢体不自由な人のための学校らしい。新しいだけあって点字標識からプールに至るまで、設備に充実している。そこでふと疑問に思ったのだが、ただの学校でも駅からかくも遠く、橋ありダムありの道のりはあまり通学路としてふさわしくない。だが裏手にはステップのないバス乗り場が整備されており、バス通学専用らしい。
都市の喧噪とは遠く、悪漢悪童も徘徊していないこの立地は、環境としては優れている。
2004年11月13日、13:33:14
さて、ここから下りだ。弁天橋方面へと急な坂道を降りていく。
下りは心肺への負担にはならないが、足腰、特に膝に負担がかかる。滑ってコケる可能性も出てくる。そのため慎重に下る。
2001年05月23日第6次自主WRにて。
ここの苔を削り取って、なにやらラテン文字で落書きがしてあたったのだが、今はもう、苔に覆い隠されて文字は消えている。
2004年11月13日、13:33:52
ここまで来ると、登ってくるハイカーとすれ違うようになってきた。
もしかするとこのコースは崩落などでなくなっているのかも、と思っていたが、まだまだハイキングコースとして存在しているらしい。
2004年11月13日、13:35:40
弁天橋と休憩所が見えてきた。
2004年11月13日、13:36:46
ここの休憩所はまだ営業していたようである。
大学時代の自主WRでは、閉じている場面の方が多かったような気もするが、それは早朝や平日だったからかもしれん。土日の昼過ぎという時間ならば商売になるだろう。
2004年11月13日、13:36:34
弁天橋。ダムを放流する関係上、吊り橋である。
ここの上から釣り糸をたらす釣り人が数人。
昔からここでは釣り人を見るが、何か釣れるのであろうか。
ま、釣り人が来るからこそ、休憩所も商売になるのかもしれない。
2004年11月13日、13:36:42
橋を渡ると、今度はあの崖を登る。
崖といってもちゃんと道になってはいるのだが、WR最初の難関である。
2004年11月13日、13:37:04
弁天橋の上から撮影。
川は何も変わっていない。
まあ当然か。
2004年11月13日、13:38:30
弁天橋を渡るとあるのは、この小屋。誰かが生活していて、火を焚いたり、洗濯物が干してあったりするが、なんの小屋なのか未だによくわからない。野外生活を体験するための小屋なのか、それともハイカー相手に商売をしているのか。
2004年11月13日、13:39:06
ただ気がついたのだが、洗濯機があるね。水道と電気が来ているのか。水道はどうか知らないが、電気は来ているのであろう。いや、蓄電池やガソリン発電機を使っているのかもしれないが。まあ昔から洗濯物の山はよく見かけたが、洗濯機ぐらいないとそうそう洗濯も出来ないわな。
2004年11月13日、13:39:24
それに少し進んだ橋には衛星アンテナが。ケーブルは小屋まで伸びていた。洗濯機はともかく、なぜに衛星放送まで?あの小屋にテレビを置いて、風雨でぶっ壊れないかね。もしかすると、住んでいるのか?それとも、何かの業務上必要で詰めているだけなのか?わからん。
2004年11月13日、13:40:02
さて、ここからが心肺に負荷がかかる。
公式WRではこの段階でもう苦しくなったものであった。
だけれどもこの崖を登ると気づく。まだこの登り坂が高尾山でさえなかったことに。
確かに3年もブランクがあって、特別何かを運動していたわけでもないので、WR初参加の大学1年次並に心肺に応えるかと思った。だが、まだまだこの段階ではヘバらないようではある。一安心。
2004年11月13日、13:44:16
もう弁天橋がこんなに小さい。
ちょっとした崖と言えども、意外に高いかもしれない。
2004年11月13日、13:45:50
そして崖を登ると、そこはただの住宅地。WRにはじめて参加した者は、まだ高尾山に登ってさえいなかったことに気づくわけだ。
登ってきた道の彷徨には、「キケン入るな」「子供の1人での立ち入り厳禁」などの札がかかっている。まあ小学生が1人で、あるいはガキ同士何人かで遊び回っていると、危ない場所かもしれんわな。
2001年06月03日公式WRにて
この便所の前で、伸びきった隊列を立て直していたものであった。大学時代の部は私の1年次には全部員合わせて10人いるかどうかだった(さらに2年前になると全部員が3人だったという)。それが年々倍増していき、この2001年には何十人という規模になっていた。WRに全員が参加したわけではないが、これだけ人数が増えると体力差が大きくなり、この崖ひとつでも随分と先頭と後尾が開いたものであった。
2004年11月13日、13:46:46
住宅地を突っ切り、高尾山へと向かう。
写真で見ると低い。実際に山としては低い。
