「三笠」見学、横浜彷徨
2005年05月27日(金)


 本日は西方より関東を訪れた「変人倶楽部」主催者にして盟友のしんめい氏と、日本海大海戦100周年に合わせて旗艦「三笠」を見学する日である。「三笠」が記念艦として展示されていることは釧路在住時から知っていたが、上京してからもなかなか横須賀まで出向く機会はなかった。横須賀は、案外遠い。その意味に於いても、今回はよい機会となった。




 京急横須賀中央駅までは乗り換え3〜4回。結構長い道のりだ。その間、最寄り駅前にて購入した、新刊本を熟読する。「Gunslinger Girl」はともかくとして、平日の白昼堂々「苺ましまろ」を車内で開いて、笑いを堪える20代後半の男は、いかにも不審であったことであろう。
 待ち合わせ場所の三笠公園までは駅から徒歩15分とある。その為私は、待ち合わせ時間の30分前、つまり1230時には横須賀中央駅に着くよう出発した。だが、特快への乗り換えに失敗し、待ち合わせ時間の1300時に横須賀中央駅に到着してしまった。携帯電話のメールで遅れる旨を伝え、「ゆっくり来てください」との返信も頂いたが、しんめい氏の貴重な休日の貴重な関東行の時間を損なうとなっては申し訳ない。










 私は横須賀中央駅からかなり早歩きで三笠公園を目指した。これらの写真は、悠長に立ち止まって撮ったものではなく、カメラ片手に走る寸前の歩調で急ぎながら撮ったものである。手ぶれはそのためだ。案内にあった「徒歩15分」とは、このぐらいの歩調で急いだ場合の所要時間らしい。三笠公園には1315時に到着した。




 そして三笠公園。後で帰宅してから写真を見て気づいたが、しんめい氏は赤い矢印で示した黒い人影である。遅れた非礼を詫びて、早速合流。三笠艦内へ。




 入場券は券売機で購入。自衛官だと割引されるらしい。
 ちなみに写真では下部に辛うじて写っているが、英語表記のボタンもあった。




 これこそが「三笠」!漁港釧路で大型遠洋漁船や貨物船を見慣れた私の目には、ちょっと小さく映った。旗艦を務めた戦艦なのでもう少し大きいと思ったが、これが時代性というものか。それにしても100周年記念の日なのでもっと客がいるかと思ったが、そうでもない。まあただの平日だったらもっと人が少ないのだろうけど。




 公園内では海軍、もとい海上自衛隊の軍楽隊が演奏の準備をしていた。本格的な式典は土日の明日明後日に執り行われるのであろうか。業者のトラックがやってきて、スピーカー等の設営なんかもやっていた。




 そして、20世紀初頭の艦たる「三笠」の艦上には、いきなり海自のものとおぼしき発電機がここそこに。夜間にライトアップでもするのであろうか。




 上部構造物は再現とも聞くが、この主砲は雄々しい。




 ついつい「日本海大海戦」あたりの映画でありがちな構図で一枚。しんめい氏の銀塩カメラで、氏を私が撮影しもしたのだが、その写真は無事に撮れていただろうか。デジカメと違ってすぐに確認できないので、撮り損じしていないかと少し心配ですよ。この禁欲がデジカメの醍醐味なのだが、撮り損じのリカバリーが出来ないので、撮影者の責任は重大です。






 右舷にはエアコンの室外機が大量に。
 甲板からは見えないのだが、艦橋からはこのように。




 それにしても「三笠」の主砲は10kmとも聞くが、電探も偵察機もない時代に、望遠鏡でそんな遠くまで見えたのだろうか。当時の人々の目が現代人よりも優れていたといっても。米軍港である対岸までは2km程度だろうけど、車は見えても人はよくわからない。日露戦争当時は、4km程度の副砲の撃ち合いで敵艦の水兵が見えたというが。




 艦内にあった面妖な看板。
 「手放す」って・・・。確かに子供にはあまり安全な場所ではないのだが。




 頭上にはZ旗がはためいていた。
 皇国の荒廃、この一戦にあり。




 今日は様々な軍装に身を包んだ方々が艦内を闊歩しておられた。このような礼服の一団もいれば、第二次大戦時の海軍航空隊もおり、現代の自衛官も・・・と思ったらそれは本物の海自だった。客層は、年寄りかマニアに二分されただろうか。




 この肉厚の装甲の内部で、当時の士官将校は指揮をとっていたという。しかしこの程度の肉厚で砲弾を防げるものか。船体をぶち抜く威力の主砲弾の前にはどうしようもなく、副砲でも角度が浅くない限りは被害を受けただろう・・・ということを話していたら、年輩の夫婦に話しかけられた。ご主人曰く、窓に砲弾が飛び込んでくることはまずなかったが、出入り口から爆風や破片が吹き込んできて、一気に内部の将兵が死ぬこともあったという。随分お詳しい。奥さんの話によると、このご老人は海軍兵学校のご出身とのこと。兵学校で日露戦争の戦訓を学ぶこともあったのであろうか。なかなか為になるお話を拝聴した。
 もちろん2005年現在、日露戦争参加者は誰も生きていない。第二次大戦参加者とて、このご老人のように高齢になっている。しかし司馬遼太郎あたりは今世紀中頃に、日露戦争参加者の老人を取材していたという。時代の流れを感じますよ。




 艦内に入ると、ビデオ設備にエアコンという現代的な様相。そこでは第二次大戦後荒廃していた「三笠」が再び再建されるまでのビデオが上映されていた。そして上映終了時には、高らかに拍手をするご老人の姿も。こうした歴史的意義の高い艦は、ご老人とマニアだけのものではなく、もっと広く宣伝して人を呼んでもいいのだが。




