トラック諸島
2013年03月xx日(x)
ちょいとした用件で赴いていたミクロネシア連邦チューク州、いわゆるトラック諸島から、恥ずかしながら帰ってまいりました。
全島を航空母艦のように作り替えた竹島。現在は椰子が覆い茂り、当時の面影は海上からは窺えない。
WWII開戦時には日本人だけで5万人の人口を要した夏島の港湾。当時は南洋の銀座とも言われる町並みだったそうだ。コンクリートの土台が、かつて街だったことを窺わせる。
南洋庁支庁桟橋。支庁専用の物資搬入桟橋である。耳で「しちょうさんばし」と聞いたときは「輜重桟橋」と漢字変換されたが、そうではなかった。
夏島港湾からは、かつては海軍が整備した舗装道路が島を一周していた。今では泥と草に覆われている。
端には側溝の遺構が。コンクリートで舗装されて側溝まであるなんて、チューク州では今でもそんな立派な道路は存在しない。最近やっと舗装がはじまった程度。
よく足下を見ると、コンクリートが残っている部分がある。
海軍野球場。艦隊勤務では運動不足になるので、海軍では陸での運動を奨励したという。
夏島公学校跡。建物はTonoas地区行政府のもの。門柱は当時のものである。
防空壕。
娼館跡。海軍の将兵が多く上陸するということは、こういう需要もあった。陸に上がる水兵には「突撃一番」と称する品物が配布されたという。
海軍道路は届く。夏島は、チューク州の島々で唯一、島内一周道路がある島である。
台湾銀行。現在建物は、民家になっている。ちなみにここの大金庫は戦後開かずの扉となっており、開けられないままになっている。中は信用取引の文書や旧紙幣や軍票など、今ではほぼ金銭的価値のないものばかりだろうけど、資料的価値は高い、はず。
ちなみに左側に見える物は鉄道のレール。5万人の人口を擁しただけあり、夏島に鉄道を敷設する計画があったそうな。
トラック諸島では、軍人軍属はもちろん、本土へ引き上げる民間人も含め、夥しい人々が船団と共に海に沈んだ。その慰霊のために、海底から引き上げた機関銃やスクリューなどを慰霊碑とし、毎年遺族がここを訪れているという。
ダイバーが海中から引き上げた、日本軍の小銃と拳銃。
春島第二飛行場(水上機基地)跡。今ではチューク州随一の高級ホテルの敷地になっている。
水上機を陸に引き上げるための、コンクリートのスロープが海に延びている。
トラック諸島が大和、武蔵が長期間碇を下ろした、連合艦隊の一大拠点だったことは知識として知っていましたが、トラック諸島における日本人の営みは、想像以上の規模だったようです。その遺構はかすかに窺える程度だったり、今でも島民に再利用されていたりと、様々ですが、数万人が暮らした街が消え失せたことには、無常感を禁じ得ませんでした。
しかし島民たちの生活には数多くの影響が見られ、例えば「ジドウシャ」「カッソウロ(空港の意)」などの日本語は残り、さらには過半数の島民が大なり小なり日本人の血を引いているとも言われています。トラック諸島出身の現ミクロネシア連邦大統領モリ氏は、その名の通り日系人です。また、駐日ミクロネシア大使のジョン・フリッツ氏もアイザワという日本人を祖父に持つそうです。これをどう受け取とるかは、センシティブな問題になりますが。
なんにせよ、ごく短期間ではありますが、トラック諸島を訪れる機会を得られたことは幸運でした。