だけれども、普段家から最寄り駅までしか歩くこともなく、さっきの崖で息も絶え絶えになっていた人々は、あの山を見て絶望したことであろう。
2004年11月13日、13:47:54
こんなマンションあったっけ?ダメだ。新しいものを見ると、すべて昔はなかったような気がしてくる。もっと近づいて定礎でも見れば建設年がわかるけど、そこまでする必要はなかろう。
2004年11月13日、13:50:26
この看板は確実になかった。けれども、この看板はここそこに貼られていた。ここいらも物騒になってきたということか。それにしても「自警団」という響きはよい。
都市ではなく、郊外か村落の伝統的コミュニティにしか発生し得ない排他的治安維持組織。住民が余所者に神経をとがらせ、何かあやしい奴が入ってきたらコルトの.45オートや散弾銃を持って取り囲み、自警団リーダーや村長の即決裁判でリンチにするとか、考えただけでシビれるね。けど、実際そういうことは西部劇の話でなくて、現代のアメリカでも起きていることだから恐ろしい。
ま、ここの住宅地で自警団なるものがなにをやっているとも思えないが。
2004年11月13日、13:50:38
近所のガキが道行くハイカーに菓子を売っていた。MP3プレーヤーでロシア語のテキストの朗読を聞いていた私は、彼らの「お菓子買ってくださ〜い」との声をほとんど聞き取れなかった。「レニングラードはソ連邦に於いて、最も美しい都市である(Ленинград - это самый красивый город в СССР)」とかロシア語で聞いていたもので。
実際問題として菓子は買わなかっただろうけど、あからさまに無視するように突っ切ってしまったのは、通り過ぎてから気づいて少し心が痛んだ。それにしてもガキが商売をしているとは、ハイカーがよほど多いということか。
2004年11月13日、13:51:16
高尾山(正確には城山)へ登る入り口の茶店は、ハイカーで賑わっていた。こんなにこのハイキングコースは人気だったのか。確かに大学時代に自主WRやったときにもすれ違う人々はそれなりにいたけど、これらの店々がそんなに繁盛しているようには見えなかった。今日が土曜で秋だからか?それとも近郊での低山ハイクがにわかに流行だしたのだろうか。
2004年11月13日、13:52:04
そして城山へと登り出す。さっきから「高尾山」と書いているが、まずは城山に登ってから少し下りて、それから高尾山頂に行くコースなのだ。このコースは普段着でも登れる簡単なハイキングコースだけれども、高尾山口方面と違って道が整備されていない。
石や木材でところどころ補強し、プラスティックのブロックで階段を作っている場所もあるので、整備はされているのだが・・・慎重に歩かないとすぐに足を滑らせてしまう。もっとも1997年当時はそのプラスティックブロックや石の補強さえもほとんどなかった。それらは年々整備されてきたものである。さて、今はどうなっていることか。
2004年11月13日、14:08:46
とりあえずの休憩所。
入り口から15分しか経っていないけれども、ここまで来るのも普段鍛えていない人間にとってはかなりの負担になる。ペブシの看板を貼り付けたこの休憩所は、1997年当時から廃墟だった。ここまで商品を運ぶには人力しかないし、電気を引くのも大変だ。それにひここまでやってくるハイカーは、高尾山口からケーブルカーで高尾山頂まで行って帰ってくる人々に比べれば、そう多くはない。だから商売にならなかったのだろう。
だけれども、このちょっとした広場は一休みするのにも、分散した隊列を少しばかりまとめるのにも役だった。
2001年05月10日の第1次WRにて
ここのベンチは一休みして心肺を落ち着けるのに役だった。
2004年11月13日、14:09:00
だがすでに、ベンチもゴミ扱いですか。
2004年11月13日、14:13:06
1口2口ドリンクを飲んで、ほんの数分休んでから出発。休みすぎていいことはない。
ここからは石と木材で補強された道だ。丈夫な反面、これがまた滑りやすいし、滑ってコケると大変痛い。コケたことは多分ないけど、ここで腰でも打って歩けなくなると、いくら近郊の低山と言えども大変なことになる。今日はハイカーが多いから発見は容易だが、どうやって下りるかという問題も残る。
2004年11月13日、14:13:32
携帯電話はcdmaで3本立っている。昔は圏外だったような気がするが。「昔」といっても、いつの段階のことかは特定できないけれども。
ところで、デジカメのDimageXtの時計は、2分近く進んでいるな。
2004年11月13日、14:16:18
コースはあちこち崩れて、迂回路が出来ていた。
3年も立つと、地形も少しは変わってくるか。