 そして艦内講堂では上映会が。日露戦争を扱った映画のダイジェストが上映された。しんめい氏が以前訪れたときには「日本海大海戦」が上映されていたとのことだが、今回は「海ゆかば」であった。しかし今回のは編集がよろしくない。婦女子が突然出向する「三笠」に向かって何事か叫ぶが、話の筋がさっぱりわからない。これはダイジェストなのでやむなきこと。だけれどももっと問題なのは海戦のシーンだ。損傷を受けるシーンばかりで、そしていきなり大勝利に終わったとの表示が出ても、形勢不利だったはずなのに何故?と思わざるを得なかった。まあ「海ゆかば」はいずれビデオを借りて鑑賞しますよ。




 艦内の展示室には、参戦者の遺墨や歴史情勢を示した資料が大量に展示されていた。しんめい氏と2人ですべて見て、読んで回ったが、なかなかの情報量。艦内だけで2時間は回っていたような気がする。私はロシア語学習者のはしくれとして、何かキリル文字でもないかと待ちかまえていたが、結局見つけたのはこの艦名の入った帽子のヒモと、ロシア軍の時計の2つだけだった。形だけでも、もう少しロシア側の物品・資料があってもいいとは思いますよ。


 あと、私が展示品の中で興味を惹かれたのは、「経線儀」。つまり精巧な時計−クロノメーターです。考えるまでもなく、当時はGPSどころかロランもオメガもない時代。場所を知るためには星を観測して、時間と動きを計算して割り出す必要があった。その為の精巧な時計がこの経線儀だったわけか。興味深い。




 そして、艦を下りて、船体の回りを半周。
 かくして我々は「三笠」を見学して、公園を立ち去ったのである。




 三笠公園を後にして、さてこれからどうしたものかと取りあえず歩く。すると前方に米軍施設のゲートが。




 言うまでもなく軍港のものである。
 よく見たら、周囲は古い商店もほとんどが英語か英日の二カ国語表記されている。


 取りあえず横須賀中央駅から横浜駅へ。電車に乗って、政党の国防・武器輸出への姿勢についてしんめい氏と話していたら、途中の駅でご老人の一団が乗ってきた。我々はすかさず席を立って譲る。それから再び、何事もなかったかのように、つり革を握りながら川崎C1が輸出できなかったがランクルを輸出しているのはおかしい、89式小銃が20万円以上するのに、AR15やAK74は数千円〜数万円しかしないのは、日本が輸出していないからだ、などということを話しなどしていたものであった。




 そして横浜。ちっとも横浜っぽくない場所だが、ここは横浜である。横浜駅を下り立って、地図で寂れた公園らしき場所を見つけ、ここまで歩いてきたのだ。華やかで人で賑わす横浜だが、ちょっと歩けばこうした泥臭い建機や資材船が集まる場所があるわけだ。




 そして横浜駅方面へと戻ろうとすると、なかなか面妖な通りに出会した。夜は歩きたくない場所だ。自然に「実録・私設銀座警察」や「やくざと抗争 実録安藤組」の光景を思い浮かべてしまった。これに関してはしんめい氏も同様だったという。いやはや。




 しばらく面妖な通りを歩き、気が付いたら桜木町に至り、そして方向修正してどうにか横浜駅への見通しがたった頃。ショートカットしようとある踏切をわたったら・・・。




 この先はどこへも通じていなかった。駐車場だけの為の踏切だったとは・・・!
 都市はこれだから面白い。


 そして横浜に至り、外国菓子専門店を冷やかしてクワスを探し(なかったが)、紀伊国屋を冷やかして軍事モノの書籍を漁りなどしてから、しんめい氏が次なるオフ会合の相手・百万式氏との待ち合わせの時間が近づいてきた。本当は個別会合の予定だったわけだが、私はご一緒させて頂くことにした。電話連絡の結果、百万式氏からもよい返事を頂けたとのこと。たまの機会だ。いろいろな方と会っておくのもよいだろう。百万式氏への手みやげに、しんめい氏と2人で韓国製の「禅食」という変わった食い物を見繕って包んでもらいなどした。


 百万式氏と横浜駅前で合流し、飲み屋へと移動。軽くビールなど飲みながら、3人でロボットや特撮、ファミコン、それにジャンプマンガの話などをした。現在、私の周囲の人間はほぼ例外なく1980年代生まれ。しかも半ば生まれの人間が多い。その為「北斗の拳」「キン肉マン」などと言っても、「昔そういうものがあった」という程度の認識しかされない。しかしこの場ではなかなか盛り上がることが出来た。それにしても百万式氏は「メタルK」や「空のキャンパス」をご存じとは。21世紀になってからはじめてこれらの単語を思い出しましたよ。「メタルK」に関してはコミックスを持っておりますが。
 そして軽く飲んでメシを食い終えてからは、百万式氏の案内で横浜の本屋を徘徊。しんめい氏はナンセンスな前衛的マンガを好むようである。百万式氏は早速「ガンダム」関連の雑誌を買い込むなど、そのHNが伊達ではないことを知らしめてくださった。


 かくして夜は更けていき、解散することとなった。それぞれ別々の路線である。
 改札前で別れを告げて、私はお二方と別れた。
 それにしても今日はなかなか歩き、そして話した日であった。
 変化に乏しい日常の中で、こまにはこうした日があるのはよいものです。
 私は再び、朝購入した漫画を読みながら、某路線で帰途につくのであった。


 しんめい氏とは4度目の会合となったが、次の機会にはこちらから中部へ宇面へと伺いたいものであります。

 


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