びけん氏と同志の集い
2006年03月18日(土)


 学部時代の後輩・びけん氏(仮名)は、当時の所属部に於ける同志であった。びけん氏は、来年度から大阪へと派遣される。詳しくは書けるわけもないが、「飛ばされる」のではなく、競争や駆け引きに悉く勝利した上でつかんだ、大きなチャンスとしての大阪行きである。彼の壮行会は部のOB連中で開かれるが、今回は私とサシで会見する機会を持つことが出来た。出張帰りでトランクを抱えたびけん氏と、ターミナル駅で会って食事をするという、かなり無理して作って頂いたスケジュールであった。


 私とびけん氏は年齢はなぜか同じなのだが、私が1つ上の先輩で彼が1つ下の後輩である。さらに不思議なことに、私と彼とは卒業年度が同じだったりもする。この我々は、長らく部員が10人程度だった武道部が、数倍に膨れあがる変化の時代に在籍していた。その変化に対して部の運営が破綻した。それまでは、稽古後にメシを食いながらちょいと役職者が話せばほぼ全員に伝わったものだし、ちょいとした事務作業も役職者やちょいと思いついた人間が1人でやるだけで済ませることが出来た。


 そんな時代から、20人、50人へと人数が増えれば、それまでのやり方がうまくいかないのは当然であった。1998年には、カネ、労力、時間といった希少資源はひどく不透明に、不効率に浪費されるようになった。夏合宿における合宿費用の数十万もの計算ミスとその隠蔽工作、一方的な費用の値上げ、不誠実な対応に対して、クーデターの危険さえあった。さらには学祭時期においては、個々人の労力は合意の元で分担されたのにもかかわらず、最大限の時間と労力を徹底的に搾り取られた。しかもこの問題には頂点はなく、誰も責任を取らなかった。「叩けば叩くほど事態はよくなる」と勘違いした2人の人間に帰結されるのだが、相互に自己はイノセントであり、相手の意志に従ったと称した。学生時代の大切な大切な時間とカネをムダにされ、楽しむはずの大学生活に重苦しい際限のない過酷な労働を与えられたことに、部は崩壊の危機を迎えていた。


 こうした問題に対して、非合理を改めるべく1人の2年生が、行政改革に乗り出した。しかしOBや上級生幹部らは、彼の献身的な犠牲によって部を支えることを構造化・固定化しようとした。彼は、大学時代の大切な大切な、何かできたであろう時間とカネを浪費し、精神を磨り減らせ、単位さえ取る余力もなく、健康さえ害していた。この理不尽を、当時の学生の頂点もOBの役職者も固定化しようとしたのだ。いかなる犠牲や理不尽があろうと、表層的には部の物事が回っていればそれでよしとしたのだ。高価なメシをあてがって慰労と称したり、部の過去や世の中にはより厳しいことがあると称して問題を矮小化しようとしたり・・・。この、犠牲になっていた人物こそが私である。


 私は、部も後輩連中も愛していた。だから多少の負担は喜びでさえあった。だが、負担が大きすぎた。しかし分権すれば負担は小さくなったはずだ。そして何よりも、あまりにも不合理かつ恣意的で、無計画な上位者の気まぐれで場当たり的な意思決定を合理化できれば、負担は小さくなったはずだ。だが、役職の権限に手をつけること、上位者のやり方を改めさせること自体が、上位者には「國體」への挑戦と写った。


 勘違いをしてほしくないが、「生意気な奴だから潰してやろう」という悪意があったわけではない。私は彼等には、「冷酷で非人間的なことをはじめる、人格異常者」として見られたわけだ。様々な圧力を受けた。私の「非人間的な企み」を潰す為、人情に目覚めさせる為に、暴力を受けた。物理的・言論的な暴力を受け、仕事も発想も思想も、人格さえも絶対否定された。ここで起きたことを親に伝えていれば、OB役職者は訴訟の被告になっていたのは間違いない。しかし悪意故の暴力だったら、とっくに私自身が司直に訴えているし、その前に当時携行していた催涙ガスや特殊警棒で最大限の反撃をしている


 そうした闘争を行っても、OB役職者の姿勢は変わらず、同期は少しも動かず、上級生は逃亡によって変化と負担と責任を回避しようとした。これを思い知った私は、部へ労力を投資することをやめようと決意した。このまま献身的な犠牲はらって、下支えする人間を演じていたら、私は5年では卒業できなかっただろう。6年でさえあやしい。それどころか私は、抗議の為に部室にて道着を纏って柳包丁にて自決しようとさえ思い詰めていた。


 さて。破綻寸前だった部に対して、運営の合理化という種を蒔いたのが当時2年生の後半だった私ならば、その種を行政機構として育てたのが、びけん氏であった。彼がいなかったら、私の叫んだ合理化努力はすべて消滅し、上位者よりも愚かな同期によって「人情」を掛け声にしながら、思いつきと恣意のみによって部が運営されて破綻し、一斉大量退部などのカタストロフに陥っていたことであろう。
 そして現在、びけん氏が育てた我が部の行政機構は、小さな会社の管理部門を凌ぐ精度を持つ。この点では私とびけん氏の意見は一致する。そして、私が勤めていた企業の田舎営業所は、確実に部の行政機構より劣る。実社会からみたら学生のやることはすべてママゴトで、くだらないことだという声はよく聞く。そういう面も多大にあるだろう。が、焦点を絞れば、その学生のやることに劣る断面を企業に見出すことが出来るのも事実である。


 部を舞台にしたその一連の動乱。たかが学生どものお遊びと言うなかれ。当事者にとっては、生命さえ削って闘ってきたことなのだから。私には、凶器によって一生消えない疵痕まで残っている。これについて、もはやそのときの相手について今とやかく言うつもりはない。部には、暴力沙汰が発生するほどの価値が、両者にとって存在したわけだ。その意味では、このとき闘った人間は同じものをよりよくする為に闘った、戦友である。そして同じ方向に向かって共闘したびけん氏こそ、戦友の中の戦友であった。


 このびけん氏と久々に話す機会を持てたことは、私にとってはすばらしいことであった。


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