2004年11月13日、14:18:08
森が開けた場所からの1枚。
雲の隙間から陽が挿すのを見て、「まるでアニメ映画の『AKIRA』みたいだ」としか思えない私は、なんと想像力が貧しいことか。
2004年11月13日、14:28:32
両側が崖の、細い通路を歩く。
いつもここを歩きながら思うのだけど、こんなヘボい崖でも、落ちたらただでは済まないよな。
2004年11月13日、14:28:54
登ろうと思えば登れなくもない・・・とは思う。落ちても、よほど変な落方しない限りは、死なないだろう。けれども、足を痛めただけでも登れなくなる。多分下も携帯は使えるし、ハイカーも多いけれども、身動きとれなくなったら助け出されるまでどれぐらいかかるだろうか。
2004年11月13日、14:41:04
写真で見るとすぐだが、この階段を上ればやっと城山山頂である。
ここまでの行程がキツい。逆に言えば、城山で少し休めば、あとの行程は楽なものである。
2004年11月13日、14:42:38
城山山頂到着。ここは広い休憩所になっていて、電話も電気も公衆便所もある。
2004年11月13日、14:42:54
少しは自分も写してみる。肌寒い11月だが、歩いていると汗が噴き出し暑くなり、途中で上着を脱いでTシャツ一枚だ。装備はSDオーディオプレーヤー、デジカメのXt、それに熊対策にOCガススプレー。あとは予備Tシャツ3枚、タオル2枚、セーター1着、ジャンバー1着。
ここで濡れたTシャツを着替えて、冷えるといかんのでジャンバーを羽織った。
2004年11月13日、14:43:40
ここでメシである。ジョグメイト(バニラ味)とアミノバリュー。
山に来るときぐらいしか、アミノ酸飲料もプロテインも採らない。平時に採ると健康を害する。
ただ、ひとつ失敗したのは、塩の利いたものを持ってこなかったこと。
甘ったるいスポーツ飲料ばかり飲んでいると、塩が欲しくなってくる。汗で塩分を失っていることもある。
2004年11月13日、14:46:58
というわけで、城山の茶店でおでんを買う。500円也。材料・燃料の運搬コストを考えたら、妥当な金額だろう。このカラシが脳天から鼻まで抜けるほど強烈で、疲れなど吹っ飛んだ。
ここの茶店でドリンク以外のものを頼んだのは、これがはじめてかも。
一服して(タバコを吸ったという意味ではない)、再出発したのが14:54:24。
12分も休んだのか。せっかちな私としては、休みすぎたような気がしないでもない。けれども、おでんなぞ食って、腹が落ち着くまで待って出るのもわるくはない。
2004年11月13日、14:56:28
城山から下る。今まで登っていて、下るのは気を付けないと膝を痛める。
私は慎重にゆっくり下りているつもりだが、いつもこのあたりで膝が痛くなる。
2004年11月13日、15:06:46
そしてなだらかな道が続く。
難所である相模湖から城山までの道のりを終え、一休みしてからこの道を歩くときが、一番気分が乗っているときなのではなかろうか。今では例え集団でも恥ずかしくて出来ないが、1997年と1998年の公式WRでは、皆で歌を歌いながら闊歩していたものである。
何を歌っていたのかはよく覚えていないが、「マジンガーZ」と「ムーンライト伝説」、あと多分「中大校歌」ぐらいは歌ったような。今日の私は、ロシア語と英語のリスニングに疲れて、音楽を流しながら歩いていた。音楽を流すと歩調が早くなってなかなかよい。
2004年11月13日、15:16:50
道が3本に分岐しているが、結局同じ所に出る。
一番楽そうなのは左だが、私は当然真ん中を行く。
結構長い階段があって、なかなかよい。
2004年11月13日、15:27:20
3本の道が合流すると、今度は石段である。
高尾山頂へ行くのならば、石段以外に選択肢はない。
石段に限ったことではないが、集団で行くと走ったり、競い合ったりするバカが出るから困りものだ。石段も坂道も、ゆっくりと深く呼吸しながら一歩ずつ歩いていけば、立ち止まることもなく全部登り切れる。どうしても心肺が苦しければ、あるいは足が上がらなければ、休んだっていい。どうも、「ゆっくり歩くこと」や「立ち止まること」が敗北が何かだと思っているかのように、とかく走りたがる奴と一緒に行くと、ペースを乱されるばかりではなく、転倒などのキケンがあり、膝や足の指などを痛めて行動不能になる可能性もあり、周囲の人間にとっても迷惑だ。
ということを毎回石段で思っていたが、3年たった今でも同じ場所で同じようなことを思うとは。
004年11月13日、15:31:32
そして高尾山頂。ここまで来ればあとは下るだけだ。
しかしここまで登って驚いた。あまりの人の多さに。
高尾山ってこんなに人気の行楽場所だっけか?
安くて手近ということで、高尾山が流行りだしたか?
だが答え多分、紅葉シーズンに求められるだろう。紅葉がキレイな時期は、老人も若いカップルも子供連れも、わりと高尾山に来るらしい。そして過去の自主WRでは人がもっと少なかった気がするのは、恐らくより早い時間に出発して、昼頃には高尾山口に抜けていたせいか。今回は昼過ぎに相模湖に到着し、夕暮れ時に高尾山頂にたどり着いた。しかも土曜。これは人が多いはずである。今度登るときは、もっともっと早く来なければ。
2004年11月13日、15:31:50
結構なにぎわいだ。この写真だとそう多くは感じないかもしれないが、歩くのも苦労するほどここそこにガキから若者から老人まで歩き回り、写真を撮り、茶を飲んでいた。
2004年10月23日の写真
日没後の高尾山とは大違いだ。
2004年11月13日、15:35:06
そして今度は高尾山頂から下る道も渋滞だ。
自分のペースで歩きたいのならば、やはり早朝しかあるまい。
2004年11月13日、15:44:38
境内も人で溢れていた。
2004年11月13日、15:47:38
多くの人々が、本格的な一眼レフから携帯電話まであらゆるカメラを向けていた地点から、私も同じようなものを撮ったみた。私のようながさつ者の野蛮人にはよくわからんが、こうした紅葉が人々を引きつけるのであろう。
2004年11月13日、15:55:52
サル園の前にあるプリクラマシン。
ちゃんと稼働している。
2004年10月23日の写真
夜間行ったときは「ロッカーにのれんをかけているだけか」とも訝しんだが、サル園の営業時間が過ぎると精密機械故に、保護するためフタをしていたのであろう。
2004年11月13日、16:00:26
リフト乗り場に続いているだあろう列。
私はリフトにもケーブルカーにも用はないが、こんなにも並ぶとは。
2004年11月13日、16:01:00
リフト乗り場前の広場にて、円を描くように列。
もしかすると、歩いて下りた方が早いかもしれん。
まあ、下り坂は足腰によくない。靴の準備のない女性や、足腰の弱い老人などは、リフトの方がよいだろう。けれども私にはリフトという選択肢はない。
2004年11月13日、16:21:10
そして高尾山口到着。
このあたりが、公式WRで中間チェックポイントだった場所だ。私の自主WRにとってはゴールである。
相模湖発 | 13:13 |
弁天橋通過 | 13:36 |
ペブシ休憩所跡 | 14:08 |
城山着 | 14:42 |
城山発 | 14:54 |
高尾山頂着 | 15:31 |
高尾山口着 | 16:21 |
相模湖から高尾山口まで、3時間8分かかっている。学部時代の自主WRでは2時間半で踏破したものだが、まあ3年のブランク明けで、城山でおでんなど食い、そして高尾山頂からは渋滞気味であったことを鑑みれば、まずまずのタイムと言えよう。次にやるときは、もっと人のいない時間に2時間半を目指すかな。
2004年11月13日、16:29:54
そして列車で帰途についた。
疲れたと言えば疲れた。だが、身体全体の疲れというよりは、足腰の関節、特に膝にきた。
これは帰ってゆっくり風呂に入って筋肉痛を予防せねば。
何はともあれ、私はまだまだ低山を徘徊できるとわかった。
次は誰かを誘って行きたいものである。
そして家に帰ると・・・同志諸君もまた、疲れ果てていた。
それにしても、同じ両面テープなのに、なぜにプーチンはかくも強靱なのかね。